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●『荒野のおおかみ』
れ物に 触る気持ちの 見合い席 見透かされるや 値踏みされるや」、「長生きを すれば出会うや 大惨事 得ても虚しき 大賛辞かな」、「都会こそ 荒野と呼ぶに ふさわしき 隣人知らず 友は遠くに」、「刺青を 心に入れて 生きる糧 やがてぼやけて でたらめも言い」



●『荒野のおおかみ』_d0053294_16291195.jpg以前に書いたことがあるが、ヘッセの『ガラス玉演戯』を読み始めて挫折したのは18か9の頃だ。いずれまた読む気でいるが、6月半ばにヘッセの『荒野のおおかみ』(Der Steppen Wolf)が気になり、先月上旬に読み終えた。文庫本の細かい文字は明るい場所では気にならないが、視力は0.1か2だ。友禅染めは細かい手作業で、遠方は見えなくても困らない。本書はアメリカのロック・バンドのステッペンウルフが60年代に名前を引用し、「Born To Be Wild」(ワイルドで行こう)という大ヒット曲を放ったことでもよく知られ、当時そのことで筆者も本書の存在を知ったと思う。それでも当時『湖畔のアトリエ』や『デミアン』に続いて、『ガラス玉演戯』を選んだのは、ヘッセの最も長い小説で、ノーベル賞を得ることになった作品であったことを知ったためだ。ところが手に負えず、全体の10分の1程度で読むのを止めた。読もうとしながらそのままになっている小説はたくさんあって今後それらを読破したいが、その傍ら、新たに読みたい本が現われる。それはともかく、『荒野のおおかみ』は10代で読まなくてよかった。では現在の70歳で読んでよかったかと言えば、ヘッセが本作を上梓したのは1927年の50歳で、20年前に読んでいればなおのことヘッセの思いがよくわかったかもしれない。とはいえ、さまざまな経験を積んだ高齢になって読むほうが理解しやすいのは確かだ。本書は想像をはるかに超えた内容で、前半の陰鬱で変化に乏しい描写から、若い女性が登場する後半はがらりと世界が変わり、次々に新たな場面を眼前に繰り広げられる映画のような夢幻性は、他人の思いを一切気にせずに思いつくまま筆に任せた趣がある。こういう書き方でも小説はいいのだといったような、つまり小説の大きな可能性を目の当たりにして、改めてヘッセの才能の凄みを感じた。ヘッセは若い頃から反抗的で周囲に馴染めず、精神の危機に何度も遭遇した。本作でも同じ精神状態にあって、自殺願望のある人物ハリー・ハラーを主人公とする。本作は第一次世界大戦を経験したドイツがまた戦争を企てようとしている時、つまりヒトラーが登場して来た頃に書かれ、戦争に反対していたヘッセが自分の思いを託したハリーがどのように危機を脱するかを小説にしたと言いまとめられる。ハリーは自身を「荒野のおおかみ」と思っている。これは「世間のはみ出し者」、「アウトサイダー」で、ヘッセのような小説家や、ハリーが敬愛するモーツァルトやゲーテ、ノヴァリスなどの世界の頂点に輝く存在から、無名の画家や音楽家も含む。
 本書の構成はややこしい。冒頭に「編集者の序文」として、ハリーが下宿していた大家の女性によるかなり長い文章があって、知的なハリーのことを描写し、またハリーが残して去った文章を公にする思いを書いている。この序文の後に「ハリー・ハラーの手記 狂人のためだけに」が始まるが、やがてハリーがたまたま市中で手にする「荒野のおおかみについての論文 狂人だけのために」が登場し、それが最後まで続く。この三重の入れ子状は順に夢の度合いが増して行くが、そうではない場面もある。「荒野のおおかみについての論文」の中だけでも現実と夢が入れ替わっていると思わせる場面があり、さらには夢の中に別の夢が始まり、現実と夢の区別がつかなくなる。夢と現実が入れ替わる錯覚を言えば、小説全体が作りものであるのですべてがそうなるが、ヘッセはおそらく最後に序文を書いて、それ以降のすべてを夢物語としていわば安心して読める配慮をしたのだろう。つまり、序文がなければそれこそ狂人が書いたような内容として呆れられるとの思いがあったと想像するが、序文はハリーの側に立ってその暮らしを否定せず、その意味でヘッセはハリーを客観的に見つめることで精神の安定を図ってもいるように思える。もっと言えば、序文は小市民の中でも良心のある人が書いた形になっていて、これは本作が非難されないことの仕組みを最終段階で念入りに企てたためだろう。それでも本書は非難された。それは本書の構造があまりにややこしく、読者が細部に囚われ過ぎて本質を読みこなせないからだろう。ヘッセが本書で言いたかったことがわかりにくいと主張する人と同じほどに、ハリーの行動はわかりやすく、またそれは世間では非難されるべき薄汚れたものと見る向きもあるはずだ。それは簡単に言えば真面目なヘッセにはあるまじき性の奔放な行動が描写されていると思うからで、その非道徳性にがっかりした人が多かったのだろう。だがそれこそがフリー・セックスの60年代のアメリカでは若者に歓迎された点であり、ステッペンウルフは本書からバンド名を採用したのだが、アウトサイダーもいろいろだ。ハリーのようにいわば高次元の芸術を心のよりどころにしている者もあれば真面目に働かない放蕩者もいて、誰もが「おおかみ」的人間に心から呼応出来るとは限らない。本書の後半はそのことを中心に話が進み、ハリーはモーツァルトの天才性を理解しない南米出身のミュージシャンのパブロを物足りなく思いながら、彼を次第に受け入れ、やがて自己の殻から脱出する。つまり本書は精神の危機に瀕した50歳のひとり身の男が、別の世界のアウトサイダーと親しくなって蘇ることを描く。高橋の解説によれば、ヘッセは1942年のスイス版で「あとがき」を追加し、本書の意図を説明したとのことだが、それほどに本書は誤解されやすい刺激的な内容が後半に次々と書かれる。
 本書を4分の1ほど読み進むとアウトサイダーについてのまとまった記述がある。そこが前半部では最もヘッセが言いたいことで、それが後半部において夢の連続のような物語として説かれていると考えてよい。だがそうなると、やはり辻褄が合わないことがあって、本書全体をどう解釈していいのか戸惑う。さて、4分の1ほどのところに6,7ページにわたって書かれるアウトサイダーについての記述を筆者は5,6回読んだが、すべてがすんなり理解出来るとは言い難い。翻訳のせいもあるが、それよりもヘッセが重視している「ユーモア」がどういうものを指すのかよくわからないからだ。引用が長くなるが、かいつまんで以下書く。「さて、常に存在する人間的な状態として「市民的なもの」は、調和の試みにほかならない。人間的な態度の無数の極端と対立する二つのものの間に調和された中間を見いだそうとする試みにほかならない。……一方の道は聖者に、精神の殉教者に、神への自己放棄に通じている。他方の道は放蕩者に、本能の殉教者に、腐敗への自己放棄に通じている。市民は両者のあいだのほどよい中間で生きようと試みる。市民は決して陶酔にも禁欲にも、自分をささげようとも捨てようともしないだろう。……彼の理想は献身ではなく、我の保存である。彼の努力は、聖者になることにもその反対にも向けられない。絶対ということは彼には耐えられない。……市民はそれゆえその本性上、生活衝動の弱い生きもので、およそ自分自身を犠牲にすることを恐れてびくびくしており、御しやすいものである。だから市民は権力のかわりに多数を、暴力のかわりに法律を、責任のかわりに投票手段をきめた。」ところで、佐々木マキの絵本『やっぱりおおかみ』では市民社会を構成する兎や羊、豚や牛の群れが描かれ、彼らが生活する市中に黒いシルエットの一匹の狼が「け」と言葉を吐きながら放浪する。その絵本を小さな子どもはどう反応するのだろう。筆者が同絵本を知ったのは80年代半ばで、原画を見たのは98年に兵庫県立近代美術館での展覧会だが、その時に買った額絵を大いに気に入り、長らく部屋にピン留めしていた。同絵本の出版は73年と思う。佐々木がさすらう狼を主人公として絵本を作るきっかけが何であったかは別にして、狼は古くから童話によく登場し、またヘッセの小説の題名をそのまま名づけるロック・バンドが有名になった数年後の同絵本の出版であることは興味深い。弱者が群れる市民社会に馴染まない孤独孤高な狼を描くことに、狼をある種の神に祀り上げる意味合いが感じられる。簡単に言えば、格好いい存在で、自分は臆病な多数派に属さないとの矜持がある。だが、現実問題としてその狼が何を食べて生きるかと言えば、市民を時に襲わねばならず、市民社会と無関係でいることはあり得ない。
 本書から引用を続ける。「この弱い臆病な人間が、非常に多数存在しているにもかかわらず、自己を維持することができないこと、その性質によって、この世界では、自由にさまようおおかみのあいだの小羊の群れの役しか演じえないだろうことは、明らかである。しかもなお、非常に強い性質の人間が支配する時代には、市民はたしかにすぐ壁に押しつけられるが、決して滅んでしまいはせず、ときには世界を支配する観を呈するのを、われわれは見る。それはどうして可能であるか。その群れの数の大きさも、道徳も、常識も、組織も、市民を没落にたいして救うに足りるほど強くはないだろう。生活力の強さがはじめからひどく弱まっているような人間を生きながらえさすことは、この世のどんな薬をもってしてもできない。しかもなお市民階級は生きている。強く栄えている。――なぜ?」この下りは『やっぱりおおかみ』にそのまま描かれている。ヘッセは続ける。「答えはこうだ。荒野のおおかみたちのおかげだ。実際、市民階級の生活力はけっして普通の市民仲間の性質にもとづいているものではなく、市民階級がその理想のあいまいさと伸縮性のゆえに包含することのできる非常に多数な局外者(アウトサイダー)の性質にもとづいているのである。市民階級の中には、常に強い野生的な資質の人が多数いっしょに暮らしている。われわれの荒野のおおかみ・ハリーは特徴のある一例である。市民に可能な度合いをずっと越えて個人に発達した彼、冥想の喜びを憎悪と自己憎悪との暗い喜びと同様に知っている彼、法律と道徳と常識とをけいべつする彼は、しかもなお市民社会に強制拘禁されているものであって、そこをのがれることはできないのである。こうして真の市民階級の固有の大衆のまわりを、人類の幅広い層が、無数の生命と知性とが取り囲んでいる。そのすべてが市民社会から逸脱しており、絶対者の中に生きる使命を持っているのであろうが、発育不全な感情によって、市民であることに執着し、市民らしい生活力の弱化にいくらか感染し、やはりなんらかの形で市民階級に踏みとどまり、それに従属し、義務を負い、奉仕しつづけている。市民階級にとっては、偉大なものたちの原則とは逆な原則が通用するからである。すなわち「自分に反対しないものは、自分の身方だ!」というのである。」この最後の言葉は意味がわかりにくいが、市民階級に狼的な人は多く、また狼的人間は市民を脅かさない限りにおいて市民からは味方であると思われるということだ。そこで『やっぱりおおかみ』に戻ると、狼は市民からは見えない存在のシルエットとして描かれていて、これはもはや市民にとって狼は恐怖の存在ではないことと、それでもなお市民の意識の中では狼が生きていて、文字での説明はないものの、前述の「法律と道徳と常識とをけいべつする」、あるいは疑う意識が人間に必要であることを示唆している。
 続きを引用する。「そこで荒野のおおかみの魂を検討すると、彼は、高度の個体化によって非市民たるべき運命を負わされた人間であることを示している。――高度に行われた個体化はすべて自我に反対し、自我の破滅に陥りがちだからである。彼は聖者にたいしても放蕩者にたいしても強い衝動を内に持っているが、なんらかの弱体化と惰性とから、自由な野生的な世界に飛び込むことができず、市民社会という重い母なる大地に縛りつけられているのを、われわれは見る。……大多数の知性人、芸術家の大部分はおなじ型に属している。彼らの中で最も強いものだけが、市民世界の雰囲気を突破して、宇宙的な境地に到達する。そうでないものはみな、あきらめたり、妥協したりして、市民社会をけいべつしながら、それに所属し、結局は生きのびうるためにそれらを肯定せざるをえないことによって、市民社会を強化し、讃美するのである。このことはこれら無数の人々にとって悲劇とならないまでも、まったく容易ならぬ不幸、悲運となる。しかしその地獄で彼らの才能はきたえられ、創造的になる。そこから脱出した少数のものが絶対的なものへの道を見いだし、讃美すべき形で没落する。彼らは悲劇的な存在である。その数は少ない。これに反し、他のものたち、すなわち束縛された状態にとどまっているものたち、市民社会からしばしばその才能に敬意を払われているものたちには、第三の国、空想的ではあるが優越した世界、すなわちユーモアが開かれている。平和を失った荒野のおおかみ、たえずおそろしく悩んでいるもの、悲劇に、星の空間への突入に必要な弾力を拒否されているもの、絶対的なものへの使命を感じているが、その中に生きることはできないもの、そういうものたちには、その精神が悩みのうちで強く弾力的になれば、ユーモアへの和解的な道が開かれるのである。生粋の市民はユーモアを解する能力を持たないが、ユーモアは常になんらかの形で市民的であう。ユーモアの空想の領域内であらゆる荒野のおおかみの複雑な多岐な理想は実現される。すなわちそこで、聖者と放蕩者を同時に肯定し、両極を曲げてくっつけるばかりでなく、市民をさえもこの肯定の中に引きこむことができるのである。……世の中を無視するかのように世の中に生き、法律を尊重するが、それを超越し、「所有しないかのように」所有し、断念でないかのように断念すること、――高い人生哲学のこういう好ましい、しばしば定石化されている要求を実現することは、ただユーモアだけにできることである。」ここで言うユーモアが具体的にどういうことを指すかはわからない。ユーモアが大切であるとするならば、本書にそれが表現されているべきであろう。ヘッセは写真からは真面目一徹に見え、ユーモアに欠けるとまでは言わないが、笑みがユーモアの発露と思っていたであろうし、ヘッセの顔にそれは馴染むし、笑顔の写真もある。
 ヘッセはハリーについて次のように書く。「ユーモアの才能も素質も欠いていない荒野のおおかみは、息苦しい地獄の混乱の中にあっても、この魔法の飲物を煮つめしぼり出すことができたら、救われただろう。それにはまだ彼には多くのものが欠けている。しかし可能性や希望はある。彼を愛し、彼にかかわりを持っている人は、彼のためにこの救いを願うだろう。それによって彼はたしかに永久に市民社会の中に踏みとどまることになるだろうが、彼の苦悩は耐えられ、実を結ぶことになるだろう。市民世界にたいする彼の関係は、愛憎いずれにせよ、感傷性を失い、この世界に束縛されていることも、屈辱としてたえず彼を悩ませることをやめるだろう。」この予言的な言葉のとおり、ハリーは街をさまよいながらある人物に出会い、これまで経験したことのないダンスや音楽、薬物やセックスに触れ、自殺願望から脱する。離婚してひとり暮らしをする著述家の50歳のハリーがいわば都会の暗部の世界に入り込み、そこでモーツァルトやゲーテとは全然異なるジャズやダンスに開眼することを、当時の読者が非難したことは理解出来る。1920年代は現在の都市文明の完成期で、本書に書かれることは「現在」の出来事として読んで何ら不都合はない。ハリーが経験したことは今の「パパ活」と同じで、自分の年齢の半分以下の若い女性ヘルミーネにダンスを強制的に教えられ、彼女や彼女の知り合いの女性とも性交渉を持つ。当時彼女らのように昼間は働き、夜にダンスホールで金のある好みの男を見つけて体を売る女性は珍しくなく、そのことも現在と変わらないが、ハリーはヘルミーネと最初に出会った時、彼女から同類と見抜かれる。つまり彼女にとって生き方に悩むハリーはきわめて知的ではあるが、ダンスのひとつも踊れない世間知らずの朴念仁で、手玉に取ることは簡単であった。ただしヘルミーネはいつかハリーが自分を殺すという予言をハリーに伝える。これが本書の半ば辺りだ。その後ダンスホールつきのバンド・リーダーのパブロも登場し、本書の後半はパブロに導かれてハリーは「どこでもドア」が無数に並ぶ部屋に案内され、いくつもの別世界を順に体験する。その一方で当時公開されたハリウッド映画『十誡』についての感想を書いたり、銃を手にして次々と人を殺す経験をしたり、またモーツァルトやゲーテと会って問答を繰り広げるなど、筆の赴くまま書き散らした感もある。ただし、モーツァルトとゲーテの登場は前述の「ユーモア」を理解する鍵でもあろう。ハリーはまたパブロに向かってモーツァルトの音楽をどう思うかと議論をふっかけるが、パブロはその場その場で管楽器を吹いて演奏し、みんなを楽しませながら踊らせることで満足していると言って、まともな議論にならない。そしてハリーは酒場で出会ったヘルミーネの導きによってダンス音楽で踊る快感を覚え、やがてパブロを肯定する。●『荒野のおおかみ』_d0053294_16565052.jpg ヘッセは1877年、オットー・ディックスは1891年生まれで、14の年齢差がある。ディックスは本書で書かれる黒人のジャズ・バンドや夜の女の世界を赤裸々に描き、またそういう世界に馴染むことで精神的危機から免れていたのではない。ディックスはヘッセと違って第一次世界大戦に従軍し、その悲惨な経験をそのまま描くことで、精神のバランスを保った。ディックスには愛する妻子があったので、ハリーのように自殺願望を抱く暇がなかっただろう。ディックスはまた売春宿に通う男や殺人者としての自画像も描いたが、作品にはしばしばユーモアがある。それは黒い色合いをしており、チャップリンのようにヒトラーを風刺するまでになるが、そのディックスの過激さからすれば、ハリーは50歳という年齢もあってか、自己の沈潜から脱するために、同じく世間のはぐれ者であるパブロやヘルミーネと出会い、彼らからユーモアの精神を授けてもらう必要があった。これはそれまでのヘッセの小説が通用しない世界になっていたことと、ヘッセは自分の若返りのためには若者の別世界を垣間見る必要があったことを示している。もっと言えば夜の風俗の世界は忌避されるばかりではなく、そこには「荒野のおおかみ」たちがたむろし、彼らが持っている市民社会性を一度忌憚なく見つめる必要を自覚したのだ。繰り返すとそういう夜の不道徳性を必要悪として嫌悪する市民は今も大勢いて、本書が非難されたことは当然な気もするが、先に引いたように、市民社会は「荒野のおおかみ」的な人は大勢いて、それゆえにあたりまえに南米から移住して来たミュージシャンのパブロや、彼と懇意になる若い女性はいくらでもいた。同じことはここ百年繰り返されて来ている。話は少し脱線する。筆者が染色工房にいた30代、アルバイトでごく一時期いた若い女性がある日、筆者に訊ねた。よく通っているダンスホールのバンドのギタリストがフィリピンから出稼ぎに来ている若い男性で、彼女はどうやら彼と懇意になったのはいいが、肝心なことの意志疎通が出来ないので、筆者に英語で仲介してほしいと言うのだ。その後のふたりがどうなったか知らないが、本書のパブロとヘルミーネのように、その時だけの花火のような関係で、何かが形として残ることはなく、本人たちも消えて行った。同様のことは今この瞬間にも無数に生じている。ではパブロやヘルミーネがハリーから蒙った恩恵はなかったのかという疑問が湧く。ハリーはパブロやヘルミーネに救われたが、後者はハリーのような精神的危機を抱えつつ、毎晩刹那的に生きて未来を考えないのか。そのことが本書で書かれないのは、ヘッセが自分のことで精いっぱいで、一方モーツァルトやゲーテを崇拝する確信があまりに強固で、いわばパブロやヘルミーネは出会っている時だけの関係にであったからだろう。
 本書にはショパンやブラームスについても書かれ、ハリーのモーツァルト崇拝が強化される。また精神性を重視するあまり、現実を凝視しないドイツ民族の欠点にも触れる。それでハリーはモーツァルトとゲーテに出会い、ふたりはいとも軽やかな表情でハリーの詰問を受け流して真剣に相手をしないのだが、そこには人生を深刻に考え過ぎないようにとの教訓をハリーに学ばせるヘッセの意図がある。つまりハリーはふたりの天才的巨匠からもユーモアを学ぶという筋立てだ。ハリーが生々しいジャズ・バンドの音色と若い女性との流行のダンスに開眼させられることは、「荒野のおおかみ」的に生きるミュージシャンや性を売る女性を同類として見られるようになり、ユーモアを理解したためだ。かくてハリーにとってモーツァルトの音楽とパブロのジャズはともに大切なものとなって、人生を肯定できるようになり、そこで本書は終わる。これは前述した「彼らの中で最も強いものだけが、市民世界の雰囲気を突破して、宇宙的な境地に到達する。そうでないものはみな、あきらめたり、妥協したりして、市民社会をけいべつしながら、それに所属し、結局は生きのびうるためにそれらを肯定せざるをえないことによって、市民社会を強化し、讃美するのである」からすれば、ハリーは後者に属することになる。一方、ヘッセは後にノーベル賞を得るので、「最も強い宇宙的な境地」に達した存在であるとみなしてよい。ハリーはパブロがいるダンスホールで放蕩者がいることを知るが、そういう人物が芸術を理解せず、必要ともしないと断言することは出来ないまでも、ハリーのような知性はなく、また著述の才能もない。パブロは演奏の才能があり、ヘルミーネは若さと人の本質を見抜く力がある。ただし、パブロの音楽は消耗品で、演奏の瞬間のみ人を楽しませれば充分目的を達している。ヘルミーネはいい男を見つけて結婚すればいいが、そのままではすぐに老いて無名のうちに没する。それでもたとえばハリーを力づけたことで存在価値があったとヘッセは言いたいのだろうか。ディックスは売春婦を常に醜悪に描いた。もちろんそうでない若い美女もいたろうが、性を不特定多数の男相手に金に換えることは商品だ。それは絶えず量産され、消費されて役目を終える。消費はモーツァルトの音楽も同じであったし、本書もそうだが、きわめて優れた構築物でなおかつ代替物がない創作は、宇宙的境地に達して光り輝き続ける。もちろんそれをパブロの演奏やヘルミーネの笑顔とセックスに認める人もあろう。そのことをヘッセは夜の享楽の世界に踏み込むことで改めて学び、本書を書いた。当時ヘッセは二度目の離婚を経験したばかりで、別の女を求めて夜な夜な彷徨したのではなく、本書から4年後に三度目の結婚をする。長年彼女と文通していたそうで、ヘルミーネは彼女が投影されているのだろう。
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by uuuzen | 2022-08-01 23:59 | ●本当の当たり本
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