「
癩が治癒 奇蹟起こして 崇めらる トリックなしの トリックスター」、「まじないに 馴染まない今 暇はなし マジにないなと なまじい言いし」、「山路来て やましい爺の 悩ましさ 隅に置けない すみれ摘もうか」、「庭隅の 刈り草のうえ とんぼ飛び 蝉鳴きやみて 雷の音」

昨日の続き。ではなく、「続き」は来月に回して今日は「続きの続き」の位置づけでモンゴルの「匈奴ロック・バンド」を自称する「THE HU」というメタル・バンドの曲を取り上げる。「Hu」は「息子」の意味で、「モンゴルの息子」と思ってよいとのことだ。3年前に発売されたデビュー・アルバム「The Gereg」を買おうと思いながら、今のところYouTubeで視聴するだけだが、その視聴回数とコメント数の多さに驚く。今日取り上げる曲は代表作で、
オフィシャル・ミュージック・ヴィデオは3年間で7580万回に達している。来日公演はないのかと調べると、2年前に企画されならがコロナで中止になった。となればまた期待出来ると思っていると、今年3年ぶりに開催されたフジ・ロック・フェスティヴァルに一昨日出演との記事を見た。演奏の評判がどうであったかを調べていないが、人気があれば今後単独ツアーがある。「匈奴(英語で「HUNNU」)」というえらく古い民族名を持ち出して来たもので、古代史に詳しくない人は戸惑うが、筆者はその部類だ。ガリマール社の美術叢書『形態の宇宙(人類の美術)』では当初のマルローの計画とは違って『スキタイ』の1冊が最終段階で発刊され、ヨーロッパの文化人の間では「スキタイ」は無視出来ない存在であることを思わせる。それはペルシアと同様、ヨーロッパ文明に大きく関係するからだ。つまり「スキタイ」は視野に入っても、「匈奴」まではそうではない。スキタイと匈奴は同時期にあった国家ではないが、ユーラシア大陸の西と東の草原に開花した文明で、また匈奴はスキタイほどには美術の歴史において重要なものを残さなかったという見方があるので、『形態の宇宙』でも取り上げられなかった。だが、どの民族の文明も発掘によって明らかになることはない。日本はその代表だ。天皇の陵墓は発掘されず、古代に関して不明なことが多い。チンギス・カンの墓もそうで、おおよその場所はわかっているようだが、チンギス・カンの思いを受け継いでモンゴル人は地面を掘ることや発掘を好ましく思わない。となればスキタイのように副葬品は出土せず、美術史に組み込まれることもない。これは公にされていることだけが価値があるとの見方に異議を呈することであって、歴史はいくらでも書き換えられることを意味してもいる。つまり、匈奴という紀元前の国家を背景にするモンゴルは、造形の歴史では特筆すべきものを持たなかったという見方は間違いであって、地面を掘れば何が出て来るかわからない。
匈奴とチンギス・カンとでは1500年以上の差がある。後者が広げた領土は人類史上最大で、「The Hu」が紀元前に遡る国家の匈奴と強大な国家を造ったチンギス・カンのふたつに憧れを抱くのは、モンゴルのバンドとしての矜持と、世界に打って出るには独自性の必要を考えたからだ。民族の本質をいかに他国に伝えるかという過程においては、世界の多くの人が享受している都市文化、言い換えればここ百年における西洋文明の要素を併せ待つ必要がある。それは下手すれば無国籍的風味つまり雑多な印象が強いものになるが、それを好む人は少なくない。日本で世界の民族音楽がよく紹介されるようになったのは戦後で、アメリカでも戦後にインド音楽がアラン・ホヴァネスの紹介などで広まり、それが60年代のロックに取り入れられるようになった。1970年の日本万博では世界の民族が使ったものを集める機運が生まれ、それが国立民族学博物館の設置となったが、同館では民族楽器も収集している。欧米には戦前からその類の施設はあるが、柳宗悦が戦前に日本や朝鮮、沖縄の民俗芸術の価値を見出して収集したのは、20世紀に入っての都市文明の発達の一方で急速に失われて行くことを危惧したためだ。それはさておき、先進国における民族音楽の紹介は大作曲家が先鞭をつけ、その傾向は20世紀に目立つようになった。ストラヴィンスキーやバルトークは自国の庶民の音楽の要素を積極的に取り入れ、さらに自国以外の音楽にも目を向けることは加速化した。それを表面的な剽窃として評価に値しないとの見方を、純粋に民族ないし民俗の音楽を好む人はするだろうが、表面的な剽窃かそうでないかの区別は常に簡単であるとは限らない。それに剽窃であっても面白ければよいという鷹揚さを人は本来持っている。面白ければ盗作でも許されるのかという疑問はあるが、そこにはパロディの意義もあって、簡単には片づかない問題がある。モンゴルでは日本のギャルを真似た若い女性グループの音楽がそれなりに人気を博しているようだが、そのことを日本の物真似として評価するに当たらないかと言えば、面白ければいいのであって、またその面白さが何であるかを分析することで日本のギャル・グループとは一線を画す独自性が認められるかもしれない。そのことは「考現学」で扱われる問題でもあるだろうし、また年月をある程度経なければ本質が見えて来ないと言えるが、簡単に言えばネット社会になって世界中から得られる情報の引用、結合が自在となり、そこに国や地域、個人のアイデンティティがどう関係するかで、文化ないし作品の多様性が現われることになった。もちろん、そういう混血主義を歓迎ないし仕方なきものとして享受する一方、根源的なものを重視する態度がある。そのことが戦後日本における世界の民族音楽の紹介ブームをもたらした一因でもあるだろう。
話題転換。生前のザッパの最後のアルバム『ダンス・ミー・ジス(これを踊ってみせて)』に「ウルフ・ハーバー」と題する5楽章の大曲がある。それを挟む形で冒頭と最後は
コンガル・オル・オンダー(Kongal-Ol Ondar)のホーミーの歌唱を含む曲が置かれる。「ウルフ・ハーバー」が何を意味するかは同曲に歌詞がないのでわからない。「Wolf‘s Harbor」ではないので、「狼の港」と直訳するのは気が引けるが、狼が安心する場所との意味で、ひとまず「狼のアジト」と訳しておくが、ザッパ唯一の「狼」の単語を含む曲名であり、なぜザッパがこの言葉を用いたのかという興味があり続けている。ザッパは92年にオンダーが渡米したことを知り、早速自宅スタジオに招いてホーミーの歌唱を録音したが、その時以前に「ウルフ・ハーバー」はすでに完成していたとして、題名まで決めていたかどうかだ。つまりオンダーとの面会後、ザッパはチンギス・カンの「蒼い狼」に示唆されて「ウルフ」を用いたのではないかとの想像だ。あるいはザッパは一匹狼を自認し、その思いが最晩年になって「ウルフ・ハーバー」の曲の調べに似合うと感じたための題名か、それとも「ウルフ」はザッパが嫌悪する共和党の政治家やそれとつるむ俗物たちの悪だくみを風刺しての言葉かもしれない。つまり「ウルフ」にどういうイメージを抱くかで、曲名、曲調の捉え方が異なって来る。チンギス・カンを「蒼い狼」と呼ぶのは褒め称えてのことだ。日本で「おおかみ」すなわち「大神」と呼ぶのも同じ考えにより、古今東西、狼には善悪の両面が付与される。ホーミーはステップに生まれた独特の歌唱法で、それがなぜ生まれたかについては研究がなされているだろう。羊を飼って生活を支えるステップの人々にとって狼などの猛獣は敵とみなすべきだが、狼の遠吠えを聞くと、狼にも生きる権利があり、過酷な状態でぎりぎりに生きている彼らに同情する思いも湧くのではないか。ホーミーは風に乗れば狼に聴こえると思うが、その声を聞くと狼は家畜には近寄らないだろうし、管楽器を吹くより手っ取り早くて便利だ。ともかく、ホーミーは広大な草原生まれであり、背後に狼のイメージがある。それはさておき、日本でもホーミーは昔からよく知られていたが、オンダーは92年のホーミーの国際コンテストで有名になり、欧米でもてはやされることになった。それは民族衣装を着ての純粋な民族音楽家としての歓迎である一方、ザッパやベラ・フレックなどの有名ミュージシャンから共演を求められ、そこに「The Hu」の登場が予告されてもいた。オンダーはモンゴル北東に隣接するトゥヴァ共和国出身で、同国はロシアに含まれるが、匈奴やチンギス・カンの時代では現在のモンゴルとは一体で、そのことは彼の面貌からもわかる。朝青龍似のその顔は「The Hu」のリード・ヴァ―カリストにも似る。
「The Hu」はモンゴル国に限らない「匈奴」や、チンギス・カンか築いた国土を念頭に歌っている。モンゴルは本来「内モンゴル自治区」も含み、また西部で接する「新疆ウィグル自治区」はチンギス・カンが支配したこともあって、オンダーのホーミーもモンゴルのものと言ってよい。そこにはたとえばロシアによるウクライナ侵攻に口実を与える問題が潜む。いつの時代に遡って領土を主張するかという問題だ。ウクライナがロシアのものであるとする考えが正しいのであれば、シベリアはモンゴルのものであるとの考えもそうならざるを得ない。つまり、ユーラシアはモンゴルであって、モンゴルは世界最大の国になる。現在人口が330万人の少なさで、絶滅に瀕している国家と言ってよいが、昨日書いたようにロシア、中国以外の大国との関係を良好にし、人口は増加中だ。その勢いに乗じて国家の矜持を表明しているのが「The Hu」と言ってよい。その音楽は日本でもさんざん演奏されて来たヘヴィ・メタルで、耳新しいのはホーミー張りのだみ声によるヴォーカルと馬頭琴やモンゴルの打楽器を使う点だ。今日はYouTubeで80歳頃のポール・マッカートニーがビートルズ時代とその後のソロ時代の曲をいくつか選んで説明する映像を見たが、エレキギターで大きな音を奏でることの楽しみをビートルズ以降の若者は覚えたとの発言は興味深い。ポールはそのことでロックの普遍性を言うのだが、人間が電気を使うことを覚え、アンプやスピーカーは必然的に生まれて来たのであって、誰が最初にロックを発明したかという問いを遠ざける。より大きな音を目指してロックは進化し、そのことは60年代末期に頂点に達したが、「The Hu」のような民族楽器を使うメタル・バンドは初めてのことで、大音量が欧米の模倣であるという理由で彼らの音楽を過小評価することは避けるべきだろう。ただポールはこうも言った。「普通は1曲ヒットすると似た曲を2,3続けて発表するが、ビートルズは同じような曲は書かなかった。」 これは正しい。ビートルズをさんざん聴いた中学生の筆者が思ったこともそれで、ある表現者の作品がどれほど多様性を持っているかで筆者はその人物の実力を判断するようになった。創作者は同じことをするのを嫌う。金儲けが目当てであれば、同じことを主にするほうが思考も労力も少なくて済む。ただし、この「同じこと」にも幅がある。ビートルズの音楽を聴いて、ある人はどれも同じに聴こえると言うだろう。それはクラシック音楽でも同じで、バッハとモーツァルトの区別がつかない人のほうが圧倒的に多数派だ。そのため、ポールの意見は、ビートルズの全曲を詳しく知っている人のみが同意可能であって、その伝で言えば、「The Hu」の音楽がどれも似ていると筆者が書くと、「まだ充分に聴いていないからだ」とファンに言われるだろう。
そのことを承知のうえで、やはりどういう変化が今後望めるのかという疑問が湧く。ビートルズ以降のポップスはすべてビートルズを参考にしたものと言ってよい。これはビートルズの全曲を分析し、その特徴を列挙したうえで、それらの多くの要素を混ぜ合わせるとビートルズ的な曲が出来るとの考えで、実際そのようにして日本のミュージシャンも模倣して来ているし、その流れは今後もなくなりようがない。簡単に言えば、ビートルズの音楽を詳しく知っている者にとっては退屈で、それで筆者は日本のニューミュージックと称される音楽を聴きたいと思ったことは一度もない。そこで「The Hu」を持ち出すと、彼らには「匈奴」やチンギス・カンという先祖への崇拝、言い換えれば信じている神のごとき対象がある。ところが日本ではそういうことを心に抱くポップスはなく、きわめて刹那的であって、今この瞬間のみが心地よければいい。それゆえ、作品はすぐに新たなものに取って代わられ、一時の流行、消耗品の運命をたどる。もっと言えば「子どもの文化」で、戦後の日本は子ども相手に金儲けする連中が跋扈して来ている。そこにビートルズが自己模倣しなかったという創作家としての矜持を解いたところでほとんど意味はない。そんなことより、いかに金になるかが大切だ。日本のニューミュージックはすべてその考えのうえに咲き、これからもそうだろう。何が言いたいかと言えば、「The Hu」のような音楽は日本からは生まれにくいことだ。欧米の有名ミュージシャンを尊敬し、そのコピーや似た音楽を演奏することは得意だが、その模倣の奧にどれほどアイデンティティを主張する矜持があるかと言えば、もともと中身が空っぽでは何もないのがあたりまえだ。ただし、その空っぽさこそが現代最先端の人間のありようというシニカルな見方にしたがえば、評価は正反対になる。ファースト・アルバムを出した「The Hu」が今後ビートルズのようにアルバムごとにカメレオンのように作品を変化させるかどうか。筆者はそこに関心はありつつ、どう転んでも彼らの音楽はさして変わらないと否定する気持ちの一方、これまではなかった新たな音楽が生まれる可能性もわずかに思う。「わずか」というのは、メタル音楽に限らず、大衆音楽はここ百年の間にあらゆる要素が出尽くしたと考えるからだ。都市文明はどの国でも同じで、市庁舎や駅、ホテル、スーパーやタクシーなど、生活に欠かせないものが必ずしかるべきところにあって、またそういう場所ではそれにふさわしい音楽がある。「The Hu」の音楽が興味深いとすれば、モンゴルという地方性で、それが取ってつけたような不自然さではないところに大きな魅力がある。日本に三味線や琴を前面に押し出したメタル音楽があるのかどうか知らないが、あっても日本で人気を得ることはないだろう。

「Wolf Totem」はいかにもモンゴル的なようだが、狼は欧米にもいるし、日本にもいたので、この題名には普遍性がある。つまり「The Hu」がモンゴルのアイデンティティをことさら主張していると受け取る必要はない。この曲の歌詞は自分たちに攻め込んで来る者は徹底して戦って排除するという内容で、プーチン大統領のように他国に攻め入る好戦性を示していない。攻め込まれれば命を賭けて戦うのがあたりまえで、その本能を「The Hu」のメンバーは風貌からして充分に持っている。オフィシャルの映像では草原にバイクに乗った男たちが集まる場面から始まる。かつては馬を駆った男は今は大型バイクで、彼らは狼のたとえに見える。そのとおりで、歌詞には「チンギス・カン」が登場する。「The Hu」はチンギス・カンの末裔を自認し、国土とその文化を愛し、そこには「Wolf Totem」がある。民族、部族として連綿と伝えて来たものを中心とする思考で、その共同体への意識はどの国の人々も本能的に欲しているものだろう。孤独な人たちが集まる新興宗教やネットのSNSもそれに該当する。だが、モンゴルのストリート・チルドレンはどこに所属出来るか。ブータンでも同じで、大学を出ても就職口のない者がちょっとしたはずみで薬物に手を出し、一生そこから抜けられない社会問題が深刻化している。その社会の負の面に目を向けると、「Wolf Totem」の題名は宗教の題目のように救いがあるように見えつつ、その集団にも属せない孤独な若者がいる現実が思い浮かび、この曲も普通のロックと同じように、やがて色褪せ、一過性の色物であったとみなされかねないことを想像してしまう。それで「The Hu」のライヴを見たいと思う人は、このバンドの何に注目しているのかという疑問が湧く。歌詞と楽器がトーテムを表わすとして、そのトーテムから他の部族は排除されている。それぞれの部族、民族が独自のトーテムを持っていると言いたいところだが、百年前に出現した都市文明がそれを壊し、日本でも独自のトーテムはほとんど消滅したか、あるいは祭りの中でどうにか一時的に生まれる。そう考えると、「The Hu」は都会人には眩しく、羨ましい存在だ。帰るべき場所や部族がない人にとってはそうで、彼らは狼のような孤独を抱えながら、何か思い切ったことで鬱屈した思いを発散させたかがっている。日本の元首相を狙撃した犯人は、宗教に馴染めず、母から見捨てられ、孤独を復讐心に変えて生きる意味を見出そうとした。彼が銃弾を製造したアパートは「狼のアジト」すなわち「ウルフ・ハーバー」と言ってよいが、彼には部族の歴史や一体感を示すトーテムへの意識は皆無だ。浮き草のような人生はいつの時代にもあり、現在はそれが急増中ではないか。ところで蛇足ながら、筆者はビーフハートの
「人間トーテムの1010日目」を聴きながらこれを書いた。
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