「
与えらる 金が足りずに 伸び止まり 並みが思うは 世の波高し」、「猛虎との 当て字使えば まだましと 仁義好かぬか ジンギスカンは」、「もう来ない 蒙古敗れて 怖くない 小悪蠱惑に 今夜困惑」、「文句言う 門戸開けよ 門徒たち 異端痛しと 言いたくはなし」
5月29日に民族学博物館で見た展覧会について書く。モンゴルにさして関心があるのではないが、「みんぱく」の企画展は昔からなるべく見ようとしている。当日は家を出るのが遅く、午後4時に会場に着いた。展示物は多く、閉館までの1時間ではやや足りず、2階の展示は半ば流し見した。撮影は許されていたので、1階の大きなカラー写真が並ぶ壮大な様子を撮ろうと思いながら、時間を気にしていたこともあって、撮ったのは2枚だけとなった。今回の企画展は「日本・モンゴル外交樹立50周年記念」で、この半世紀が短いのか長いのか、モンゴルについての情報があまり紹介されない中、節目としてモンゴルの今昔を主に写真の比較で概観することは大いに意義がある。チラシは見開きで、外側は今日の最初の写真のように、100年前と現在の若い女性の肖像写真を左右に置く。白黒写真は1909年撮影の貴乃花に似る「ウルガの女性」で、フィンランド人が撮った。北欧を中心としてヨーロッパの探検家がモンゴルに入り、写真を撮り、本展ではそれら各コレクションの紹介が主に2階の展示でなされた。1世紀前のモンゴルはそれ以前と比較して当然ながら人々の生活に変化はあったが、現在までの1世紀における変貌とは比較にならないほどわずかで、また穏やかな変化であったろう。同じことは日本でも言える。1世紀前に外国人に撮影されたモンゴル人と風土を、現在のモンゴル人が撮影した写真と見比べることで変貌途上にあるモンゴルの現状を知り、そのことから日本その他の国の現在と今後を考察する機会が得られる。ただしそれはあまりに多岐にわたり、しかもどの国の地勢や気候、人口密度、歴史の違いがあって、たとえば現在のモンゴルが1世紀前に比べて大きく発展したと見るとして、その陰に昔にはなかった問題を抱え込むことになっている現実も知る。そのどちらを重視するかで現状肯定になるか、昔がよかったとの回顧主義になるかに分かれるが、現実を昔に引き戻すことは不可能で、現実の不具合を過去と照らして改善することしか出来ない。そしてその作業に威力を発揮するのが1世紀前の写真と言える。たとえば前述の「ウルガの女性」は写真を見る人によっては貴重な情報源だ。髪型、その飾り物、帽子や衣裳の刺繍や形など、実物が残っていなくても、この写真から実物の色合いは別として多くのことがわかる。それよりもまず目が行くのは顔だ。この女性の顔は日本でも貴乃花など、とてもよく似た人物がいる。そのことはチラシのもう片方の2016年撮影のカラー写真「ある少女」でも言える。
アジア人の赤ん坊には「蒙古斑」と呼ばれる青い痣が臀部にある。成長とともに消えるそれがモンゴル由来との命名は、たとえば本展チラシの1世紀前と現在の女性の顔から納得が行く。ただし、「ウルガの女性」と「ある少女」がモンゴルの新旧の一般的に見られる女性の代表とは言えない。「ある少女」の顔は1世紀前にもあり、「ウルガの女性」は現在もあるはずだ。その見方の一方、やはりそれなりに代表的な顔つきを写真家が選んだと見れば、別のことが推察出来る。モンゴルの女性の顔の典型が、1世紀の間に「ウルガの女性」から「ある少女」に変わったとの見方で、そのことに何が大きな原因として見られるか。話は少し脱線する。日本のTVドラマのたとえば主役を演じる男優は、筆者にはアホ面に見えて仕方がない。たとえば漱石を演じる俳優がいるとして、漱石がどういう顔をしていたかは何枚もの写真でよくわかり、それらから伝わる知的な文豪のイメージは、現在のどのようなイケメンと呼ばれる俳優とは絶対的に異なる。現在の男優の顔には漱石の時代にあった知的さがない。したがって知的な人物を演じると滑稽になる。きれいな顔をした男優ほどそうで、現在の日本では漱石のような顔つきは絶滅している。1世紀の間に日本は腑抜けになったと言ってよい。あるいはそうでない者はまだまだ大勢いるはずだが、世間に出て来ない。そういう人物の顔つきは目立ちたがり屋の俳優やミュージシャンにないのがあたりまえで、1世紀の間に一般人が歓迎する男女の顔つきが変化した。それは表面的に美形であればよしとする風潮ゆえで、したがって巧みな化粧や美容整形が是認され、内面は二の次とみなされる。一方、1世紀の間に食べ物が変化し、それが理由で顔の形が変わって来た。顎が小さいために口腔が狭く、硬い食べ物を好まない。そうなれば思考に影響するのは当然ではないか。「ウルガの女性」と「ある少女」を見比べても同様のことが推察出来る。えらの張った四角い顔より細い顔が好まれる傾向はアジア全体にわたっているだろう。そのことを思って本展のチラシの2枚の女性写真が選ばれたかどうかわからないが、1世紀を隔てたモンゴルの女性ふたりの顔を見比べると、1世紀前のほうがモンゴルらしく、現在の顔は国籍不明性が増した。同じことは日本にも言える。その国籍不明性を文化交流の必然の結果として好意的に見るか、その反対の立場を採るかは人それぞれだが、アイデンティティの観点からは現在は国の固有性は希薄になり、またそのことが歓迎されていると言える。本展はそういうところまで、あるいはそういうことを考えさせる。「蒙古斑」からすればモンゴルはアジアの大きな故郷だが、その地が1世紀の間にどう変化したか、またせざるを得なかったかに思いを馳せるきっかけと言い換えてもよい。
筆者は小中学校でモンゴルを「モンゴル人民共和国」として覚えた。ソ連がなくなった後、国旗や首都はそのままで「モンゴル国」となった。日本と外交が始まったのは50年前の1982年、ソ連崩壊以前となるが、八方美人的に周囲のどの国ともよい関係を持とうという考えがあったのだろう。四方が他国と陸続きで、そのため戦前は満州との国境を巡って日本と対立し、戦いがあった。ちなみに手元の121冊から成る週刊朝日百科『世界の地理』では1985年にモンゴルは紹介され、「内モンゴル自治区」と「モンゴル人民共和国」に分けて記載がある。前者は中華人民共和国に属し、後者が本展で対象になった領土だろうが、記述は4ページで、台湾の6分の1程度だ。それほど日本と馴染みが薄いのは、国土が日本の4.1倍もあるのに人口が180万人であることから納得出来る。ただし、人口は現在330万人に達しているはずで、40年でほぼ倍増した。『世界の地理』によれば、ゴミ砂漠にも草が生え、草原が占める国土だが、7、8月は雨が多く、草の背丈は高くなる。標高は最低が523メートルで、全土の4割が1000から1500メートルにある。日本のTVのスマホのコマーシャルに、モンゴルの円形テントの「ゲル」に住む若い男女がスマホで連絡し合う様子を演出したものがあって、85年と現在とではモンゴル人の生活が大きく変化したことがうかがえる一方、『世界の地理』における記述や写真が現在も通用していることも想像出来る。『世界の地理』に記述されない大きな変化は、朝青龍や白鵬を初めとして力士が日本の相撲界支え始めたことだ。朝青龍は1980年生まれで、モンゴルと日本が外交を樹立したことから日本で関取になる道が開かれていた。またその相撲界へのモンゴル勢の活躍もあってか、モンゴルへのODAの第1位は20年ほど前までは日本であった。モンゴルに隣接するのはロシアと中国で、両国の政治や文化の影響を受けるのは仕方がない。ソホーズ、コルホーズのソ連式集団農業が営まれ、その形態は今も続いていると思うが、ソ連が解体してからは中国が威力を増し、「一帯一路」の政策もあって中国の経済圏に巻き込まれ、モンゴルの輸出先は中国が9割を占めるようになった。ところがモンゴルはしたたかで、韓国、日本、アメリカ、ヨーロッパの西側諸国とのつながりも重視し、経済援助を受けて地下資源の発掘に邁進し、言葉は悪いが先進諸国にとって「利用価値」が大いにある国になっている。だが誰でも想像出来るようにそういう国になれば汚職はさらにはびこるであろうし、国民の間に経済格差が生まれる。朝青龍はモンゴルで政治家になって大儲けしているようだが、いずれモンゴルの若者が横綱になっても収入が他のスポーツに比べて少ないと思えば力士に見向きもしなくなる。つまり、相撲界からモンゴルの経済事情もある程度はわかる。
ウランバートルは「赤い英雄」の意味で、これが誰を指すのかと言えば社会主義国家を目指した1924年であるから、ソ連のスターリンと考えるのが妥当ではないか。「統一教会」問題で知ったが、評論家の有田芳生の「芳生」がスターリンのファースト・ネームの「ヨシフ」から命名されたとのことで、日本でのスターリン崇拝は戦後にも及んでいた。それはともかく、モンゴルの首都は今も「赤い英雄」のままで、それを新たな名称に変えないのはロシアと摩擦を引き起こさないための配慮だろうか。本展で知ったが、ウランバートルにはチンギス・カンの巨大な座像が政府の壮大な横長の建物の中央に設置されている。チンギス・カンこそが「赤い英雄」との意志表示に感じられ、またその場合の「赤い」はソ連の国旗の色であった社会主義の象徴ではなく、領土を前人未踏の規模で拡大したチンギス・カンの活力を指すと言い換えることが出来る。スターリンとは比較にならないほどの大物の英雄を現在のモンゴルが神のように讃えることは、周辺の巨大な国に囲まれて独立性を保ちながら発展を目指す場合には大いに効果的で、ロシアや中国はそのことを非難出来ないだろう。800年も前の英雄であり、また現在のモンゴルがどう頑張ったところで、チンギス・カン時代の勢力を取り戻すことは不可能と見るからだ。本展の1階に展示された現在のモンゴル写真は、チラシの「ある少女」も撮ったB.インジナーシ(Injinaash Bor)で、1989年生まれの男性だが、モンゴルに外国人観光客を呼ぶことを目的としない、つまり観光用に美しい風景をもっぱら撮影する写真家ではない。そのため、本展では急速に経済成長したモンゴルのひずみも紹介した。そのひとつはウランバートルのいるストリート・チルドレンで、国民の半数は貧困状態にある。また日本と同じショッピング・モールには世界中の食べ物が販売され、最新ファッションの若者がたむろしている。ロシア、中国、日本や韓国、アメリカにヨーロッパと、つながりがあるゆえに世界中の料理が集まっている。そのことは日本と同じと言ってよく、車が溢れ、高層ビルが建ち、一部だけ見ればモンゴルは先進国と変わらない。そのことが外国人観光客にとって魅力的に映るかどうかは即断出来ない。国籍不明の最新の文化が若者にもてはやされているとして、それはやはり一部であって、依然として「ゲル」に住む住民、つまり牧畜はなくならないからだ。ただし『世界の地理』に、「働き手だけが家畜をつれ、季節に応じた牧地に出向く態勢、つまりトランスヒューマンス(移牧)を採用するようになりつつある」と書かれているように、定住化は進み、その後さらにその傾向が強まったであろう。とはいえ、鉄筋コンクリートの建物の湿気を嫌い、相変わらず「ゲル」に暮らすことを好む住民が多いことが本展で紹介されていた。
豊富な地下資源に物づくり技術が持ち込まれ、新たな産業を生むことが目論まれているが、工場に勤務する人が増えれば牧地はどうなるのかの問題が生まれる。だが、1平方キロ当たりの人口密度は1985年の1人未満から2人に増えたとはいえ、億単位の人口にならない限り、日本のような高密度にはならず、電力も原発を造る必要はない。そのため今後も遊牧中心でのんびりとした生活を享受出来るかと言えば、ウランバートルではどの国家の都会と同じ問題が生じている。ここで思い出すのはブータンの若者に広がる薬物汚染だ。大学を出ても働き口がない、あるいは都会に出て来ても望みがかなわないといったことをきっかけに手を出す薬物にいつの間にか中毒になる事例は、ウランバートルでも起きている、あるいは今後は目立って起きるだろう。それは都市特有の問題として1世紀前の欧米にあったことだ。そう考えるとウランバートルの現在は予想どおりで、退屈と言えなくもない。だが、そこに宗教がどういう役割を果たすかという問題ないし希望がある。今日の2枚目の写真は『世界の地理』の掲載されるウランバートルのラマ教寺院での撮影で、立っている女性は本展チラシの「ウルガの女性」と瓜ふたつであるのが興味深い。左端に寝そべる高齢者はラマ教の礼拝である五体投地をしている最中で、同じ場所でその動きを繰り返すことは合理的でしかも運動には最適に思えるところが面白い。3枚目の写真はチラシ見開き内部にある。フィンランドのS.パルシが1909年に撮影した「草原の若者たち」で、素朴さが生々しくて凝視させられる。4人の雰囲気は俳優が真似しても出せないだろう。写真は時代性を刻印し、そのことは年を経るごとに重みを増す。4枚目は本展会場で撮った。離縁された後夭折した高貴な女性で、面貌が「ウルガの女性」のようにモンゴルらしくない。チンギス・カンの血の遺伝子は多くの人々に受け継がれているとされるが、逆にヨーロッパの血がモンゴルに混じったこともあり得る。モンゴルも西の端ではその傾向が強いはずで、モンゴロイドの特徴も一言ではまとめられない。『世界の地理』には、映画で夕闇迫る草原で狼が羊を襲う場面を見る観客が一斉に舌打ちし、涙を流す人もいて、都市化の若者でも牧畜と人のつながりが失われていないことが示唆される。チンギス・カンは「蒼い狼」と形容される。ステップを駆け巡って東欧まで勢力を広げた彼が現在のウランバートルを見ればどう思うだろう。欧米のここ1世紀の都市文化の影響を受け、なおかつモンゴルを忘れない。その独自性の保持は本来どの国でも望むところだが、そのことが虚飾性をどう排除するかが重要であるとして、何が虚飾であるかを見定めることは世代間の相違に関係する問題でもあって、模倣から独自性がやがて生まれる可能性を考慮することは必要だ。本展はそのひとつの実験ないし実践の例を示唆していた。
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