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●『アイム』
事積もり 大事に至る こと知らず 匙投げ恥じぬ 半端人あり」、「愛は忌む 愛に夢みつ 愛はなし 愛の無意味に ああ今意編む」、「空き家増え ホームレス増え キャンプ増え どこで寝ようが 夜は明けるや」、「野良犬が 住めぬ世間の クリーンさは がんじがらめででたらめだらけ」



●『アイム』_d0053294_02122458.jpg今盛んに問題になっている「統一教会」は「統一協会」が正しいそうだが、キリスト教の団体であれば「教会」でよく、また「教義」があるということだ。韓国にはキリスト教が仏教以上に広がっているのかどうかは知らないが、釜山でもソウルでも十字架を掲げる教会がよく目につき、その建物の数は日本の数倍以上ではないだろうか。もっとも、筆者が生まれ育った大阪市内でもキリスト教会はぽつぽつとあって、わが家の近所にも小さなそれがあったことを思い出す。今もあるのかどうか知らないが、西洋風の木造の建物で、玄関の扉などを白いペンキで塗り、夏場は特に印象的であった。統一教会とは違って本流と言っていいのかどうか知らないが、韓国のキリスト教が勢力を拡大して大阪市内に出現したのは70年代からではないだろうか。今では大きく建て直されている場合もある。一方、百年以上の歴史を誇るキリスト教会ももちろんあって、梅田曽根崎の大阪中央病院前にあった聖パオロ教会で家内は会社の命令で英文タイプを学んでいた時期がある。その教会のファサードの画像をネットで探しても出て来ないが、筆者はよく覚えている。会社の仕事が終わった後、家内とのデートのために何度かその教会の前に行ったことがあるからだ。その趣のある外観の教会は中央病院の移転とともに80年代半ばに茶屋町に移転し、全く違う四角いビルに収まった。これは以前書いたか、書こうとして忘れたか記憶にないが、20年ほど前、大阪の東洋陶磁美術館から天神橋筋商店街に向けて冬の夕暮れに歩いていると、通りの北側にあるキリスト教会から大きな音楽とともにミサが聞こえていた。扉が空いていたので玄関前に立つと、女性の司祭が聖書の文言を唱え、うつむいた労働者風の男性数人の背中が目に入った。その教会はいつの間にかなくなり、10年ほど前にネットで調べると天下茶屋と山王の間辺りに移転したことがわかった。ホームページに中年の女性司祭の写真があって、天満から移転した年度も書かれていた。古い教会から出世した感じで、大口の寄付があったのかと思った。そのホームページを先ほど探すと見当たらない。教会の名称を覚えておらず、また阿倍野区界隈のどのキリスト教会も該当せず、狐につままれた感じがする。家賃が払えなくなったか、司祭が亡くなって閉鎖されたのかもしれない。先の聖パオロ教会の70年代の写真もネットにないことからすれば、その移転した教会の運営が続かず、ネットからも消えたことは大いにあり得る。人も建物も存在はごく一時期だ。なくなればほとんどすぐに忘れさられる。
 商売でも後継者がいなければ運営は止まる。寺でも事情は同じだ。数十年間あったものが消え、なかったものが新たに出来たりする。筆者は日本と韓国のキリスト教の派閥がどうなっているかに多少関心がありながら調べないままでいるが、まずはカトリックとプロテスタントに分かれるという簡単なことでもないことは統一教会からもわかる。キリスト教に限らず、宗教は信者を取り合いすることになると思うが、ドライに言えば「より金を得るため」だ。今回の「統一教会」がらみで、キリスト教の信者は収入の10パーセントを教会に寄付するということをTVで知り、なるほどと思いつつ、驚きもしている。収入の1割の寄付となれば、貧しい人は信者にもなれない。ところが前述の天満にあった女性司祭の教会は金持ちが集まるような雰囲気ではなかった。それで移転先が天下茶屋界隈になったことはうなずける。より貧しい人が住む地域であるからだ。「統一教会」はそう言う信者を受け入れているのだろうか。つまり身寄りがないホームレスすれすれの中年以降の人々だ。ところで、前述の聖パオロ教会で家内が英文タイプを学んでいた頃、筆者は先輩に連れられて天神橋6丁目にあったスナック「タイガー」にしばしば飲みに行った。そこのママさんが先輩の父親の愛人で、先輩と筆者はいつも無料で酒を2杯ほど飲み、次の店に出かけた。その店はいつ訪れてもカウンターに突っ伏した中年男性が2,3人いた。彼らはママと親しく話すのでもなく、本当に寝入っているのでもなく、意識朦朧の状態で水割りのお替りをしていた。薄暗い店内には熱帯魚の水槽があり、泳ぐ魚と彼らの姿を交互に見ながら、設計会社に働き始めて間もない筆者は彼らの境遇が理解し難かった。彼らはサラリーマンではなく、近隣の商店の主であったのだろう。商売がうまく行かず、半ば絶望して飲んでいたのかもしれない。ついでに書いておくと、先輩は10代の終わり頃に美人と西成で同棲を始めたが、彼女が熱心な創価学会員であったことと性に不感症気味であったことで先輩は嫌気が差し、半年ほどで別れた。「タイガー」がいつ閉店したのか知らないが、同店のあった天神橋筋商店街の脇道の暗さは40数年後の今も同じで、「タイガー」のカウンターに突っ伏していた男性と同じような中年は今もいくらでもいる。彼らの孤独を癒す存在が酒しかないのか、あるいは宗教があるのか、もちろん現実はさまざまだ。それでも天満にあったキリスト教会の内部をわずかに覗いた経験から言えば、宗教は持たざる者を救う場として確かに機能している。筆者はホームレスを援助する人々を尊敬するが、そういう人々を紹介するTV番組が先月上旬にあった。たぶん再放送と思うが、大阪のホームレスを支援するNPOがクラウドファウンディングで資金を募って作った写真集『アイム』の撮影者の何人かを取材した内容であった。
 『アイム』はホームレスに25枚撮影可能な使い捨てのフィルム・カメラを手わたし、何でも好きなものを撮って来てもらい、撮影後に5000円の謝礼と交換にカメラを受け取るという取り決めに応じた13人の写真をまとめたもので、ホームレスになる前に写真撮影の趣味をそれなりに持っていた人が選ばれた。各人とも撮った中から7.8枚が選ばれている。デジカメと違って25枚限りであるので、撮影者はそれなりに被写体の選択と構図は考えている。またフィルム写真のアナログの持ち味は写真集としてまとめられると、じんわりと染み込む迫力がある。大げさではなく、森山大道並みの現実感に溢れ、また美しい。写真集であるので一度見れば充分な気もするが、1か月ほど間を開けて見直すとまた違う味わいがある。写真集が作られた経緯を紹介する前述のドキュメンタリー番組を見れば『アイム』の購入の必要はあまりないと言いたいところだが、『アイム』にその番組ないし撮影者全員の生活を撮影したDVDがついていればもっと写真とホームレスの理解のためにはよかった。それほどに優れたドキュメンタリー番組で、『アイム』の存在をさらに多くの人が知ることになったはずだ。筆者は遅ればせながら、若い世代がホームレスの生活援助に尽力し、またホームレスに表現行為を通じて人生の意味を再確認させる企画に感動し、即座にアマゾンに注文した。西成には5,6年前にとある女性が貧しい高齢者に造形作品を手掛けさせる施設があった。現在も活動しているのかどうか知らないが、若い女性が孤独な高齢者に手を差し伸べる行為は『アイム』につながっている。だがこういう話はたとえばホームレスと同世代のたいていの人たちは「自己責任」の決まり文句を発して同調を遮断する。ホームレスが「汚らわしい堕落者」という思い込みをすれば気楽であるからだ。一歩間違えば誰でもホームレスになりかねない世の中ではないか。ニューヨークのマンハッタンでは家賃が5000ドルで、普通の人がいつでもホームレスになり得る。今朝のNHKのTVで、ニューヨーク市長と親しいニューヨークのホームレスの代表が紹介された。彼はキリスト教会が用意しているホームレス用の一時的な避難場所では根本的な解決にはほど遠く、格安でいいので住宅をまず世話すべきと訴えていた。5000ドルの家賃が払える人は日本では何パーセントいるか。一方、ホームレスは田舎に引き籠れとの声があるのかもしれないが、ニューヨーク生まれでは同地を離れたくないだろうし、離れても生活が改善するとは限らない。むしろ人口の多いニューヨークにいればさまざまな援助が受けられやすい。同じことは大阪の西成のあいりん地区にもおそらく言える。関西では同地がホームレスの吹き溜まりのような評判が定着しているからでもある。だが、巨大な豪華ホテルがオープンし、ホームレスは目立たない存在とされつつある。
 同ドキュメンタリー番組で紹介されたホームレスは望んでそういう境遇になったのではない。立派な企業に勤務し、中国に赴いて現地の人を指導教育していたようなサラリーマンでもそうなる。父親の看護のために退職し、しかも父が抱えていた1500万円の負債を肩代わりしたことで離婚し、やがてホームレスになるしかなかった。その男性の子どもが父親の面倒を看ればいいではないかとの声があろうが、インタヴューでは明かされない多くの事情があるはずだ。同じ世代と思うが、バブル期にシャツの両方のポケットに百万円札の束を突っ込んで豪遊したという男性は、河川敷か公園の端か、青いビニールシートや段ボールなどで小屋を建て、そこでひとりで自活している。毎朝早く起きて自転車で空き缶を集めて売りに行くのだが、その作業や応対ぶりの様子は、礼儀をわきまえ、とても明るく、自分の力で納得行く生き方を伝える。生活保護にはかからないという矜持が規律正しい生活を支え、またその中でささやかな幸福を得ている。彼が自転車に空き缶を満載して買い取り業者に運ぶ場面は感動的だ。雨の日はどうするのか、自転車がパンクして倒れた時はどうするのか、そういう最悪の事態を抱えながら、元気で誰にも迷惑をかけずに生きている姿は嘘だけらの政治家の何百倍も輝いて見える。聖人とはそういう人を指す。その人はいつ野垂れ死にするかわからないが、それは誰しも同じで、誰もが部屋の中で家族に囲まれて死ぬとは限らない。害獣のように散弾銃で殺される元首相もいて、どういう人生が幸福かの絶対的判断は出来ない。筆者がその空き缶集めのホームレスで興味深かった点は、札束を乱舞させていた時と現在のどちらが幸福かは一概に言えないことと、現在その人は茶目っ気もあり、小動物に対する愛情もあり、また何より恥を自覚し、見栄もあることだ。彼が撮影した写真に、雀が集まる様子を捉えたものがある。筆者も毎朝雀に古米を与えているのでわかるが、彼ほどに雀に信頼されて間近で撮影出来ることはきわめて稀だ。彼は雀の生態を観察し、生まれて間もない雀が食べ物がなくて死んで行くことを知っている。そこには小さな命に対する慈しみがある。『アイム』は黒の表紙で、下部に縦半分ほどの写真を印刷した袋状の覆いがある。それは数種類あって、筆者は雀が集まるものがほしかったが、届いたものは別の男性が撮った黄色い花の草むらであった。話を戻して、その人は缶集めしたわずかな代金で撮影のために普段は飲まない缶ビールを撮った。見栄を張ったと本人は言う。いつもは発泡酒で、ビールは買いたくないのだ。その考えは普通の庶民と同じで、わずかでも始末しながら、喜びを得ようとする。そういう貧しい人の生活は増税のために苦しくなるばかりで、一方ごく一部の者が政治家と親しくしておこぼれを得る。自己責任ではなく、我欲だ。そんな連中がTVに毎日のように出ている。
 生活保護があるから、社会の片隅に小屋を無断で建てて住むことは法律違反ではないかと謗る人があるだろう。では、体が動く間は生活保護にかかりたくないという生き方は許されないのか。人間は落ちぶれても矜持がある。そのかけらもない悪党の権化が政治を司る地獄のような世の中だ。その空き缶拾いの高齢男性はあたりまえにまともで、しかも自分の境遇をなるべくしてなったと達観している。彼は悪いことはしなかった。ただ運が悪くて負債を抱え、家族に迷惑がかけられないので離婚して自分はホームレスになることを選んだ。その悪運までもが本人の自業自得か。ここでひとつの話を思い出す。30年ほど前、親しくしていた年配の染色を趣味とする女性がいて、彼女は知り合いの高齢で金持ちの女性が車椅子で街に出ている人を見て、「ああいう人は傍迷惑で、目障りなことよねえ」と言ったことを筆者に伝えた。同意を求めるためにその話をしたのだろう。筆者は意見を言わなかった。それから5,6年して、彼女はまたその高齢女性の話をした。「あのねえ、大山くん、いつか言ったことあるでしょう、車椅子や不具者が目障りで見たくないと言った人、その人がね、車椅子生活になって家に籠り切りになってるのよ」その後のその高齢女性は知らないが、他人から同じように思われることを恐れ、おそらく家に閉じこもったまま死んだのだろう。あるいは図々しさから積極的に車椅子で外出したかだが、その時自分がかつて言ったことを思い出したであろうか。ボブ・ディランではないが、「どのように感じる?」と訊きたい。何が言いたいかと言えば、不幸な人間を優しく見つめろということだ。他人の身になって考えてみろということだ。鼓舞ならいいが、今はSNSでも否定の断定が幅を利かしている。そうしておけばそれ以上考えずに済むから気楽なのだ。筆者はブログで時に他者の行為について厳しく書くが、その陰でずっと気にしている。相手がつぶれてしまわないようにと気持ちから毎日祈っていると言ってもよい。どうでもいい相手なら適当なことを書いておけば無難だ。だがそれでは批評にならない。そんな筆者であるので、筆者も安易に扱われたくはないが、筆者の年齢の割りにあまりに軽い人格のため、侮られやすい。まあ、そういう態度を見せる者とは縁を切るだけのことだが。話を戻すと、ホームレスはそういう侮りの無限かつ極大さに常に晒されている。したがって彼らの矜持のために『アイム』のような写真集が必要なのだ。森山大道のような完成度はないかもしれないが、生活感、実在感はこのホームレスたちによる写真がはるかに横溢している。ピンボケ写真ですら、あるいはそれゆえにさらにそうで、プロの写真家にありがちの嫌らしさが皆無だ。もっと言えばどの写真も意味があって、心から反応して撮られている。これは25枚しかないという限定感からでもある。
 そのことは一枚の撮影ごとに真に生きている実感を味わうことであり、それは一日を充実させて生きることにつながる。ホームレスの人生は全くの無駄で、彼らはいつ野垂れ死にしても誰も困らず、むしろ社会にとっては健康的、清潔でよいと考える人もあるだろう。だが、彼らは定住の場所がないだけで、その他は普通の人と何も変わらない。不健康、不潔を言えば、繰り返すが、政治家のほうが酷いではないか。汚物の塊のような顔をした彼らに比べると、ドキュメンタリー番組で紹介されたホームレスはみなとても優しい表情をしていた。そういう人であるから、つまり欲張らずに、運命を受け入れるので、ホームレスになると言ってよいほどだ。『アイム』で紹介される撮影者の中に聴き取り文章が掲載されない高齢男性がひとりだけいる。彼はどの写真でも繁華な街中で自分が中央に立つ構図で他者に撮影してもらい、「I‘m here」と主張している。それは今では「I was here」であるかもしれないが、写真を見る人にはいつも同じ形でその男性が街のあらゆるところで地面に仁王立ちしている。それゆえ説明文は不要だ。女性のホームレスが殴り殺された事件があって、今では女性でも外で寝る羽目になる時代だが、ひとりだけ女性がいることも気になった。彼女は岡山の田舎出身で、遠距離恋愛である男性と1,2年交際し、一緒に暮らすことを乞われたので大阪にひとりでやって来たが、男には同棲相手がいた。つまり騙された。そうして引きこもりになり、ホームレス同然になった。その女性の写真に、童話の世界のような小屋を撮った美しい一枚がある。家に憧れがあると彼女は語っている。筆者は彼女の撮った写真を見ながら涙が出る。筆者に時間があれば彼女と会って話し相手になりたい。出不精で方向音痴の彼女は舞洲近くに住み、キリスト教会に通っている。そして彼女の掲載される最後の写真はその教会にあるキリストの磔刑像だ。それが朝の暗がりの中で頭を垂れ、本物の死体に見えるが、悲しく、優しい姿だ。彼女はその神様に慰められている。自分のこれまでの人生を肯定し、それは神様が導いたと信じている。そういう貧しく、運に恵まれない人のために宗教、信仰は必要だ。ところで、空き缶集めは今は流行らないそうだ。そんな苦労をせずとも、各地でボランティアによる炊き出しがあり、それらを回っていると満腹で動けなくなるという。そんな情報が駆け巡ると、やはりホームレスは自業自得で、甘やかさずにさっさと始末しろというナチのような考えが出て来るだろう。日本は空き家が急増中であるのに、一方で住む家のない人がいる。同じ矛盾は至るとこにある。ごく一部の金持ちが潤い、大多数は増税と値上げで苦しむ。そうそう、息子が4月から同居したというので、筆者と家内の介護保険料がともに一気に倍以上になって年間10万円近い。息子はほとんど家にいないのに。
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by uuuzen | 2022-07-29 23:59 | ●本当の当たり本
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