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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●『ニキ・ド・サンファル展』
先月30日に大阪梅田大丸で見た。筆者は大きな机を仕事場に置いているが、そこで毎日ワープロを使ってこのブログを書いたり、また切り絵を作ったり、それに本職もするし、また別の仕事も抱えているなど、あらゆるモノでいつもごちゃごちゃのアッサンブラージュ状態になっている。



●『ニキ・ド・サンファル展』_d0053294_1205871.jpg頭の中もどうやら同じで、今日はまたちょっと落ち込んだことがあった。すでに持っているCDをまた買ったのだ。このようなことがたまにある。いい本を安く買ったと喜んで帰ると、同じ本がすぐに見つかる。耄碌して来たかとは別に思わない。今に始まったことではないからだ。それにせいぜい1000円ほどのものなので諦めもつく。今諦めがつかず、さきほどからさんざんバタバタしていることがある。ブログに展覧会の感想を書く時にはチラシを必ず傍らに置くのに、今日は初めてそれがない。だが、こうして書き始めて何となくわかって来たが、チラシは入手していないと思う。それならば展覧会に行った時もらってくればよかったが、てっきりあると思って、手わたされたものを突っ返した。仕方がない。その代わり、手元にはおそらく日本初のニキ展の図録やチラシがある。図録には展覧会に行った日の書き込みがある。1986年11月7日だ。大津の西武百貨店の6階ホールで開催された。今回の展覧会はニキの没後初の回顧展だが、充実した内容ではあったものの、86年展で受けた印象をあまり越えなかった。だが、初期の油彩画が展示されるなど、初めて見るものがあった。それに最大の見物は射撃絵画の制作時に使用された白いつなぎ服だ。この服を着てライフルを持つニキの写真はとても有名だ。1962年、まだ32歳だったが、ニキはとても美人であるし、体の線がはっきりと浮かび上がるつなぎ服にブーツという堂々たる姿を見れば、誰でもすぐにファンになるだろう。フェルト製だろうか、そのつなぎ服がそのまま壁にぶら下げられているのを見ると、ちょうど蝉の脱け殻のように生々しかった。ところどころにわずかに絵具の飛沫が付着している割りには汚れはなく、まるで中身が入っているかのようにふっくらとしていた。ニキは20年前はまだまだ健在で、その後95年には『ニキ・ド・サンファル 美しい獣』という映画が作られたり、日本にニキの美術館が出来たりとますます有名になって来たが、2002年に72で亡くなった。20年の年月は大きいが、筆者にとっての今後の20年はきっとものすごく早いはずで、それを考えるとこんなブログなんかで暇潰しをやっている暇はないのだが。
 10数年前、京都の四条烏丸の交差点東北角を北に5分ほど歩いたところに「ティンゲリー」というレストランがあった。この名前を聞いてぴんと来る人は現代美術通だろう。筆者がジャン・ティンゲリーに関心を抱いたのは20歳になるかならない頃だった。その名前を持つ店が地元京都に出来たから驚いた。オープンして間もない頃、一度だけ夜に家内と一緒に食事に行ったことがある。もちろんティンゲリーの彫刻が目当てであったが、店がなくなった今、あの彫刻はどこへ行ったのだろう。今ならニキの彫刻を置く方がファッショナブルで、若い女性たちがたくさん訪れるに違いない。ティンゲリーではあまりに渋過ぎて、店の評判も一定以上には広まらなかったはずだ。落ち着いた雰囲気で食事が出来たのに惜しい。帰りがけに記念に好きなマグカップを2個選ばせてくれたが、そのうちの1個は今でも使用している。ティンゲリーには何の関係のない無地のものだが、シンプルなのが使いよい。そのティンゲリーがニキの夫で、一緒に生活して作品も一緒に作ったことがあることを86年の展覧会以前に知っていたが、写真を見ただけでも好感が持てるティンゲリーとニキが暮らしていたことは何だかとても似合いの夫婦のようで嬉しくなる。格好いい男と格好いい女、しかもどちらも天性の芸術家となると、最高に絵になるではないか。ニキは正規の美術教育を受けておらず、そのことを欠点のようにティンゲリーにこぼすと、ティンゲリーは芸術で大事なのはハートだと言って勇気づけた。アカデミックな教育は確かに大切だが、美術におけるアカデミズムの範囲は曖昧なもので、自分でよいと思えるまでやれば本当は充分なはずだ。学校で学ぶ必要などないと考える自由もあるだろう。芸術大学を出ていないにもかかわらず、ニキの芸術はオリジナリティが高く、素人っぽい技術と思わせながらも、実は素人では出来ない。石膏デッサンを何年もやっていたならば、あのような芸術は生まれなかった。最初から自分の思うように描き、作り始めたのがよかった。そして飛んでる姉ちゃんに見えながら、ニキは精神を病むほどに繊細かつ純粋な神経を持っていて、そのことが作品に嘘を混入させなかった。公募展用の作品づくりにいつも追われ続けている日本の多くの芸術家のような人生とは違ったことがよかった。日本でニキのような作家が登場が期待し得るだろうか。きっと美人を鼻にかけてTVに頻繁に登場し、タレント活動をしながら画家などと称してうまく人生を泳いでいく程度の人物になるのが関の山か。いや、日本にもニキのような立派な女流の芸術家はいるはずだが、光を当てられないだけなのだろう。
 今回の展覧会は6つのセクションに分けられていた。1「初期の作品」、2「射撃絵画」、3「ナナ-ニキ・ド・サンファルの女性像」、4「版画作品とポスター」、5「夢、心の中の世界、愛と葛藤」、6「タロットガーデンと神話的世界」で、油彩、水彩、版画、アッサンブラージュ、資料など計100点の出品だ。これらは主にニキが晩年にドイツのハノーファ市のシュプレンゲル美術館に400点ほど寄贈したものと、栃木県那須郡にあるニキ美術館から借りたものだ。ニキ美術館は1994年に開館した。立体40点、平面400点を所蔵し、常時100点ほどを展示する。館長はYOKO増田静江という人で、今回の作品の中にニキが描く彼女のイラストもあった。86年展の図録にはニキに寄せる多くの著名人の文章が収録されるが、増田氏の名前は奥付けにのみ写真提供者として登場している。当時すでに日本にニキの美術館を建てる考えを抱いていたのだろう。これは想像だが、60年代に華々しく前衛芸術家として登場したニキは、女性開放運動の草分け的存在と言えるから、そうした部分に共鳴してニキの作品をたくさん購入して援助をし続けたのかもしれない。それが正しいかどうかわからないが、日本にニキの立派な美術館があって、その館長が女性となると、ニキの活動は女性を勇気づけるものであったとみなせる。ニキは1930年にパリの裕福な家庭に生まれ、ニューヨークのサクレ・クール女子修道院に学んだ。18歳でモデルとなって「LIFE」誌の表紙を飾ったこともある。19でハリー・マシューズと駆け落ち結婚し、20歳頃から油彩画などを描き始める。1952年にパリに戻り、俳優学校へ通い、女の子を生むが、重い神経症(一種の精神病)で入院し、治療の効果を知って絵を再開する。56年からオブジェやレリーフ、アッサンブラージュを始める。59年にはアメリカのジャスパー・ジョーンズやロバート、ラウシェンバーグから影響を受け、ティンゲリーを通じてパリの前衛芸術家と交流を始めた。今回の「初期の作品」のセクションでは1952年から59年までの間に描かれた5点が展示されたが、数は少ないながらも初期の作風がよくわかる。「お座りください、マダム」(1952-54)は顔の描かれないマネキン人形のような人物がふたり描かれ、「お祭り騒ぎ」(1953-55)でも同様の人物が多数登場し、色彩はより派手になって70年代以降の作品に通ずるものを感じさせる。顔のない人物は後の「ナナ」という立体作品に共通するもので、ニキの全生涯の作品がごく初期の油彩画に収斂すると思える。もちろん各時代の空気を敏感に感じ取って作風はより洗練されて行くが、根底にあるものは変わらない。ただし、初期の油彩をそのままやっていても行き詰まったかもしれず、からりとした原色主体の色彩のナナ像を作るようになってから本当のニキが登場した。だが、それが単なる一時の思いつきからではなく、最初期の作品に原型がある点で、ニキは巨匠の条件を満たすように力強くそして大きく成長して行った作家と言える。
 「ピンクのヌードとドラゴン」(1956-58)や「女性の自画像」(1959)は絵具のほかにコーヒー豆、ビーズ、小石、陶片、瓶の蓋などを使用してレリーフになっており、絵画がより具体的なモノによって立体作品に近づきつつあることを示唆しつつ、射撃絵画以降のアンサンブラージュ作品を生む土壌をも見せている。「ドラゴン」に代表される怪物的な存在はニキの作品にしばしば登場するが、これは父親に代表される男の象徴だ。ニキの芸術活動の根底には父親に対する憎悪と呼んでよいものがあって、1973年には『ダディ』という映画を作って、男(=父)に対する挑戦ないし訣別を表現している。射撃絵画もそうした思想から発したもので、銃で撃たれるのは男性的な存在だ。今回展示されたが、1961年にニキは「標的絵画」を美術館に出品した。これは元恋人の所有物である本物のワイシャツとネクタイを着せられた男の頭部が白黒の同心円の「標的」で表現されていて、それに向かって観客はダーツを投げることが出来た。この作品がヒントになって、同年12月にロンサンの袋小路で初めての射撃絵画の実演が行なわれた。これは石膏で作ったレリーフ状の絵画の中に予め絵具の汁を詰めたビニール袋をいくつか入れておき、ライフルの弾丸によって石膏に穴が開けられると同時に中の色が飛び出させるものだ。射撃絵画は2年でやめることになるが、その間に「モンスターのハート」(1962)といったアンサンブラージュの作品も作った。これは子ども、特に男の子が喜びそうな怪獣やドクロ、飛行機や兵士といった小さな玩具をたくさん石膏でつなぎ、全体を真っ白に塗ったものだ。身長に近いほどの大きさがあって、女性が作ったとは思えないほどの迫力がある。一見すると適当に玩具などをコンバインしているように見えながら、全体をハート型に構成し、しかもどこに何を持って来るか、また何を選ぶかよく考え抜かれている。今見ても全く古びておらず、このまま発展させ続けても面白い作品が生まれたかもしれない。同様の「寄せ集め」技法の作品は「赤い魔女」(1962-3)、「カテドラル」(1962)が展示されていて、いずれもニキの心の奥のわだかまりを祓うために必要な造形活動であったことを思わせる。その意味で遊びの作り物ではなく、真に迫った何かを感じさせる。
 射撃絵画の後は友人のクラリス・リヴァースが妊娠したことに霊感を得てさまざまな女性像、すなわちナナの制作を始める。最初のナナは1965年に紙張り子に毛糸を巻き、樹脂で固めたものであったが、翌年ストックホルム近代美術館で最大のナナ像「HON」(英語でSHE)を展示して大評判を得た。幅9メートル、高さ6メートル、色彩はポップなものに変化し、一気に脱皮したニキの姿がある。仰向けに寝ころんだこのナナの股間から内部へ観客が出入り出来るようになっていて、これは大地母神のイメージを表現している。その後大小さまざまなナナ像が制作されたが、紙粘度にアクリル塗料で作られた「小さなワルダフ」(1966)の隣に、その作品から型抜きして全く同形のものを樹脂で作って別の彩色をした「ナナ」(1981)が展示されていて、ニキのこうした樹脂使用の立体もブロンズと同じように複数生産が可能なことをよく伝えていた。紙張り子製では保存に問題があるし、また売れるものがほしいというギャラリー側の要請もあってニキは版画に手がけるが、これらは独特の飾り文字とイラストによって、ナナとはまた別の魅力ある作品群となっている。実際ニキの文字はそのままパソコン上の特殊フォントとして売り出してもいいと思えるほどで、真似出来そうで出来ないものだ。また、文字間に散らされるイラストがどれもロゴ・マークとして通用するほどに完成度が高いことにも感心する。初期の絵画にあったさまざまなモノや光る金属などの貼りつけは、鋭い人にはすぐにガウディの感化を感じさせるが、80年代以降のニキはガウディのタイル貼りの技法を縦横に駆使したタロットガーデンをイタリアのトスカーナ地方に作り続けた。この費用捻出のために盛んに売れる作品を作ったが、そのために体を弱めたと言ってよい。ニキは男への攻撃から始まって、明るく楽しい作品に満ちた女性礼讃に向かったが、その芸術を見る者はみな心が温かくなる。若い頃に夢見た作品をそのまま思う存分実現して人生をまっとうした点において見事な芸術家の姿を示している。
by uuuzen | 2006-04-05 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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