「
樋は知る 流した水の 行先を 海に注ぎて 溢るるはなし」、「本物は 本にありきと 知る者は 本物のみと 本意交わせし」、「つまらなき 人と話して 和むのも 心の不思議 知る手はずなり」、「カリスマを 装う人の 小者感 真に立派な 人は目立たず」

5月28日に茨木市中央図書館に併設されている
富士正晴記念館を訪れた。筆者は次の予定があったので、展示物は撮影禁止で、ざっと眺めただけで、細かい文字による説明文はほとんど読まなかったが、今日取り上げる本の上下巻が、表紙が少々破れた状態でガラス・ケースの中にあった。富士がいつどのようにしてその本を読んだかは知らないが、ひどく感心したことはわかった。60年代後半から70年代前半のことと思うが、富士は道頓堀の古本屋の天牛書店でたまたま『サン・ミケーレ物語』を手にし、それが『ドクトルの手記』と同じ内容の本であることを知る。そのことについて書いた富士の本がすぐ隣りに展示されていた。残念ながら文章の後半は次のページにわたっていたので結末はわからず、またいつ書かれたものかもわからない。筆者が所有する富士の本にはその本がなく、入手したいが、本の題名がわからない。
『サン・ミケーレ物語』については12年前にこのブログに感想を書いた。同書の出版は1965年だ。富士がそれを古本で見かけたのは同年以降つまり52歳以降になるが、文筆家でも新刊の情報に関して詳しくなさそうであることがわかる。もっとも、『ドクトルの手記』とは別の題名で出版されたのであるから、富士は実物を手にするまで同じ内容の本とはわからなかったであろう。富士は著者の「アクセル・ムンテ」から同じ内容の本と知った。『ドクトルの手記』は表紙の下部に大きく『The Story of San Michele』と印刷され、富士はそれに馴染んでいたので、『サン・ミケーレ物語』の題名にピンと来たのだろう。なぜ『ドクトルの手記』という日本のみの題名がつけられたか。それは翻訳者の岩田欣三が医者であったからでもあろう。それに『サン・ミケーレ物語』は同じく地味でも本の内容にあまりふさわしくない。医者であるアクセル・ムンテの生涯でのさまざまな出来事、そしてそれらが次第にナポリ湾に浮かぶカプリ島の守護聖人の聖ミカエルの礼拝堂に収斂して行くことを書いた内容であるので、『ドクトルの手記』の題名はそれなりによく考えられている。富士は天牛書店で早速購入し、はやる心で帰宅に途に着いたはずで、そのことを想像しながら筆者は5月29日は日没後の安威から阪急茨木市駅までひとりで歩いた。一昨日書いたように、その4キロ1時間の歩行は少しも楽しくないものであったが、一方で筆者は富士が好きな本を手に駅から自宅まで帰る際の心持ちを想像し、いつもの見慣れた風景が違って見えたのではないかと思った。人生は殺伐としたトーンが支配的でも、パッと明るい光が差す瞬間はよくある。
ところが富士は久保文が訳した『サン・ミケーレ物語』の巻末の文章を読んで驚き、また憤慨したのではないか。そのことは前述の展示されていた富士の本の文章には書かれていなかったが、文章の後半を読んでいないので正確なことはわからない。それはさておき、富士が天牛書店に訪れていたことは面白い。筆者は60年代の末期から同店に頻繁に訪れ、よく本を買った。おそらく店主は筆者の顔を覚えていたであろう。筆者は気づかないうちに同店で富士と擦れ違っていたかもしれない。話を戻して、筆者は『サン・ミケーレ物語』が最初の翻訳とばかり思っていたが、富士正晴記念館を訪れて、『ドクトルの手記』という題名で戦前に2年連続で1冊ずつ出版されたことを知った。早速2冊を入手し、上巻を読み終え、『サン・ミケーレ物語』を読んだ時の感動が蘇った。ただし、今回のほうが感動は大きい。65年出版の『サン・ミケーレ物語』は完訳ではないからだ。もちろん筆者はそのことを知り、読了後に同じ訳者が後に全訳した本も入手したが、何となくそれは読む気になれずに今に至っている。そして今回初翻訳本を読むと、確かに言葉や活字、紙質など、いかにも昭和15年を感じさせる粗末なものだが、本は軽く、文字が大きいのでとても読みやすい。それに65年版『サン・ミケーレ物語』には収録されなかった章を含み、物語の筋が初めてムンテが意図したように完全なものとなってわかりやすい。不思議なことは『サン・ミケーレ物語』を日本語に翻訳することに尽力した近藤駿四郎や開高健がなぜ未訳と思い込み、そのことを序文や推薦文に記したかだ。近藤も開高も渡欧中にこの本の評判をしばしば耳にし、深い関心を寄せ、日本での翻訳を期待した。そして翻訳出版が決まったが、開高は『ドクトルの手記』を知らなかったのだろうか。富士が同書を出版後すぐに読んだとして、当時27,8歳だ。開高は10、11歳であるから、やはり知るのは戦後だろう。戦前のさして売れなかったはずの『ドクトルの手記』は戦後すぐに忘れ去られたが、この名著の全訳が戦争間際に翻訳されていたことに当時の文化人の眼力の強さを感じ、筆者は勇気づけられる思いがする。ところで、筆者が開高健の本で最も感動したのは1959年に出版の『日本三文オペラ』だ。開高はそれ以前に富士に会いに行き、何か面白い話はないかと富士に訊ねたところ、富士は大阪京橋に戦時中の武器製造工場跡から古鉄を奪う朝鮮人、通称「アパッチ部落」の連中がいることを話した。すると早速開高はそれをネタに小説を書き、富士は開高のその態度に立腹した。富士の人のよさが利用された形で、かくて以降の開高は急速に名声を博し、死んだ時は30億円以上の遺産があるほどに金持ちになった。一方富士は死ぬまで貧困に苦しんだが、経済的成功が作家の格の上下を決定することはない。どの世界にも要領のいい人物はいる。
今は要領よく生きることが正義とみなされ、お人好しは馬鹿を意味する。筆者も表現を利用された経験はいくつかある。ネット社会ではそんな輩は増加し、論文の盗用からたとえば映画を短く編集してYouTubeに投稿して金儲けする連中までいて、他人の業績を盗むことに罪悪感がない。それどころかみんなのためと思い込んでいる。話を戻すと、『サン・ミケーレ物語』の序文や「あとがき」を読んで富士はまたしても開高の目立ちたがりを思ったであろう。それに『サン・ミケーレ物語』の出版者と翻訳者が『ドクトルの手記』を知らなかったことはあまりに視野が狭い。だが戦争直前の出版であり、また日本では無名作家の本であるので、出版社が確保した部数の紙は最少に見積もられたであろう。フランス装で、表紙のデザインは単純ながらとても洒落ていて、富士はこの本の表紙を自著で真似したことが、展示されていた富士の本か説明文に書かれていた。それはともかく、開高は英語の原書を読み、また自分で訳す時間はとてもなかったはずだ。筆者は初版でハードカヴァーのイギリス本と近年の普及版を所有するが、原書は活字が大きく、本の体裁の貫禄からも自分で訳したい気持ちが湧く。ところが、訳す行為は英語で読んで理解するのとは別の才能を要し、そのための時間は読む時間の10倍以上は要するだろう。富士は英語を本格的に学ぶ考えがあったが、知己の学者に諭されて断念した。開高は英語に堪能であったが、日本語に翻訳した本はないはずだ。富士は開高と違って欧米での絶大な人気を知らずに『ドクトルの手記』を読んだ。いずれにしても両者とも感動したほどにこの本は素晴らしく、12年前の感想でも筆者はこれまで読んだ最高の本であると書いた。その思いは今回旧訳で読んでも変わらない。しばしば感動のあまり本を閉じ、胸にこみ上げる熱気が収まるのを待った。今日は12年前に書いた内容を読み返さずに上巻の感想を書くが、切り口はあまりに多く、とても全部は書き切れない。これは書く日を改めればかなり違うアプローチ、そして内容になることを意味している。一方で思うことは、読書は人によって感想が正反対になり得ることだ。つまり筆者も絶賛するとして、そのことで古本を探して読み終えた人が、「全然面白くない。どこが名著なのか」と否定する人も当然いるはずで、そういう臍曲がり、あるいは読書の真の楽しみを知らない人に筆者のこの文章が読まれることを筆者は懸念する。つまり、筆者は誰かにこの本を読んでもらいためにこれを書いているのではない。全くの独り言であって、それは無意味と言い換えてもよい。賛同もほしくはなく、実際筆者は誰かから「ブログを読みました」と言われることが大嫌いだ。それは孤独好きという言葉では言い尽くせない。どういえばいいか、12年前よりも筆者はムンテのことがよりわかる気がしている。特に女性に関する記述においてだ。

『ドクトルの手記』にあって『サン・ミケーレ物語』にない章は4「流行る醫者」、7「ラプランド」、10「屍体護送人」の3章で、筆者は今回初めてそれらを本来の筋立てで読んだ。どれも欠かすことは出来ず、しかもこれら3章は特に印象深い。『サン・ミケーレ物語』は本文2段組で活字は小さくて読みにくい。その点『ドクトルの手記』は本の形の割に原書と同様、とても軽く、すらすらと読み進められる。ただし、あまりに充実した内容、波乱万丈のあまり、一気に読み終えることがもったいない。どの章もムンテの観察眼は鋭く、また優しい人間に対しては限りなく同調する。医者であるので、極貧から貴族までのさまざまな階級の赤ん坊から老人までの男女に接し、しかも信仰の奉仕の精神にしたがって診療する。スウェーデン人のムンテがナポリのような温かい地域に憧れたこと理解出来るが、そこにはローマ帝国を始めとする古代文明への憧れがあった。その点はD.H.ロレンスと同じだが、ムンテは性について開放的な考えを持たなかった。『ドクトルの手記』では多くの女性が登場するが、ムンテが彼女らと情交したことは微塵も匂わせない。それどころかムンテは犬や動物好きで、家事は家政婦に任せ、女性との恋愛に幻想を抱かなかったようだ。それは出産に立ち会うなど、女性の体の仕組みに妄想を抱く必要がなかったことと、美しくて若い伯爵夫人に魅せられ、彼女の夫に見つからない夜の庭で彼女ともう少しで男女の仲になるというその寸前、梟が鳴いたことでわれに返ったという記述があるように、女性に対して貪欲になれない性質であったからだ。その理由は本を読み進めばわかる仕組みになっている。伯爵夫人は純粋無垢であるかもしれないが、それは男から強く言い寄られれば拒否出来ない軟弱性も持ち合わせていることでもある。ムンテはその伯爵夫人に言い寄る男爵が大嫌いで、やがて彼から決闘を申し込まれるが、男爵はいつの間にか伯爵夫人といい仲になり、彼女は以前の輝きを失って醜くさを醸している。そのように女は男次第で変化し、ムンテにすれば伯爵夫人は理想の女性ではなかった。またそのことを直感したので、夫人からの誘いの眼差しに一時は恋情を覚えたが、もう一歩のところで踏みとどまった。この辺りにムンテの思いはよくわかる。富士は女性にほとんど縁がなく、他者から性の欲求が異常に少ないと見られた。だがそれは正しくはない。男は誰でも性への関心はある。女性の飲み物に睡眠薬を入れたり、盗撮したり、毎日無様な事件が起きているが、富士もムンテも理性が強く、性に対する幻想を手なずけることが出来た。筆者は『ああ、あの時あの女性と変な関係にならなくてよかった』と思うことがよくある。筆者がそういう関係を持たずとも、その女性は別のつまらない男と関係を持つからだ。そうでない女性の存在をムンテは信じられなかったのだろう。
伯爵夫人とは真逆の境遇の女性として娼婦がいる。ムンテは彼女らの人生についても書いている。それは全くそのまま今の日本でも通じる。高級娼婦は別として、彼女らの人生は大概悲惨で、男の暴力に遭わねば薬物や酒で早死にする。一方、修道院の尼僧についての記述もある。ムンテには彼女らも幸福には見えない。もう少しのところでムンテは美しい尼僧と恋仲になりかけるが、厳格な尼僧長の監視下でそれは実現せず、尼僧は元の閉鎖空間の生活に舞い戻る。ムンテにしても彼女のひとりをそういう世界から連れ出すことが出来ない。信仰はそれほどに精神の深くに入り込む。ムンテもキリスト教の奉仕精神があり、無料で貧しい人を診療するが、彼はキリスト教以前のローマ時代に憧れていた。それはヨーロッパ人の知識人ではたいていそうであるのだろう。スウェーデン生まれであればなおさらアルプス以南に関心が強い。したがってムンテはロンドンでのことはあまりよく書かない。ところでムンテはパリにもっぱら滞在して診療し、財力を蓄えるが、イギリスにもよく訪れた。おそらく母国語のほか、フランス語、英語、ドイツ語、それにイタリア語を不自由がないほどに操ったのであろう。そこで『ドクトルの手記』や『サン・ミケーレ物語』の原書が何語で書かれたかの疑問が湧く。筆者が所有する原書は1929年4月の初版ではなく、30年1月の第7版で、イギリスの出版社からの英語版だ。そのどこにも翻訳者の名前がなく、ムンテは英語で書いたのだろう。スウェーデン語で書かれた本もあると想像するが、英語で書かれたことで絶大な人気を欧米で得た。また本書にはイギリスの貴族との交流も描かれ、ムンテは英語を巧みに話せた。語学が堪能であることは本書を上梓したことからもわかる。どのような医者でも本書のような豊富な物語をそれなりに経験すると思うが、感動的な一冊にまとめ上げる才能は稀だ。開高健は小説家は誰でも書けるとし、タバコ屋、酒屋、魚屋など、あらゆる職業の人が自分の世界を見つめて書けばよく、そういう時代が来ていると書いた。その意見の裏にこの本の存在があるだろう。ムンテは専門的な小説家ではないにもかかわらず、本書にはどのような小説にも負けないほどの面白い話が満載されている。そのことを富士も開高もつくづく羨ましく思ったろう。どのように逆立ちしても、ムンテのような生涯を送ってそのことを一冊の本にまとめ上げることは出来ない。本書はヨーロッパの19世紀末から20世紀初頭にかけての頂点から末端の人々までの生態を描き、しかも人々に対する愛の眼差しに満ちている。人生の楽しさと言い換えてもよい。それが百年後の今、何とずたずたになり、ムンテとは全く違う意味での孤独さが誰をも覆っている。その孤独は富士も開高も抱えたが、今では小学生にまで蔓延し、時に自殺に至らしめる。
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