「
籠城を 決め込む老いの 不便なし 用のある者 来たければ来い」、「友は酒 朝から馴染み 瞑呈す 辛き楽しき さびしき悲し」、「干からびて 潤い欲す 年寄の 酒の楽しみ 唯一残り」、「酒を断ち 百の齢を 迎えても 酔える楽しみ 何ひとつなし」

昨日の続き。
「西国街道、その20」に掲げた最初の地図のH地点が富士正晴が住んだ辺りだ。今日の最初の写真は富士が利用した酒屋で、富士の書斎から歩いて2,3分のところにある。店は閉まっていたので自販機で冷えた500ミリリットルの発泡酒を1本買い、その場で飲まずに手提げ袋に入れて阪急茨木市駅を目指した。往路と違って、前日と同じ丘裾の水田の畦道を歩いた。後方からライトを照らしてバイクがやって来たので、筆者は道端の溝に両足を半ば置き、右すなわち北の石組のようなところに両手をついて前屈みになった。その間にバイクの50代半ばの男性は「すいませーん」と言いながら筆者を追い越した。病院前の信号をわたると目の前は前日家内と踏み込んだ広大な水田で、その前を東に歩いて茨木亀岡線に出た。そこからひたすら4キロほど南下したが、車の往来は激しいのに、擦れ違う人はほぼ絶無であった。スーパーに寄ろうと考え、名神高速の200メートルほど手前で東側にわたったが、スーパーの出入口前で買い物を諦めた。その後は駅まで東側の歩道を歩き続けた。去年家内と歩いた時は西側を歩いたからだ。名神高速の100メートルほど手前の大きな工場の横を歩いていると、吹き飛ばされそうな猛烈な突風に遭遇した。そのことがなおさら殺伐とした気分を誘い、富士も同じ気持ちでこの道を往復したことに思いを馳せた。富士は自宅から駅まで歩いたことについてはどういう眺めにどういう気分になったかについては書いていない。詩情を誘うようなことは何もなく、それは当然だろう。それにたとえば『贋・久坂葉子伝』は冒頭は自宅で鶏を絞める描写、最後は久坂の自殺の場面を久坂になり代わって書き、残酷さが小説の主題になっている。筆者が歩いたのは日が沈んだ後で、雨宿りが出来ない1時間の距離はひとりで歩くと気分は沈む。そして富士の家の竹藪に隣接する古い平屋の四畳半の書斎が天国に思える。富士は晩年の7,8年か、外出しなくなった。その理由は外出する興味を失ったことと、駅までの道のりを往復することの孤独さ、億劫さを忌避したからではないか。もちろんそこには名神の開通、万博など、安威以外の茨木市が激変して行き、そのことに富士が興味を示さなかったからで、時代に取り残されて行ったと言うのがふさわしい。だが富士はそのことで全く不便を感じなかった。そして安威は時代の変化にほとんど晒されず、変化はとてもゆっくりしていた。それゆえ富士はなおさら自宅が居心地よかったであろう。工場横で突風に飛ばされそうになる直前、名神を跨ぐ形で高架道路が南側から途中までせり出ている状態を目撃した。

茨木亀岡線が名神の上を走るための工事だろう。現在の車道とは別に高架道路を造って別方向へ車を流すのだろうか。京都の南区でも同様の工事を見たことがあって、途切れた高架道路の末端の様子がそれなりに面白いと思いつつも写真を撮らなかった。今日の2枚目はその付近の地図だ。赤線は筆者が歩いた道筋で、臙脂色は名神が出来る以前、茨木亀岡線が拡幅される前のルートだ。名神が出来たことで西に曲がってまた本来の道筋に戻っているが、昔の道の面影をそれなりに残したことがわかる。ただし名神を斜めに越えるトンネルは歩行者用で、今では誰も利用しないだろう。名神が出来る以前、富士は茨木市駅に行くには臙脂色の道を辿った。それが名神の開通で歩行者はわずかだが迂回させられることになった。そのことがもっと顕著であるのは茨木川をわたる時だ。茨木亀岡線が拡幅されて歩道と分離された結果、歩行者は一旦土手に出て、そこからまた車道沿いの歩道に入らねばならず、それに気づかなければ茨木川に沿って南下してしまう。人の歩きよりも物の流れが優先され、散歩の風情は無視されるようになった。茨木川を越えると次はJRが目前だ。わずかに小雨が降り始めたが、傘を差すほどではなく、またすぐに止んだ。「西国街道、その20」の地図には去年家内と歩いた道筋を黒で示した。去年は道路の向こうにあることに気づいていた斎場の前を今回はまともに玄関前を歩き、喪服姿の男女を数人玄関奧に見た。玄関脇の表示から当夜は葬儀が5つ6つあることがわかった。富士が死んだ時、遺体はその斎場に運ばれて燃やされた。富士は自宅と駅を歩いて何度も往復しながら、そのことを想像したであろうか。後年の富士は友人知人の葬儀には出かけなかった。生きて話をしている時が楽しく、知己が死んでその遺体を見ることは切ない。そんな思いをするくらいならいっそ葬儀に行かないほうがよい。富士の葬儀もさびしいものであったかもしれない。それはどうでもよく、生きている間に好きなように仕事をし、そのことで生活を支え、場合によっては著作を繙く者が長らく絶えない。その点、富士の人生は大成功であった。酒好きが老化を早め、寿命を縮めたと言えるかもしれないが、酒で気分を紛らわせる必要のあるほどに戦争では悲惨なことを体験もした。もっとも、富士は従軍せずとも酒好きは変わらなかったはずだ。富士はウィスキー好きで、ビールはさほどでもなかったであろう。その点は筆者も同じだが、筆者は酒がなくても平気だ。それはともかく、安威の酒屋で買った発泡酒は生ぬるくなっていて、茨木市駅で電車を待っている間、人に隠れて1分間で飲み、飲み終えた直後に電車が入って来た。今日の写真は店前角に蘇鉄の鉢がある。グーグルのストリート・ヴューによれば12年前からそのままだ。あまりに小さな蘇鉄ではあるが、鉄のように絶えず蘇る象徴と思えば勇気づけられる。
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