「
麿ちゃんは 麿麿しくて まる転び 坂の下越え 崖から落ちて」、「穀倉に 混むや古小麦 濃く臭く 酷く騒ぎつ 餓鬼飢餓招き」、「自慢げに 世間知らずと 揶揄す者 世間知るのも 宇宙ゴミ以下」、「偉そうに 口きく人の 鰓の張り 偉い人とは えらい違いや」

昨日の続き。富士正晴の家は竹林のすぐ際に建っていた。竹藪を切り開いて家を新築することがあるので、現在の安威2丁目の竹藪から富士の家がどこにあったかが判断出来るとは限らないが、グーグル・マップの航空写真と富士の家の住所を照らし合わせると、竹藪はおそらくほぼそのままで、家のみ2階建てに変わったことがわかる。もっとも同じ番地で竹藪の西際に3軒ほどあって、そのどれが富士の住んだ家を建て替えたものかわからない。また富士の遺族が建て替えて住んでいるかもしれないが、今は個人情報の保護からそれは図書館でも確認出来ないだろう。あるいは住宅地図で各戸の名字がわかっても、また富士の娘さんが住んでいるとしても、結婚して別姓になっていればわかりようがない。それに新しい家では富士の面影は確認出来ず、そう思うと遠目に竹藪を眺めるだけで充分だ。さて、昨日書いたように茨木亀岡線から北東に入る坂道に連なる南北の細い道を富士が生活に利用したが、富士の家はその道から20メートルほど東の南北に通る私道沿いにあった。そのため、グーグルのストリート・ヴューでは家並みは間近では確かめられない。よそ者がその私道に踏み込むことは許されない。日没時であればなおさらで、筆者にその勇気はない。富士の本には富士を慕って女学生が訪れたことが書かれる。梅花女子や追手門学院大が出来た当時のこととすれば富士は50代前半で、壮年の富士は学生相手に何をどう語ったのか、それを想像すると面白い。富士はその女学生とのその後について書かなかったので、たぶん彼女は有名小説家熱が冷めたのだろう。有名人であっても60代後半になるとさすがに20そこそこの若者は訪れないだろう。以前書いたように晩年の富士に関心を抱き、しばしば訪れた年配の女性が2,3人いたが、彼女らが書いたものを読む人が今はいるだろうか。もっともそれを言えば富士の本を読む人も今は激減しているかもしれない。富士は売文業を芸能人とさして変わらぬ職業と自嘲的に書いたが、書かれて印刷された文章はそのままの形で残る。それがどうしたと思う人がいるが、それは本一冊が人生に大きな彩を添える可能性を知らない。ネット記事のコメントにたとえば学者を「世間知らず」と嘲笑するものがあるが、世間とは何か。その絶対的広さを誰が最もよく知っているのか。誰もが世間のごくごく一部しか知らない。もっと言えば従軍し、目の前で何度も強姦殺人を目撃した富士は戦後生まれの誰よりも世間を広く知っていた。前述の女学生にしても富士に関心を持った分、世間を広く見ていた。

昨日書いたように犬に吠えられた後、筆者は酒屋を過ぎた辺りで中学生男子のふたりと出会った。昨日は竹藪で小学生男子が筆者を盗み見しながらはしゃいでいたが、今回は不審者を盗み見するような眼差しでひそひそ話をしていた。中学生の筆者は彼らと同じように放課後によく遊んだもので、彼らの思いはよくわかる。狭い安威の丘ではよそ者は一瞬でそれとわかるはずだ。今日の最初の写真の右端は前日の5月28日にも前を通りがかった安威城跡で、それを記す石柱がある。建物は壁面にいくつか掲示板があり、自治会の会合に使われるのだろうか。28日は筆者と家内はその城跡前の細い道を西からやって来てそこに突き当り、そして南下した。帰宅後に富士の家はその城跡から50メートルほど北と知り、翌日ひとりで出かけ直すことにした。そのひとつの理由は富士が利用した酒屋が現存し、そこでビールを買って飲むことにあった。28日はその酒屋がどこかわからなかったが、城跡とは目と鼻の先であった。2枚目の写真はその酒屋からさらに北上し、富士の家はたぶんこの辺りにあったはずと思い、南を向いて撮った。左上隅に竹藪が見える。3枚目はさらにほんの少し南下し、東を向いた。駐車場の空き地の向こうに同じ竹藪がもう少し多く見えている。竹藪の手前に2階建てが2軒見える。そのどちらかが富士の住んだ平屋を壊した後に建った。富士の家は平屋であったので、この道路からは屋根が少し見えるだけであったろう。5月28日と29日はごくわずかな時間、安威にいただけだが、「桃源郷」を思った。安威のすべての地域がそうではないが、富士正晴が住んだ竹林のある丘は小さな軍艦のようにまとまった村と言ってよく、現代のけばけばしさにまだ侵されていない。もちろん古い家屋は新しい建材を用いた新しいデザインの家に建て替わっているが、道幅は変わらない。その道の500メートル北の突き当りの山手に寺や阿為神社があることを知ったのは29日の帰宅後だ。出不精の富士は酒屋や郵便局に行く以外はほとんど外出せず、同神社を散歩することはほとんどなかったと想像する。地図では同神社のすぐ南に「都市計画道路山麓線」が記され、茨木亀岡線につながっているが、いずれ同線と同じほどの車線数の多い道路になるかもしれない。ますます車社会になることは3枚目の写真からもわかる。古い建物を壊して駐車場になったのだろう。安威の丘の住民も車の所有はあたりまえになり、それで酒屋の前の南北の道沿いに「飛び出しボーヤ」が点在する。すぐ近くに安威小学校があるからなおさらだ。安威の丘は酒屋以外には店らしきものがなく、日々の食事の買い物を富士の家族がどうしていたのかと思う。娘さんが自転車で耳原の西国街道沿いまで出かけていたと想像するが、坂道の上り下りは大変だったろう。車社会になるのは仕方がないか。

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