「
鎮魂を コンチキチンと 囃し立て 効果あるのか コロナ猛威下」、「掲示板 一瞬で消え みな忘れ 祭りの華は 沸く間のみ」、「ペラペラは ズドンズドンで 終わりけり 凹むペエペエ 殺し凸撃」、「運のなさ 思い詰めずに 気晴らしを 熱きを冷やし 冷えを温め」
10日にアメリカの大西さんからメールがあって、ザッパ・ファミリーが運営するホームページ上に、ファンが自由に意見を交わす掲示板が15日に閉鎖されるとの予告が出たことを知った。筆者はその掲示板をごくたまに見るだけで、閉鎖になってもさほど惜しいとは思わないが、ゲイルやザッパのバンドのメンバーが書き込んだこともあって酷い処置と受け取っているファンは少なくないだろう。筆者は早速その掲示板のトップ画面をキャプチャー保存した。それが今日の2枚目の画像だ。その最下段に合計投稿数が883402,話題24246,書き込み者6716とあって、これらの数字がどれほど多いのか少ないかはわからないが、筆者のように見るだけのファンは何倍もいるはずで、ファンにはよく知られた存在であった。辛辣な意見の書き込みはあって、ゲイルはしばしば憤慨したと想像するが、自由な意見の場を設けることはザッパの本意でもあったろう。それにまともな理由のない罵詈雑言は恥を晒すだけだ。ザッパ・ファンはそのことをわきまえていると信じたいが、中にはザッパの本質を誤解してファンを自認する者もいるはずで、作者の手を離れた作品がどのように受け取られるかは作者の知る範囲にはなく、作者としては誤解も理解の一部と達観するしかない。ザッパ・ファミリーの掲示板がなくなる理由は、ザッパ作品の全権利がユニヴァーサル・ミュージックに移ることを踏まえたものだろう。Tシャツやコロナ用を当て込んだマスクなど、ザッパ・グッズの販売がどうなるのかと思ったが、ホームページにはもうそれらの商品は掲載されない。これはザッパの髭ロゴも含めてユニヴァーサルに買われたからか。ではザッパ・ファミリーが運営する現在のホームページはこの後どうなるのか。アルバムや楽譜の販売権も手放したとすれば、ホームページ自体がなくなるしかない。掲示板がなくなる代わりに近いうちに新たな計画があると書かれているが、まあそれを待つしかない。それはさておき、今日はアルバム『ZAPPA/ERIE』で書き残したことを中心にするが、先週の日本の元首相狙撃事件がらみで一言くらいは書いておかねばという気持ちがあってのことだ。とはいえこの話題は多岐にわたり、今後筆者は断続的に他のことに関係させて書くかもしれないし、面倒なのでほとんど触れないかもしれない。それはともかくザッパ・ファミリーのホームページでは早々と『ZAPPA/ERIE』の完売を伝えた。何部製造されたかだが、少なくて3000、多くて5000ではないだろうか。再版は今のところないが、いずれユニヴァーサルがまた発売するだろう。
『ZAPPA/ERIE』はブログに感想を書いた後、全く聴いておらず、代わりに2枚組CD『Philly ’76』を聴いている。音が断然いいからだ。筆者は同作の冒頭と最後の曲「The Purple Lagoon」が大好きで、次に「Muffin Man」も必ず聴くが、いわばコンサートの中身の最初の曲としてよい「コズミック・デブリ」(宇宙ゴミ)はほとんど聴かない。だがザッパはなぜ同曲をそれほどまでに好んでコンサートのテーマ曲の直後に自ら歌って演奏したのか。そこにはザッパの思想を読み解く重要な鍵がある。この曲の歌詞はザッパのもとにやって来た「謎の男」との対話だ。その男は訪問販売員のようでもあり、水晶玉を使う占い師でもあるが、ザッパがミュージシャンとして立つことになる前の百科事典のセールスマンの思い出が投影されているだろう。ザッパは百科事典などとても必要ではない家庭にそれを売りつける手腕について『自伝』に書いているが、その手口は物を売るどの分野でもある程度は共通して見られる。特に保険業界がそうと言ってよい。それは物ではなく、相手の不安につけ込んで契約させ、毎月金を得る商売だ。訪問販売員よりももっと狡猾さがなくては務まらない。銀行も似た商売だが、もっとひどいのは宗教だ。それはともかく、ザッパはセールスマン時代に良心の呵責を覚えたのではないか。あるいはそんなまだるっこしい商売では夢はかなえられないと悟った。そのことが「コズミック・デブリ」の歌詞に表われている。ザッパの前にやって来た「謎の男」はザッパにやり込められ、そんな商売をしている暇があれば肉屋になれと言われてしまう。その言葉はセールスマン時代にザッパが相手から言われたのだろう。根が真面目な人は訪問販売員には向かない。良心が痛むからだ。そしてそういうザッパは世の中をみわたし、大金を稼ぐ者がどうしているかに気づく。その代表は宗教だ。それでザッパは自分の宗教の祖になることを考えるが、もちろんそれは自らの音楽で相手を納得させる「ザッパ教」の経典としての作品群となり、しかもその全貌が明かされるのはまだ先にこととなっている。「コズミック・デブリ」を通じてザッパが観衆に伝えたかったのは、「宇宙ゴミ」でもまだましな自作曲によって「人に騙されて金を巻き上げられるな」という冷静さ、客観性、人を見る目であったが、そのこと自体が「洗脳」性を持っている。だが同曲のような歌詞を持つ曲は他にはないのではないか。そこにザッパの特殊性、絶大な価値、普遍性がある。ところがその後のザッパは同曲の歌詞をもっと拡大し、キリスト教右派勢力や大統領批判に拡大する。その激烈さも他のどのロック・ミュージシャンもやろうとしなかったことで、凡百、凡千のミュージシャンとザッパの違いはその点にあり、ザッパの偉大さはまだごく一部のファンにしか伝わっていない。
話題転換。8日の正午少し前に筆者はTVで元首相が銃撃されたことを知った。その夜「風風の湯」でいつもの常連5,6人と会うと、誰もそのことを話題にしなかった。関心がないからだ。そこで筆者は85Mさんにこっそりと訊いた。「国葬されますかね」「それはわからんけど、撃った男は昔伊藤博文を撃った犯人みたいに崇拝されるかも…」「安重根ですか…」「それにしても散弾銃で死ぬのはね…」「猪が殺されるようなものですか…」「いや、猪は散弾で撃てば肉が売れないから、それよりもっとひどい死に方よ」「それだけ酷い…」「まあね。それでも戦後最悪、いや日本史上最悪の首相やったからね…」そこで話は終わった。その3日後、嵯峨のFさんとサウナ室でその話題になった。「あんな宗教に応援演説の映像を送っていたらそれは恨みを買うてあたりまえや。政治家は宗教の票や金がほしいんやけれど、日本はあまりにも政治と宗教の関係がでたらめになってる。自公連立なんかどう考えてもおかしいやろ」因みにそう言うFさんは自民党に票を入れたことがない。事件の報せを聞いて筆者がすぐに思ったことは前述のように「国葬」されるかどうかで、予想どおりに事は運ぶ。撃った犯人が85Mさんの思うように将来「烈士」として讃えられるかどうかはわからないが、政治と宗教の関係に光を当てた点では意義はある。元首相は「李下に冠を糺さず」を何度も口にしたが、国会で170回ほども嘘をつき、特定の宗教団体に応援メッセージを送るなど、疑われても仕方のない行為は目立った。そこを嵯峨のFさんは言う。疑われるのは隙があるからで、その行動の隙を昔の中国人は「李下に冠を糺す行為」とたとえた。元首相は李の実を本当にいくつも冠に隠したかもしれず、そう思われても仕方のないほど、味方と敵を区別し、前者を贔屓にし、後者を蔑んだ。そのことで日本は持てる者とそうでない者との分断が鮮明化したが、それは戦後アメリカのあらゆることを追従して来た結果で、何ら不思議ではない。ザッパが「コズミック・デブリ」で歌ったことは胡散臭い新興宗教の誘いが目立って来たからであろう。一方ではキリスト教もTVを使っての金集めが激化し、共和党に献金して立場を守ることが公然と行なわれるようになった。その図式を日本も模倣している。もっとひどいのは政治、宗教の洗脳を歓迎する人が多数派を占めていることだ。やがて日本は没落すると言われているが、そうなったところで一部の政治家と宗教家、彼らの支持者の一族が残ればいいのであって、卑弥呼時代に先祖帰りして国家安泰だ。多民族のアメリカはもう少しましな民主主義だが、ザッパが危惧したようにいつ政治家が暴走して取り返しのつかないことにならないとも限らない。だがそれも国民が望めばそうなる。多数派の考えが正しいとする民主主義であれば、少数派は異端とされ、敵とみなされる。
元首相を撃った男はネットで銃の製造法を知った。ネット時代ならではの事件で、ネットに溢れる情報のどれを選ぶかで思想は正反対にもなる。面白いのは、ある記事では元首相礼賛がほとんどなのに、別の記事では犯人同情論が目立つ。これは元首相の恩恵を被った人とそうではない人の対立とざっくり捉えてもよい。元首相は犯人に逆恨みされた、あるいは因果応報の死といった意見に筆者は関心がないが、ドラマティックな死に方はどこまでも運がよかった政治家だと思う。つまり自ら望んだ死に方ではなかったか。さまざまな疑惑は追及されずに済み、国葬を経て神格化され、神社も出来るかもしれない。そのように利用出来るものは何でもするというのが政治家で、元首相の死を真に悼んでいる政治家はいないだろう。では犯人が恨みを募らせてついに復讐を遂げたことはあっぱれであろうか。本人もそう思っているだろうか。どういう理由であれ、人殺しには変わりがない。頭脳明晰で計画性もあるが、欠けていたとすれば母の愛、女性の愛だ。その点が憐れでならない。彼のような学歴と収入では女性と交際し、結婚することは不可能と見る向きがあるが、女は星の数ほどいる。その中にひとりやふたりは愛し合える相手がいるはずだ。両親の不幸の影響を自分が被ったと思うのであれば、自分の代でそれを断ち切って幸福な家庭を築けばいいではないか。それとは反対に憎悪を募らせ、狭いアパートで少しずつ材料を集め、手製の銃をいくつも作るというのは、やはり間違っている。そのエネルギーをなぜ別のところに向けなかったのか。40に手が届く年齢でもう人生を見限ったのか。相談相手がない独身男性は珍しくないどころか、大多数はそうだろう。誰しも自分で決めて自分の人生を歩んで行く。それが出来る社会はひとまず素晴らしいではないか。犯人の母親は熱心な信者で、その迷いのない一途さを犯人は受け継いだ。一途さは美点だが、自己を冷静に客観視する意識を失ってはならない。それがザッパにはあったし、筆者はそれをザッパの音楽から学んだ気がする。もうひとつ言えばユーモアだ。犯人はいかにも真面目そうで、それでネットに同情論が多いと思うが、真面目だけでは駄目だ。真面目にネットで学んで銃を作り、真面目に計画を実行して望みを遂げた。その一連の行為のどこにユーモアがあるか。ユーモアは一瞬の閃きで心の余裕だ。真面目は長期に物事を続行することで誰でも持ち得る。真面目でありユーモアを忘れない。ザッパの音楽はそのことを教える。ユーモアだけでは面白くなく、真面目だけでもそうだ。ユーモアは遊びと言い換えてもよい。絶えず金欠に苦しめられ、遊びなどとんでもない贅沢と主張する人があるだろう。それこそ真面目過ぎる考えで、それではユーモアは去って行く。死んだ元首相はもう仕方がないが、犯人は獄中でもっと人生勉強をしてもらいたい。
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