「
鍾乳の 石に輝く 洞の外 白き岩満つ 台地広がる」、「街道を 旅して出会う 大鳥居 御旅所の文字 認め一服」、「御旅所の 鳥居の奧の さびしさや 童遊べば 神も笑顔に」、「金ピカの 神輿見かけて 腰を上げ 何とはなしに 心浮き立ち」
5月28日に茨木市内の西国街道を部分的に歩いた。そのことについて先月の半ばに何度か投稿した。今日からその続きを書く。まず
「西国街道、その18」の3枚の写真の途中で見かけた阿為神社御旅所について。西国街道歩きをするのにネットで数枚の地図を印刷して持参したが、この御旅所の存在は知らなかった。街道沿いの目立つ石の近くで家内に待つように言い、筆者ひとりで安威川に架かる太田橋を目指したところ、茨木亀岡線と呼ばれる大きな道路に出る直前、左手すなわち北側に今日の写真の鳥居を見かけた。鳥居の全部を収めるには向かい側の民家の壁ぎりぎりに立つ必要がある。そのようにして撮影したが、ほとんど人も車も見かけず、筆者の背中が接する民家の住民にも気づかれなかったはずだ。御旅所の境内に入るつもりも時間もなく、先を急いだが、地名の「安威」が神社では「阿為」になっており、またその本元の神社がどこにあるかは気になった。ところが筆者の地図ではこの御旅所も記されず、元の神社の位置もわからない。ただし立派な御旅所があることはさすが古い街道で、お祭りには神輿が繰り出して賑わうはずで、改めて「安威」が古い歴史地域であることを思った。富士正晴が住んだ安威2丁目は西街道の北1キロほどのところで、しかも山手だが、その辺りに阿為神社はあるのだろうと想像する一方、茨木市内の最も歴史の古い地域は西国街道から北部である気もした。国鉄や阪急がもっと南に開通したことでその付近が現在の茨木市の最も地価の高い地域になっているが、歴史的遺跡は西国街道沿い、しかもその北部にあることは高槻市内に点在する古墳や遺跡からもわかる。となれば富士正晴の父親が安威に家をかまえたのはそれなりに思うところがあったためだろう。戦前でも国鉄の駅近くに住むことは経済的にさほど重荷ではなかったと思うが、交通の便利さよりもゆったりとした自然豊かな場所に住もうとしたのは、徳島県の村の出身であったことからもわかる。また富士正晴記念館に小学生の制服姿の富士が割合みんなから離れて立つ遠足の学級写真が展示され、ピョンヤンでの撮影と書かれていたので、一家は大正時代に朝鮮で生活していた。それを懐かしむからではないだろうが、日本に戻って茨木の山手の田舎を選んだのであろう。安威であれば大阪と京都の中間で、便利でもある。富士正晴の作品に興味を持つ人はますます減少するであろうし、富士の両親のこととなると、富士が書いたもの以外からは情報がほとんど得られないのではないか。それはともかく、筆者は大きな鳥居の突然の出現に不意を食らいながら、それが富士の住む地域の玄関に思えた。
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