「
燻し味 好みて今日も たばこ吸い 吾輩の肺 スモーク旨味」、「夕餉時 煙たなびく 街道を 宿を目指して 旅人急ぐ」、「足袋を履き 福助拝み 店開き 途切れぬ客に 福の神見る」、「地下足袋を 履いて臨んだ 徒競走 母の声援 虚しくビリに」
9日の投稿に掲げた地図に西国街道をわかりやすく記していないが、同地図の縦方向の上から4分の1ほどの東西を横切っている。地図右端近くの安威川と地図の右上から左下に斜めに横切る黄色の名神高速道路の交点に当たり、青線と黒線が接する地点を含む道路がそれだ。9日に書いたように黒線は1年前、青線が9日に歩いた区間で、太い青線部分は往復したことを意味する。地図からわかるように今回歩いた西国街道は往復区間を無視すれば1.5キロ程度だ。富士正晴記念館の次に目指したのは西国街道歩きで、往復区間を可能な限り少なくしたうえで、富士が住んだ安威を訪れることにした。そのため地図のCからD辺りに最短距離で歩くつもりでいた。言い換えれば茨木川を北に越えて耳原地区を縦断するつもりでいた。それが昨日書いたように橋を見過ごし、茨木川左岸を歩き、上流の橋で右岸に入って耳原公園最南端の交差点に至った。そこから西国街道に入って東に進み、去年歩いた地点まで行くことにした。ところが昼の食事を済ましておらず、歩き疲れている家内を慮って、座るのによい路傍の石を見つけた時、家内にそこで待つように言いつけた。耳原公園南の交差点から東へ500メートルほどのところだ。その先を行くことにした最大の目的は写真を撮ることだ。もちろん未踏の部分を残しておきたくなかったからでもある。家内を待たせた場所は、後に落ち合ってそこから北上し安威を目指すためだが、歩き始めて5分ほどして思い違いに気づいた。もう少し東から北上するほうが近道であることが地図と、実際に歩いてわかったのだ。ところが引き返す労力と家内が怒ることを思い、待たせておくほうがよいと判断した。ともかく先を急いで安威川をわたってすぐのところまで行く。そのためには最終地点で名神をくぐる必要がある。地図ではたまたまだが前述のように名神は茨木市内を斜めに縦断している。これは1960年代に出来た高速道路で、当初は現在のように騒音が外に漏れないようにとの配慮はなく、車の往来は外から丸見えであった。それだけ車の数も少なかったからで、地域住民は文明の進歩を喜びはしても、生活騒音や排気ガスの心配をしなかった。富士はこの高速道路が出来て行く過程を目の当たりにしたが、家のある丘からは1キロ以上の距離があり、工事の騒音は気にならなかったであろう。ところが市内を歩くとこの高速道路は至るところで地域を分断し、人はそのところどころにわずかにあるトンネルを通って別の地域に行かねばならない。これは京都市内にはないことで、筆者が茨木市内を何となく馴染めないままでいたことの理由と言ってよい。

昨日の2枚目の写真は奧に名神が見え、向こうの眺めを完全に遮っている。これは歩くことを楽しみにする人にはさびしい。トンネルを越えればいいとわかっているが、そのトンネルをくぐる気分はいいものではない。一方街中では大きな道路の上に歩道橋が架けられたが、それを歩くことを好む人は少数派であろう。車優先社会では人間は文句を言わずに不便を忍ぶしかない。ところで、去年西国街道を歩いた時、安威川から東にわずかに進んだ頃に巨大な建物があることに驚いた。NTTの施設であることがグーグル・マップからわかるが、その倉庫然とした直方体の建物と同様のものが茨木市に少なくないことを今回実感した。その最初は富士正晴記念館の向かい側に立つアマゾンの倉庫だ。壁面に大和ハウスの文字もあって、共同使用しているのだろう。もちろん商品と建築資材の倉庫で、茨木市内の名神に近い場所には日本を代表する運送会社の倉庫が並ぶ。それらが建ったのは名神開通以降で、田畑が売られた。つまり60年代半ば以降急速に市内の眺めは変貌し、人には優しくない土地に変わった。もちろん高槻市と同様、人口は何倍にも増え、生活に便利なように街は作り変えられて来たが、京都市内のしかも嵐山に住み慣れた筆者は、巨大という言葉がこれ以上ふさわしくない倉庫をいくつも見ると、まだ古い街並みの残る地域に住むことを幸福と思う。名神を計画する時、京都ではよくぞそれを伏見に持って行った。ただし京都をよく思わない、あるいは歴史や文化に関心のない首相が権力を把握すれば、京都市内の中央に立体交差の高速道路を造ることを命ずるかもしれない。それはさておき京都と高槻や茨木を比較すると、後者はいわばどうでもいい地域で、名神を市内のどこにどう通すかはかなり自由かつ簡単に図面が引かれたと想像する。茨木市内の交通網を見ると、市役所付近に国鉄がまず開通し、その後それにそって現在の阪急、国鉄に並行して国道171号、戦後60年代にそのずっと南の淀川沿いに新幹線と北の山沿いに名神が通ったことがわかる。それなりによく考えられているが、最も古い西国街道に沿って5本も大動脈を抱える茨木市内は無残な形で串刺しにされているようにも思える。それで何かが変わったかと言えば人口が増え、家が増え、その分田畑が減って自然は減少した。自然よりも人間が大事という声は当然とされるが、自然が悪化すれば人間も運命をともにする。富士は近隣の竹林が開発され、多くの野鳥が自分の竹林に移住して来て、その鳴き声が凄まじくなったと書いた。駆逐された鳥はやがて生存競争に敗れて数を減らした。人間が増えることは自然が減ることだ。つまり人間は不自然ということで、いずれ地球上には少量の人間しか棲めなくなるかもしれない。60年代の日本の人口は9500万人であった。それでも当時のほうが活気があって人々は幸福ではなかったか。

さて今日の写真を説明する。耳原公園南端から東に向かって撮った順に4枚掲げる。西国街道は想像通り、道幅は狭く、古くから建つ家が目立った。これがよい。茨木市内で江戸時代の情緒をわずかに伝える道は西国街道が代表だ。筆者は道路際に蘇鉄や「飛び出しボーヤ」を見かけるたびに撮り、また当然ながら双方ともグーグルのストリート・ヴューを確認すると、以前はあったのになくなっている場合とその反対の場合とがある。後者に関しては、立て看板は車が曲がる際に邪魔になるとの考えからか、今日の最初の写真のように電柱にシートを巻いて注意喚起を促すものに変わって来ている。これは京都市内でも言える。また以前あった「飛び出しボーヤ」は、今日の3枚目の写真の茨木市を代表するタイプとは違って、市役所近くの茨木神社の赤鬼を象ったものがあったことがストリート・ヴューからわかる。つまり筆者が撮って載せるものも数年の寿命だ。2枚目の写真の蘇鉄は西国街道沿いであることがわからず、その意味で「撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り」のカテゴリーに載せてもよい。そのことは4枚目の「飛び出しボーヤ」の写真でも言い得るが、「西国街道」を優先させる。話を富士正晴に戻すと、司馬遼太郎は富士の住まいが旧街道を少し入ったところにあると書いている。彼は週刊詩に連載した「街道を行く」で西国街道を取り上げなかったが、富士の家には一度は訪れているはずで、またその時は駅から歩くのではなく、車に乗ったであろう。富士は晩年になって出不精になり、たまに誘われて京都の茶屋で遊んだが、車で送迎されたから、茨木インターからを名神を走ったはずで、やはり西国街道に関心を抱いて散歩していないと想像する。また先に書いたように名神が開通して以降、特に変貌の激しかった茨木市内に特別関心を抱いた形跡はなく、万博にも行かなかったのではないか。前述のように富士は西国街道から北に1キロほどのところに住み、西国街道とはあまり縁がない。富士は自宅の様子は書いても近隣のことはごくわずかしか触れず、西国街道について言及したこともないように思う。ところが阪急を利用して大阪や京都に出ていたので、自宅から茨木市駅までは何度も往復した。その際、どのルートをたどったか。それを確認するために今回は歩いたと言ってよい。ただし富士が盛んに家と駅を往復したのは遅くても70年代の終わり頃までのはずで、その頃は戦後すぐ辺りと比べて大きな道路が出来て歩くには風情が悪化していた。筆者なら自転車で往復するが、富士は車を運転せず、自転車も運転しなので、駅との往復は次第に重労働になったはずだ。市バスに乗った可能性もあるが、本数は少なく、富士がそれを利用したという記述を見ていない。では富士は「飛び出しボーヤ」を見たか。70年代初頭に発祥した東近江から茨木市に伝播した時期が問題だが、おそらく富士は見たであろう。

●スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示→→