「
朗報を ともに喜ぶ 家族あり 無頼の夫 妻のみ味方」、「富士山が 正しく晴れる 名前つけ 父の願いは 子の健やかさ」、「名前負け よくあることと 知りつなお わが子の名前 ピカチュウとつけ」、「後のこと なるようになる 人の生 財は虚しき 名声も仮」
昨日載せた地図のBが富士正晴記念館で、茨木市立中央図書館内の北東角にある。館内の展示物は撮影禁止で、今日の写真はたぶん撮っても問題ないだろう。この施設は長年気になりながらようやく訪れた。昨日書いたように阪急あるいはJRの茨木の駅から真西にバス道路がある。1970年の大阪万博開催時に造られ、「エキスポ・ロード」と呼ばれる。その道を何度も歩きながら南北の地域に踏み込んだことはなかった。用事がないのに知らない土地に踏み込む趣味は筆者にはない。もっとも、中央図書館や富士正晴の家がある安威には行きたいが、エキスポ・ロードを外れて北にかなりある。徐々に思いを強め、去年は阪急茨木市駅から西国街道に向けて歩いている途中で図書館に寄ろうと思い、場所がよくわからずに断念した。ちょうど1年ぶりに今度こそはと地図を数枚印刷し、まず図書館に行くことにした。昨日の2枚目の画像の看板を見てすぐ、信号をわたらずに南北の道路の東側を歩くと、交差点角にローソンがあり、外に置かれた格安商品のワゴンにバナナやドラゴンフルーツのいくつかを見つけた。家内は筆者を置いて前方に歩き去る。筆者はドラゴンフルーツを食べたことはなく、最も大きそうな1個を選んで買って家内を追った。その果実については一昨日投稿した。同店から図書館までは300メートル。図書館のエントランス・ホールのところどこにひとり用の椅子があり、座って昼の弁当を広げている高齢男性がちらほらいた。その中を通って富士の記念館に入った。筆者ら以外に見学者はなく、訪れる人の数が気になる。記念館設立はよほどの有名人でもない。ましてや公金を使ってとなるとなおさらだ。記念館に入った富士の蔵書は約8800点で、プロの作家としては普通だ。東大阪にある司馬遼太郎の記念館は司馬の自宅に安藤忠雄が設計した鉄筋コンクリートの建物でよく知られ、筆者は10数年前に訪れたことがある。巨大な書架がシンボルとなっていて、蔵書の膨大さがわかる。今調べると6万冊とのことだ。これは毎日10冊購入して16年要する。1冊1000円で6000万円となって、これはたいしたことがない。司馬が生涯稼いだ印税はたぶん数十億円だろう。開高健の遺産は確か30億円ほどで、妻もひとり娘も死んだ後、親類はそれを基に神奈川県に記念館を建てたと何かで読んだが、訪れる人がどれほどあるだろう。司馬の記念館は司馬の私財で造られ、10年ほど後に公益財団となって現在に至る。館の運営は記念館の入場料と司馬の印税で、税金は使われていないようだ。そのことと照らすと富士の記念館は稀有な存在と言わねばならない。
茨木市には川端康成の記念館が独立した建物として存在する。それはノーベル賞をもらった国際的作家にはふさわしい。川端は開高と同様、関西出身であるのに関東で死んだ。作家活動が長かった地域、あるいは亡くなった場所に記念館を建てるのが妥当で、川端に限れば関東にも立派な記念館はあるのかもしれないが、茨木市がそれを建てるところに市民の文化度の高さがわかる。そのことは図書館の隅の一画を利用してのささやかなものとしても、富士の記念館があることからはなおさらだ。司馬の蔵書6万と富士のそれの8800との差はそのまま収入と有名度の差を表わしていると言っていい。司馬は小説の主題を決めると、東京の古本屋に依頼して集められた本をトラックで運んでもらい、そのため古本屋からはごっそりと本がなくなったそうだ。それほどの経済力、調査力を基礎にしてのヒット作であったが、筆者は司馬の本を今後も読む気は全くない。蕪村と呉春の子弟関係を書いた短編を読んで大いに失望したからだ。言葉が悪いが、その程度の内容なら大学生でも書く。ところが普通一般の小説好きは、蕪村と呉春がどういう子弟関係であったかについてはほとんど知らず、知っていてもそれぞれの画風に遡ってまで呉春が蕪村から受けた影響の大きさがわかる人はもっと少ない。そこに蕪村も呉春も文章を能くしたが、そのことにまで興味を深める人はさらに稀であろう。司馬は蕪村と呉春の画風の差を知りながら、小説ではそこまで立ち入らず、ただ蕪村が呉春より素晴らしいとあたりまえのことを書く。そのあたりまえにしても呉春側に立てば全然違う面が見えて来る。つまり司馬のその短編に蕪村や呉春のファンは大いに失望するだろう。本腰を入れて長編を書いてほしかったが、仮にそれが出来たとして本はほとんど売れない。画家の子弟関係に興味のある人はたとえば坂本龍馬ファンの1パーセントに満たないからだ。司馬にはそういう一般人の関心への嗅覚は大いにあった。その点は富士とは全く違う。金の匂いのするテーマを富士はことさら探さず、またその才能もなかった。それは小説家としては失格だろうか。筆者はそうは思わない。今はとかく金儲けがうまい作家がマスコミにもてはやされ、本人も醜い表情を画面にさらす。そう思う筆者であるので、生活に困窮した富士がさして一般にはよく知られる小説を書かなかったにもかかわらず、没した翌年に中央図書館の一画に記念館が造られたことに、日本はまだまだ捨てたものではないことを思う。これが大阪市内であればまず無理だ。芸術文化を理解しない為政者ほど選挙に強いからだ。「風風の湯」の常連のFさんは本を全く読まず、読書好きなど市民の1パーセントもいないとしばしば言う。それは当然として、それがどうしたというのだろう。民主主義は多数派の考えに基づくからには、1パーセントの市民の思いに対して税金を使うことは否定されるべきか。
そうであれば一瞬のうちに芸術文化は消え去る。もっともFさんは国宝や重文はゴミと区別がつかないことを自慢気に言うので、世の中から本が全部なくなっても何とも思わない。では何が一番大事か。それは金だ。金がなければ何も買えず、餓死するかホームレスになるしかない。それは嫌なので毎日金儲けのために株の売買をする。大学を出て一流商社に勤めていた人でも、1パーセントの人が愛好する芸術文化を全く理解しないとすれば、もっと普通の市民はなおさらかと言えば、物事はそう単純ではない。ホームレスでも芸術愛好家はいる。またそういう趣味があるゆえに経済問題に疎く、ホームレスになると言ってもよい。話を戻して、富士の記念館は司馬のそれとは違って入場無料だ。ささやかな規模ゆえに当然かもしれないが、それでもよくぞ運営が続けられている。そのことが羨ましくもある。富士は死んだ後に蔵書や資料が茨木市に寄贈され、書斎が解体後に別の場所に復元されるとは思わなかったであろう。市民の1パーセントもいない人のために税金を使ってはならないと考える市長が在籍していれば、富士の蔵書は全部古本屋に売られ、建物は屑となっていた。繰り返すと、大阪市ではそうなる。よしもとのお笑い芸人こそが大阪を代表する芸術文化で国際的に通用するとのたまう弁護士風情が大阪を代表する政治家であったというのであるから、将来大阪文化の暗黒時代を代表する人物として記憶されることは間違いない。金こそ大事と主張する者は馬鹿だ。頭が悪いから芸術の価値もわからない。芸術は将来にわたっていくらでも金を産む資産になり得る。また一旦失ってしまえば復活出来ないものは多く、出来たとしても莫大な金と膨大な人の力を必要とする。細々とでも残しておけば復活はしやすいのに、そのことに気づかず、また思いもよらずに、根絶やしにする。ヒトラーでも絵画に強い関心があって万単位の数の絵画を市民から強奪した。もちろん焼却するためではない。宝と認め、収集したかったからだ。それに引き換え、絵画を楽しむ趣味のある政治家は日本では0.01パーセントもいないだろう。また話を戻す。富士の記念館は茨木、日本の誇りで、富士の精神を理解する人が大勢いることに筆者は感動する。富士は竹林の仙人と呼ばれもした。それは出不精であったからで、仙人の言葉から連想する寡黙さは富士にはなかった。これはいつか改めて書くが、開高健の文章の中に、仙人と呼ばれるような人物に会ったところ大いに期待外れであったというものがある。それを読みながら筆者は富士のことを当てつけで書いているのではないかと思った。そこには富士と開高との間の心の悶着があると思うからだ。筆者は20代で開高の著作の大半を友人からもらうなりして読み、正直に言えばほとんど感心したことがない。最もよかった『日本三文オペラ』にしても、後年富士から得た題材であることを知った。
富士の記念館の展示は一度では全部読めないほど量が多く、写真や絵画に目が行く。特に若い頃の写生帖が面白かった。富士は画家としてもファンがいて、絵の才能は20歳頃にすでに瞠目すべき技術に達していた。竹内勝太郎を真正面から描いた水墨の肖像画には「弟子・富士正晴」の文字がとても目立った。40歳で黒部で転落事故死した詩人の竹内を、富士はその後大部の詩集などを上梓し、弟子としての務めを立派に果たした。そのことをなぜといぶかる向きがある。無名に近い竹内をなぜそこまでして師と仰ぐのか。それは世間の無情に染まり切っている人の考えで、富士は竹内から教えられることが多かったのだろう。それで経済的なことや時間を度外視して竹内の業績を本にまとめる作業に没入した。その結果竹内の存在は今後も知られ、また富士の行ないの根本にある精神の美しさも伝わる。富士は一時日本画家の榊原紫峰の子どもの家庭教師をしたことがあり、その時に紫峰から画家にならないかと言われた。そういう出会いがあったので後年富士は紫峰についての本を一冊書く。このように人間的なよき出会いがあれば、その人物のことを後世に富士なりに伝えるために骨を折った。若くして自殺した久坂葉子についてもそうだ。彼女の場合は小説家を目指したので、富士は小説的伝記としてまとめた。記念館の展示は主に富士の文学者との交流が中心になっていた。定期的に内容を変えると思うが、他の有名な小説家や学者、評論家などとの交流は今後の日本では望めない華やかさで、その意味からも記念館が設立されたと思う。交流のあった桑原武夫の蔵書の一部が右京図書館にあったのに、館長がそれを廃棄したというニュースが3年ほど前にあった。それらの本は珍しくないもので、館長は処分してもいいと思ったようだ。だがその理由で言えば富士の記念館の8800の蔵書はみな同じ本がどこかにあって、茨木市が保存する必要がないことになる。それはさておき、京大の著名な学者と交流のあった富士は、学者たちからは中途半端な作家と思われ、鼻であしらわれたこともある。ところがそうした学者の蔵書が運よく図書館に収まっても館長の判断によって処分され、あるいは著作は今では時代遅れの学説になってほとんど誰も読まない。学者が小説家より上と自惚れるのは滑稽だ。頭のよさは何で計ることが出来るか。また頭がよければいいのか。一流大学出が人間的に一流か。一流の仕事が出来るのか。またその場合の一流とは何か。筆者にはTVに登場する有名人はみな馬鹿に見えて仕方がない。馬鹿ならまだいい。狡猾であるので始末に負えない。その狡猾さがことごとく売名と金儲けに使われる。それをまた若い馬鹿者たちが喝采を送る。ネットではTV以上にひどい状態だろう。論破王ともてはやされる男がいるが、前に書いたように筆者は「ロンパールーム」を連想する。
富士の記念館は図書館の玄関から入らずに直接道路に面して記念館専用の出入口がある。それが今日の最初の写真だ。これは図書館が休みの時に記念館が利用出来るためかどうかは調べていない。富士の家にあった蔵書や原稿を全部遺族から寄贈を受け、富士が死んだ翌年の1988年に開館した。特筆すべきことは家屋が解体されることもあって富士の四畳半の書斎と玄関のみは解体された後に記念館に移築された。富士の家は平屋で竹林の中にあった。父親が戦前に購入したものと読んだ記憶があるが、富士は確か筆者が生まれた昭和26年から両親と同居し、死ぬまで住んだ。奧さんは富士が60歳くらいの時には病気になって家にいなかったと思う。娘さんがひとりいて、彼女は富士と同じく京大に入ったはずだ。家は築50年以上経っていたと思う。借家と記述する本もあり、富士が亡くなった後、大家は更地にしたかったのかもしれない。富士が書斎で電話中の写真はいくつかあって、床の間のある部屋で書画の大作を制作中の写真もある。復元された玄関の前に間取り図の立て看板がある。その拡大写真を撮らなかったので方角がわからないが、たぶん家の南西角が書斎で、他に四畳半か六畳の部屋が5つある。南辺に縁側があり、それに面する庭に小さな池があって、竹林がそれを囲んでいた。富士の家の内部は富士の最晩年に何度かTVで筆者は見たことがある。当時富士に関心を抱いた文筆家の高齢女性が友人を誘ってよく出入りしていて、彼女の言いふらしもあって富士は割合に一般にも知られる存在になっていた。そのため若い頃から大いに経済的に困窮し続け、電話代も富士からかけているのに相手に支払わせるほどであったのが、酒代には困らなくなった。TVで見る富士はとても小柄で貧弱で、またどこか恥ずかし気な様子は青年がそのまま老人になった雰囲気があった。着るものに全くこだわらず、富士を知らない人がその姿を見ればどの街にもいる目立たない老人を思ったであろう。実際富士はそのようにして生きた。亡くなる7,8年前からは家から出たことがないと読んだこともある。となれば60代半ばで蟄居生活に入った。自治会を始めとした近所つき合いはおそらく全くしなかったと思うが、前述のように富士を訪れる人はそれなりに多かったようで、近所では有名な作家として知られていたはずだ。縁側で富士がウィスキーの瓶を傍らに置いて寝転んでいる写真がある。酔ってそこから落ちたこともあり、昼間から飲んでいたようだ。独身の頃から友人宅でウィスキーをぐびぐびと飲んだという記述があり、酒好きで早く老けた気もするが、若い頃から寝る前に歯を磨かず、晩年になって本を一冊書き上げるごとに歯が1本ずつ抜けてもそのままにしたらしい。何事にもこだわらない、悪く言えば汚らしい老人だ。老人になって見栄えが醜くなるのは仕方がない。川端康成もそれを嫌悪して自殺したとされる。
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