「
竈には 三宝守る 神祀り 憤怒で荒れる 炎鎮めり」、「荒神が 弁財天の 怒りとは 水のたぎりは 炎がありて」、「荒神と 弁財天の 五分五分の 対峙の事態 事大の帯磁」、「五分五分は 互角を意味し 五は互也 糸を巻きつつ 意図を伝える」

11日のライヴ、すべての演奏が終わった後、ベーシストの宮本隆さんからCDを1枚いただいた。2年前の3月にライヴ録音されたもので、全7曲のうち、最後に収録される最も長い26分ほどの曲が武田理沙さんとの共演で、そのことはジャケットの表に謳われている。今日はその曲を中心に感想を書く。曲名を訳すと「宇宙を交換する」で、これは宮本さんらトリオの世界と武田さんのそれとの応酬を意味するが、「コスモス」という言葉を使っているのが面白い。筆者は武田さんを花にたとえると「コスモス」であると以前直感してそのことを書いたことがある。彼女は曲名に「サルビア」を使っており、その赤くて小さな花を好むのだろうが、もっと広い場所で悠々と風に揺られて咲くコスモスが似合う。それはともかく、宮本さん以外のメンバーは
11日のライヴとは違って、ギターが臼井康浩、ドラムスとエレクトロニクスが藤掛正隆で、筆者は両名の演奏をこのCDで初めて聴く。トリオとして「SCATTER ELECTRONICS」というバンド名になっているのはこのCDの演奏時に限ってのことと思うが、同じメンバーで演奏する場合は同じバンド名を使うのだろう。このバンド名は直訳すれば「電子の飛散」だ。電気的に処理した音が飛び散ることは電子的ロックかジャズを想像させるが、電子音はドラムスが担当する。それは草創期の電子音楽の波形をリフとして曲の冒頭に鳴らすことに特徴があり、その部分だけは電子音楽だが、トリオの演奏にはそれはふさわしくない言葉だ。「電子の飛散」は電気の力で増幅した楽器音を通じて奏者が撒き散らす血と汗をたとえと解釈すべきで、その点では11日の宮本さんが加わったトリオの演奏と酷似している。CDを筆者は1階のやや小さいスピーカー、パソコン、そして3階の大きなステレオをそれぞれ2,3回聴いた。装置が異なるとあたりまえのことながら迫力が違う。大音量で聴くべき音楽で、そうすれば宮本さんのベースもライヴ会場と同じように響く気がする。11日の演奏と大きく異なる点は、ドラムスが前述のように素朴な電子音をたいていは曲冒頭で奏でることにあるが、それは味つけ程度で却って印象深い。その音を別のものにすればまた曲は雰囲気が大きく変わるはずだが、CDのジャケットの幾何学的波形の集合体からすれば、またアルバムの題名や曲目表示が英語になっている点とは、ピコピコと鳴る電子音の素朴な波形音はふさわしい。電子音の使用はどの曲の場合も短いリフの繰り返しで、その点ではミニマル音楽的と言えるが、トリオの演奏としてはその要素も方向性も重視しない。
ただしミニマル・アート特有の冷たい印象とは全然異なり、熱気の表現に最大の特徴がある。その意味ではアンビエント・ミュージックからも遠いが、その要素も皆無ではなく、それに接している側面はある。そう思わせる理由は電子音の使用だが、初期の素朴な電子音楽の雰囲気が濃厚であるため、ある情景を想起させる、つまり印象主義的では全くない。こうして説明しても読み手は本質の把握が難しいだろう。音楽は聴くもので、言葉で説明するものではないからだ。その当然を前提としつつ、魅力の根源がどこにあるかを分析するには言葉に頼るしかない。全7曲のうち2曲は途中で強制終了する。これは演奏が長かったので編集でカットされた。そのことにこのバンドのひとつの特質がある。それは11日のトリオでも言える。最初から最後まで即興であれば、起承転結のそれぞれのパートが長過ぎて間延びする可能性に常に晒されている。それは音楽に元来ミニマル的な要素があることからも影響を受けている。ロックやジャズはブルースのリフやコードの繰り返しを大きな特長とし、また人間の鼓動という正確なリズムとも関係して、ドラムスやベースは特に曲の背景を特徴づける色合いを規定する。主題のない全編即興の曲ではなおさらそうなりやすく、聴き手がよほど曲に熱中しなければ途中で眠たくなる場合は多い。これは変化に富むクラシック音楽でも同じことで、次の展開の予想がつくためと言ってよい。それで前掲の強制中断された2曲もなるほどその後の演奏は想像出来る。そのことは曲としては完成度が低いことになる。ライヴ録音であるのでそれは仕方ない面がある。またCD収録可能な時間に合わせるため、さらには他の曲との対照性や曲のつながりの変化の意図もあって、饒舌と思われる部分がカットされるのは当然だ。全7曲のうち最初の6曲はトリオの演奏で、合計36分だ。これは武田さんが参加する7曲目の26分がいかに重要であるかを意味している。それでジャケットには「RISA TAKEDA」の名前がトリオの名前と同じ大きさのフォントで印刷される。男性トリオに女性の鍵盤楽器がゲスト出演すればどういうことになるか、これはおおよそわかる。まず色気が出る。色物と言い替えてもよい。そして彼女がギターとどう絡むかという期待があるが、結論を言えば出番を武田さんに譲っている感が強く、ギターは他の6曲のようには目立たない。しかも武田さんはピアノのほかにシンセサイザー、パソコンによる電子音を担当するので、なおさら音色は一気に豊かになる。その意味ではこのトリオの一種禁欲的な音楽の持ち味が色褪せ気味だが、そのことをわかって武田さんを招いて化学反応を試みたかったのだろう。その化学反応は武田さんによるアンビエント効果と言ってよく、華やかな絵画空間の現出だ。
ところで11日のトリオの演奏を筆者は最初に「酒場の談笑」と形容し、次に「抽象画」と書いた。その時に脳裏にあったのはジャクソン・ポロックの抽象表現主義絵画だ。絵具を直接キャンヴァスに垂らして埋め尽くす彼のドリッピング技法を、同時に3人が楽器を奏でることで表現する音楽を思ったためで、ドリッピングはミニマル的でもあるからなおさらそう感じるのだが、曲の半ばで武田さんが奏でる鈴の音色のような音階の登場は、ジャクソン・ポロックの絵画上に具体的な形象を加える行為と言ってよい。その意味でトリオの禁欲志向は、よく言えば華麗や荘厳性をまとうが、悪く言えば厳格性は乱され、トリオの個性は目立たない。もちろんそのことは演奏の前からわかっていることで、それでもトリオが武田さんとどう互角にわたり合えるかの期待があった。確かに互角にわたり合い、昨日の投稿のように和菓子の水無月の三角形を突き合わせた「五」の篆書のイメージを思い浮かべるが、それはゲストの武田さんの個性があまりに際立っていることを再認識させ、4人でバンドを組めばトリオの存在はかなり霞む気がする。これはトリオが目指す方向性と違いがあるからで、共演の化学反応はそれなりに面白いが、明確な起承転結があり、また予定調和を感じさせる点で古典的と言えばいいか、意外性はあまりない。実際筆者は最初に聴いた時と7,8回聴いた後とでは印象は変わらない。それはトリオの演奏がポロックの絵画を思わせるのに、武田さんが加わったことで未知の絵画を目の当たりにするという、音楽行為としてはこれ以上はない「成功」とみなすことも出来るが、しつこく言えば様式が破綻した絵画でもあって、その点が「色物」と言いたいのだ。これはもちろん武田さんの才能が優れていない意味では全くない。彼女は求められたこと以上の自己主張をし、一度聴いて彼女とわかる演奏に終始している。ところが起承転結がまとまり過ぎて次の展開は予見出来る。最初に聴いた時、筆者はもうそろそろと思ったところ、予想どおりのメロディを武田さんは横槍的に奏で始めた。それがあまりにも想像どおりで、その後の展開は確かにスリルはあるものの、ある枠の範囲内でのことで、驚愕というほどのものはなかった。だが30分近い音楽をそのように構成し得たことは大成功と言ってよい。宮本さんはそう思ったのでCD化し、また筆者に聴かせようとしたのだろう。ただし、大成功ではあるがどこか物足りなさ、あるいは月並みな意味での違和感がないことゆえの違和感が残るのはなぜか。その理由を考え、先に書いた。4人がそれぞれに宇宙を持ち、それを瞬時に表現しながら別の宇宙に合わせた、つまり調和した音を作ろうと努める。それは即興演奏に限らず、調和を旨とする音楽の決まりだ。だが前衛ないし実験を目指すのであればその根本を問い直す方向性はあり得る。
今日の冒頭の歌はたまたま「竈」の文字を今日は使う番であったことによる無理やりのこじつけだが、一方ではトリオと武田さんの共演をなぞらえた。宮本さんらのトリオ演奏は台所の三荒神になぞらえてよい。炎のように燃える憤怒の形相の神だ。それゆえ台所は常に清めて荒神の怒りを買わないように心がける。そのストイックさをトリオの演奏に認める。一方武田さんはデビュー・アルバムで江の島に取材した曲「アイランド」を収めた。それは弁財天を祀る。女性ミュージシャンが弁天さんをお詣りする例を筆者は他にも知っているが、弁財天は水の神様だ。また彼女が怒った形が荒神ともされるが、それは火と水は正反対でしかも対になるからだ。 「宇宙の交換」で武田さんは弁財天のように登場し、曲のちょうど半ばでは声を出してそれを模す。弁財天を迎えた3人の荒神はひれ伏しつつ崇め、炎を水の闘いが繰り広げられる。そのように読み解くとこの曲はなおさら大成功で、男性ピアニストでは同じスリリングな演奏にはならなかったであろう。曲の冒頭、武田さんはピアノで特徴的なメロディを奏で、それが7回繰り返される。筆者はそれを数えながら、一度だけでいいのにと思う。特徴は執拗になると効果を減退させる。一度であれば却って効果的で迫力が増す。曲の冒頭から批判的になったのだが、混沌とした4人の演奏は6分半ほど続き、そこから12分辺りまではドライヴ感満載で全員が突っ走る。これは激しいリズムでもあってミニマルとは言い難いが、ベースやドラムスを含めて同じ音を基本的に繰り返すので単調、退屈でもある。12分頃から武田さんが前面に躍り出る。そして口にしたマイクで弁天の飛翔のような雰囲気を演出する。14分頃からドラムスのリズムが変わる。これは起承転結で言えば「転」だ。やがてベース中心、そしてピアノ中心となるが、これは古典ジャズのソロと同じと思えばよい。19分頃から鍵盤とベースは変調し、「結」に向かうことが予測される。20分を少々超えた辺りでギターが目立つ。それ以後はどのように曲を締めくくるかの探り合いが続き、終末を迎えるが、ライヴではまだ少しは演奏が続いたかもしれない。全編即興であっても30分近い曲であれば明確な起承転結は必要だろう。ミニマル・ミュージックでもそうで、作曲家、演奏者は長い演奏の各部が全体のどの辺りであるかを聴き手に伝えようとする。ただしそれが見え透いてしまうと面白くない。だがそうでない音楽があるだろうか。前述のように録音したものを中断編集した2曲は、2曲であるので面白くない。1曲であれば、人間にままある「突然死」を思わせるなど、特別の意味が付与され得る。それは音楽とは直接に関係のないことではあるが。今日の2枚目の写真は裏庭で育てているコスモス。赤か白か、何色の花が咲くかわからないのがよい。

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