「
忽然と 現われ消える 何事も 人生一瞬 自他を殺すな」、「憧れの 人はおらずに薔薇ひとつ 梅雨の晴れ間に 吾のみに咲き」、「赤深き 薔薇の朽ち行く 重たさかな 花びら散らし やがて実を成す」、「立葵 赤白緑 串団子 陽射しを浴びて 人を見下ろし」
今月11日のライヴ、二番目は2年前の12月に旧「夜想」で初めて演奏を目の当たりにした丸尾丸子さんと矢田伊織さんの共演だ。前回同様、矢田さんはベースの音を小さく奏で、演奏しない曲もあった。「丸尾丸子」は「ちびまる子」のようにコミカルで、少々ふざけている感はあるが、「丸」の強調はよい。「丸」は「YES」であり、筆者も大好きだ。2年前のライヴ以降、丸尾さんは川崎市に引っ越したとのことで、今回は大阪の松原で翌日アコーディオン愛好者の会合に参加する目的もあったと聞いた。京都には長らく住んだそうだが、川崎在住となるとライヴは関東が中心になり、出番は増えるだろう。前回の感想で丸尾さんに大いに関心を抱いたことを書いた。面識を得なかったので今回そのまま帰宅しようと思っていたところ、全員の演奏終了後、わずかに話すことが出来た。聞き取りにくかった歌詞を知りたかったので、早速送っていただくことを頼んだ。さて、ブログにしばしば書くように筆者は女性の表現者の理想形について関心がある。それを2年前のライヴで丸尾さんに認めた気がした。当然彼女の私生活に立ち入るつもりはなく、彼女が結婚あるいは同棲、またひとり暮らしであっても筆者の思いは変わらない。ともかく彼女の演奏から伝わる落ち着きは生活を反映していると思えるし、その想像は安心感を与える。言い換えれば彼女は幸福の中で自己表現をしている。実際は誰もがそれなりの人知れぬ不幸を抱えているかもしれないが、そうであっても表現行為に「〇」、「YES」の思いを反映させる前向きの活力は逞しくてよい。自己表現する者はすべてそうあるべきで、そのことが賛同を得る最低条件だ。芸術に関心のない人でも「NO」の雰囲気を漂わせている場合は、物好きしか近寄らない。とはいえ世間一般から見れば、芸術を必要とする人は物好きだ。それはさておいて、女性は男よりも情緒不安定になりやすいと言えば差別と言われるが、作品に露呈する精神の不安定さは女性に多いように思う。それが独特の危うい魅力になってファンを得る場合があるが、見ていて辛いものはやはり多くの人には歓迎されない。とはいえ物事はそう単純ではない。安定した生活から表現している者より、ぎりぎりの精神状態で踏ん張っている者に肩入れするのは人情で、後者にこそ芸術が生まれ得ると見る向きはある。落ち着いてしまえばわざわざ表現する必要を感じないというのも事実であろうし、精神を敏感に研ぎ澄まし続けるには渇望は欠かせない。それには追い詰められることが必要で、経済的、精神的な不安定さは好条件となり得る。
幸福に満ちると表現行為をしなくなる、あるいはしても人を感動させ難いという意見がある。これは幸福をどう捉えるかによるが、経済的に平均よりかなり以下の暮らしであっても幸福を感じることの幸福はある。それは人生を「〇」と捉える前向きの思いだ。女性がそう思えるには男あるいは子どもの存在が重要だ。何かのために頑張れるというのが人間で、特に女性はそうだと思う。本当のシンガー・ソングライターであれば名曲を書きたいという思いが活動の原動力になっているだろう。それにはある程度安定した生活を送る必要がある。丸尾さんにその一例を筆者は見る。彼女は今回もピアソラの曲をカヴァーした。バンドネオンとアコーディオンとではどちらが演奏しやすいのか、技術的なことに筆者は無知だが、カヴァー演奏は技術力を高める思いがあってのことだ。演奏技術は必須ではないと考えるシンガー・ソングライターはもちろんいる。それはそれでまた別の話だが、丸尾さんは技術に関心がある。筆者もそうで、友禅染めでは技術のみが勝負と言ってよく、誰よりも抜きん出て器用さを有するという条件のうえに独自の作品の花が咲く。演奏技術がさしてないミュージシャンがそれなりの語法を駆使して人前で演奏する場合はよくあるだろうが、その語法は貧しい。ゆえに作品の幅は狭い。そこに技術があれば各段に表現は多様性を持つ。ただし技術を上達させるには時間と根気が欠かせず、生活の安定がある程度なくてはならない。そこにプロとアマの差がある。今回丸尾さんから南米の音楽に関心を抱いていることを聞いた。そのことはブラジルのシヴーカの曲を演奏したことにも表われている。では南米の有名音楽家の曲をカヴァーすることが丸尾さんの作詞作曲にどう活かされているのかという問題がある。筆者は丸尾さんにヴィラ・ロボスのことを少し話した。彼の『ブラジル風バッハ』を筆者は若い頃から親しんでいるが、そこには明らかにバッハでありながら、より以上にブラジルが表現されている。そのことを筆者は折りに触れて思い出す。バッハという偉大な作曲家がいるのであるから、わざわざそのブラジル風を聴く必要はないとの意見があろう。ところがヴィラ・ロボスの音楽はそんな皮相的な見方を一蹴する。ヴィラ・ロボスが作曲したおかげでブラジルは誰も表現しなかった偉大なブラジル性を持つに至った。では丸尾さんが目指しているものは何か。ピアソラやシヴーカのカヴァーを通じて彼女はまず技術を高めるとして、それを自作曲にどう活用するか。また現在それをどの程度為し得ているか。『ブラジル風バッハ』に倣えば、『南米風日本』ということになる。その道には先人の仕事が多々あろうが、アコーディオンを使ってとなるとおそらく珍しい。また歌詞を伴なうからには生活感、信条が赤裸々に滲み出て来る。簡単に言えば幸福かそうでないかが露わになる。
当夜は前回のように冒頭に口琴は奏でられず、自作曲はアンコールを含めて4曲、全部で30分程度の演奏であった。冒頭のピアソラ曲に次に歌われたオリジナル曲の歌詞は知らないが、以後3曲分の歌詞を読んでまず思うのは、「丸」に因むことだ。前回も演奏された「宇宙探査機」は丸い星の間を遊泳して最後は惑星に衝突させられる運命にあった機械について歌うが、歌詞に「探査機」の言葉はなく、役目を終えて最後はつぶされる、つぶれる人間のひとつの生き方を隠喩している。「コロッセオ」はローマ時代のグラディエイターについて歌う。これは円形競技場での殺し合いで、同じく「丸」のイメージを伴なう。アンコール曲「まわるせんたっき」は全部平仮名にしているところが女性らしいが、「まわる」は「丸」で、丸尾さんは名前どおりに「丸いもの」に対して関心が強そうだ。「まわるせんたっき」は筆者のように洗濯機を回したことのない駄目亭主にはいかにも女性らしい観点に思え、また好感が持てるが、この曲で歌われることは家事を超えてもっと人生の深淵を覗く。それは諦観ではなく、さりとて無理に結論づけて思考を断絶する立場でもない。宇宙あるいは人生は洗濯機のように回っていて、絶えず形を変えている。そのカオスにコスモスがあるのか、その逆なのか、考えていると人間は睡眠を取る必要があって思考を停止し、次は夢に委ねるしかない。それで歌詞の最後に「おやすみ」がある、と筆者なりに考えるが、歌詞の「まわるせんたっきのようなもの……似て非なるもの」は「日常の変化」として、そのことを戸惑いつつも客観視していることに生活の余裕を感じさせる。「命を落とすまで闘う残酷な世界」という歌詞のある「コロッセオ」は、人間の死を観戦した残酷さに思いを馳せるが、暴君は絶えず、今はロシアがウクライナに殺し合いを挑み、それを世界中の人が「観戦」している。もっとも、この曲では麻薬によって剣闘士の痛みを和らげる行為を「イタイイタイの 飛んでゆけ」と歌い、命を賭けて戦う男、存在に対する母性が顕著だ。そこに丸尾さんの最大の持ち味がある。女なら誰でも母性があるかと言えば、昨今のニュースからは子どもを産んでも無関心な例がよく見られる。母性を優しさと言い換えればそれは男にもあるが、父性と母性は違う。そして男は母性に安心感を覚える。丸尾さんの歌詞は俗語を含み、語り口調に近く歌われる。そこには歌詞を厳密に書いた後に作曲したのではなく、同時進行でどちらも湧いて来た感じがある。また彼女の声は技巧を誇示するには不向きだが、語りかけるような、つまり物語性を歌うことに向く。「丸」に因む短い曲をたくさんつないで組曲を作り、その合間にピアソラを初め南米の作曲家の作品を分析する過程で得た独自の語法を含む曲でつなげば面白いだろう。もうそんなことはとっくに丸尾さんは考え、実行しているのかもしれないが。
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