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●「SOLO FOR NEIL」
びを 分かちたき時 言葉あり 憎しみ増すは 心は土ぞ」、「伝えたき ことは言わずに 別れしが 伝えて届く 相手ではなし」、「歳の差を 気にせず伝え 誤解され 若きに老いは 視野に入らず」、「悦びを 噛み締め閉じる 厚き本 妻に背を向け 涙拭いて」●「SOLO FOR NEIL」_d0053294_23193004.jpg先月取り上げるつもりであったハープ奏者のジーナ・パーキンスについて書く。筆者は彼女のCDを4枚のみ所有し、どれも毛並みが違い、どの曲を代表させていいかわからないが、本日の題名は彼女の珍しいソロ曲を使う。表現者が多面的であることは珍しくないが、ジーナは全貌が捉え難い。それで別の作品を聴くと筆者の思いは変わるかもしれない。彼女は1956年生まれで、ハーヴァード大を卒業している。音楽家に知性があるべきかとなれば、これはどの芸術の分野でも同じで、知的であるほどに作品は深みが増すと筆者は考える。もっとも知性が有名大学を卒業しているかで測られることはない。それどころか40,50になっても有名大卒であることだけが自慢な凡人は無数にいる。もちろんジーナはそうではなく、4枚のCDは聴き込むほどにさまざまなことが見えて来る。それに張り詰めた神経による冷厳な美意識への強靭な渇望がどの曲にも感じられ、似た音楽家は今のところ筆者は知らない。写真で見る限り、勝気な表情で、少々近寄り難さを感じさせるが、YouTubeで演奏中の様子を見るとさりげない女性らしさが出ていて好感が持てる。今は女性らしい、男らしいという言葉を使うのは時代遅れとされるが、男が女性を自分とは違う何かを持っている存在と思うことは本能だ。そのことによって種の保存が保たれて来たからには、女性らしさをことさら否定することはいかがなものか思う。とはいえジーナが演奏中に見せる女性らしさは男性の演奏家が所有する場合もあって、男にも女性らしさがあることになる。それを繊細な美意識と言い替えていい。細やかな意識を保って表現することを否定する人は、表現者としては凡庸だ。たとえば絵画の贋作者は必ずそういう馬脚を表している。たとえば植物をきわめて写実的に描いた絵画の画集を見たことがある。多くの人は本物そっくりと褒めそやすが、筆者は一瞬で違和感を覚え、嫌悪を催した。どの葉脈も実物をじっくりと観察して描いたものではなく、思い込みの手慣れにより、真実らしさを追求しながら、写実の基本を理解していない。音楽にもたぶん同じことが言えるだろう。では表現の基本とは何か。ヨーコ・オノは自分の奇声を発する歌唱法を、川で溺れる者が何かを考える以前に本能的に叫ぶことになぞらえている。これは瞬時に状況を判断して思いを発するという、彼女の即興演奏の解釈をうまく説明する。また観客はライヴの演奏を川で溺れる人の咄嗟の所作のようにはらはらしながら見るが、そういう緊張の連続はクラシック音楽で長年味わって来られたことで、瞬時に次々と消えて行く音楽では緊張感が命だ。
 先月書いたように、ヨーコ・オノがオーネット・コールマンのコンボと共演したことの意味はきわめて大きかった。ヨーコはニューヨークの音楽シーンでも先駆的な業績を残した。ジョン・ケージの前衛音楽にジャズ、そしてビートルズのロック、しかもザッパとの共演も果たして、当時最先端かつ重要な異なった音楽を一気に混ぜつつ、彼女なりの、彼女ならではの表現を行なった。その土壌にジョン・ゾーン及び彼のTZADIKレーベルでアルバムが発表され続ける新たな作曲家、音楽家の表現が開花した部分は確実にある。その流れにジーナ・パーキンスも属する。先月彼女を取り上げようと思いながらヨーコ・オノについて書いたのは、ヨーコのアルバムにジーナが参加しているからだ。そのさりげない出演はジーナの経歴では特筆されないほどの些細な経験だが、興味深いのは、ヨーコの音楽性にジーナが共感したこととは別に、ヨーコの女性解放運動の思想にジーナが共鳴していることだ。つまりジーナの作品は女性性を強く意識したものだ。それは男性不要論者としではなく、また男とことさら対等にわたり歩く強き意志の表明でもなく、女性という性の基盤に立っての表現だ。同じことは女性の表現者として名を遺したすべての作家に言い得る。ところが世の中は男性本位の歴史が長らく続き、女性の表現者を取り巻く環境は男以上に厳しい。それは子を産んで育てるという女性にしか出来ない身体の特徴に負う部分が大きいという理由もあって、女性が芸術を目指すには、結婚して子を産み育てることとどう折り合いをつけるかという、いわば男性に比べてのハンディキャップがある。それで同棲はしても子を作らず、作品表現行為を優先させる女性は常に無数にいるが、彼女らのうちの何パーセントが作品によって名前を長く歴史に留め得るかと言えば、きわめて稀なことと言わねばならない。たとえば富士正晴が知り合った久坂葉子は優れた文才を垣間見せたばかりで、男問題から20そこそで自殺した。また富士が好んだヴァージニア・ウルフも精神を病んで自分で命を絶った。自殺しなくても悲惨な人生を歩む場合があるが、それは他者がそう思うだけで本人は満足かもしれない。去年東京のバス停で若者に殴り殺された60半ばのホームレスの女性は、若い頃は演劇の女優であったという。写真からは美人で真剣な演技をしていた様子が伝わるが、その後彼女は男性運も仕事運からも見放されたのだろう。もっと器用に生きられなかったのかと思うが、舞台女優として30代で芽が出なければ残りの長い人生を方向転換するという決心がつけられないほどに自意識が強く、それだけに若い頃の彼女は独特な演技をしたのかもしれない。とはいえそれをほとんど誰も記憶しない。同じような運命をたどる女優は稀と思いたいが、今この瞬間にも独身のままに齢を重ね、ごく限られた仲間うちでしか知られない表現者の女性は無数にいる。
 ミシュレの『女』を今の女性が読むと時代遅れがはなはだしいと嫌悪するかもしれない。ミシュレはどの女性も結婚して子を産み育てるべきとは言っておらず、結婚せずに芸術表現に邁進する女性を認めている。ミシュレの時代と違って女性はもっと多様な生き方が出来るようになったが、そこにはヨーコ・オノらが先頭に立った60年代の女性解放運動の効力が大きい。その狼煙は消えやすく、別の女性が継いで行く必要があって、ジーナ・パーキンスはその立場を自覚している。彼女がヴァージニア・ウルフのように自殺せず、60代半ばになっていることに筆者は安心感を覚えるが、所有する4枚のCDを年代順に聴くと、年々過激さが増し、多彩な魅力を獲得していることに感心する。そのように才能が開花し、長年持続する表現者は男でも珍しい。ミシュレが生きていれば彼女に全幅の信頼を置き、女性芸術家のひとつの鑑として評価したであろう。また筆者がそのように想像することの裏には、日本の女性音楽家の置かれる状況がアメリカとどう差があるのかという関心とは別に、音楽の基礎的な才能がどのように必要なのかという問題だ。もちろんそこにはアイドル歌手のような女性性を最大の武器として売り物にする人たちは除外する。顔が美しいとか、全体の雰囲気がかわいいといったことは、その人物の表現とは無関係とまでは言わないが、虚飾を剥ぎってなお価値のあるものを問うのが芸術の立場で、男を引き寄せたい思いが見え透く表現者に筆者は興味はない。男に媚びずに魅力を湛える女性に男は弱いが、ジーナはそういう女性の一例と筆者には思える。最近ジェニー・シャインマンの音楽をまた聴きたくなっているが、ジーナは彼女と同じくユダヤ系で、最初に書いたようにハープ奏者という変わり種だ。しかも弦の数が多い分、エレキ・ギターを数本束ねた攻撃性があって、クラシック音楽のハープの音色を想像する人の度肝を抜くような音色や演奏だ。話を戻す。即興演奏はバロック時代からあって珍しいことではないが、合奏者が全員好き勝手に演奏しながら全体としてさまざまな対話の推移にまとまりがあるというのは、演奏に始まりと終わりがあること、また演奏の持続時間は聴き手の疲労を勘案して制限を受けることからは当然ではあるものの、川で溺れながら必死で叫んでいることになぞらえ得るその必死さ加減がさほど感じられず、むしろ弛緩具合が目立てば、それは駄目な演奏、才能のない音楽家たちとみなされる。この判断は直感によるものであるだけに却って間違いがない。弛緩は慣れに関係し、絶えず工夫、更新して行く気概が表現者に求められる。真のジャズはそういうものだろう。だがジーナの音楽はジャズと呼ぶべきか。後述するが、4枚のCDの最初の3枚は現代音楽と呼んでよく、また楽譜に書かれた再現可能な楽曲だ。その意味からはジャズとは無関係だ。
 ヨーコ・オノがジョン・ゾーンと共演した様子はネットで見られる。ジョン・ゾーンがオーネット・コールマンを徹底的にカヴァーし、いわばフリー・ジャズが生まれて来ることになったその前夜のジャズの手法を完璧に習得し、それをユダヤの音楽語法で言い替えた仕事が、彼の多彩な仕事のひとつで、またTZADIKレーベルの根幹の思想になっているが、オーネットの1961年のアルバム『フリー・ジャズ』は今聴くとやはりどこか古臭いのは、音楽に主題が必要と考えられていたことによるだろう。ただしオーネットはその後にもっと遠い境地に達したし、ヨーコ・オノとの共演では主題は奏でられない。ジョン・ゾーンには主題を重視した曲が数多くあるが、最初から最後まで即興演奏のみも意図的にして来ている。そこにジーナを対置させると彼女の音楽性がわかりやすいが、彼女は即興演奏本位の音楽家としての部分が拡大して来たのかどうか、筆者にはわからない。筆者が最初に買った彼女のCDは『ISABELLE』で、20年近く前のことだが、92,3年に録音されたその1枚だけでは彼女の特徴はすべて把握出来ない。彼女はその後TZADIKから96年に『MOUTH=MAUL=BETRAYER』、99年の『PAN-ACOUSTICON』を発売し、『イザベル』とともに3部作と位置づけられているが、筆者は『MOUTH=…』をまだ聴いていない。TZADIKからはその後数枚アルバムを出していて、2006年の『NECKLACE』に今日の題名のハープのソロ曲が含まれる。また去年発売された『GLASS TRIANGLE』は全曲がサックスとドラムスと組んだ即興演奏で、凄まじい気迫に満ち、所有する他の3枚とは全く別の音楽性が表現される。ジョン・ゾーンのTZADIKからの発売が目立つことからわかるように、彼女はユダヤ人としてのアイデンティティを強く意識し、またユダヤ人が迫害されて来た歴史や、独自の文化を培って来たことに大いに関心があるように見える。『イザベル』はジャケットがイスラム圏の女性の写真を使う。CDの前半がイザベル・エベラールという女性の生涯についての音楽による映像詩、後半はイクエ・モリとの共演で、即興演奏の才能はまだうかがえない。スイス生まれのイザベル・エベラールは20代後半に男装してアルジェリアにわたり、小説を書き、夭逝した。小説は日本語訳も出ていて、彼女の生涯は映画化もされた。ジーナがイザベルに関心を抱いたのは、女性解放運動が始まる60年ほど前にアルジェリアに単身わたった勇敢さに敬服してのことだ。イザベル以降のイスラム圏における女性作家に焦点を当てた論文『マリカ・モカデム:砂漠からのエクリチュールへ』がネットに出ていて、女性視点でのその文章は実に興味深く、一読を勧める。また同論文を読んでジーナの『イザベル』を聴くと新たな思いが湧いて来る。
 ジーナがイザベルの生き方に興味を持ったことは、最近のアフガニスタンにおける女性の地位低下を見ると、一過性のことと看過出来ない。イザベルがアルジェリアに行く決心をしたのは、裕福なユダヤ系フランス人の母、父親はロシアの有名なニヒリストで語学に堪能で、イザベルは父からアラビア語まで教えられたことから説明がつくのだろうが、ジーナは多国語を話す人物に強い関心があるようで、そのことは『PAN-ACOUSTICON』からわかる。同CDはウィリアム・マッカグというハーヴァード大で教えた多言語学者へのオマージュで、『イザベル』のようにはアルジェリアの異国の情緒を表わす音楽ではなく、またイザベルの悲劇的な生涯とは違うものの、マッカグが晩年耳が聞こえなくなって行った悲劇に触発された作曲だ。ジーナはマッカグの奧さんで彫刻家のルイーズから話を聞いて想を練ったが、マッカグの業績はイザベルの父のロシアと深く関係し、またジーナはロシアのユダヤ人に関心があるのだろう。3部作の最初の『MOUTH=』もロシアを含めてヨーロッパ全域で住むユダヤ人の独特の発音訛り、そしてそれを利用することでユダヤ人であることを見抜く人種差別が行なわれて来た歴史に着目するが、ジーナが同アルバムで実際のユダヤ人のそういう訛りのある言葉を音楽の一要素として使っているのかどうかは知らない。『PAN-ACOUSTICON』は人の声を含まず、ジーナ以外に女性4人の弦楽四重奏団を起用して楽譜どおりに演奏するが、スティーヴ・ライヒのようなミニマル的な音楽ではない。弦楽四重奏は『ネックレス』の冒頭曲『パースエイジョン』にも起用され、またそこでは弦楽器の音色を極限にまで拡大しようとする意識が見え、美しいという言葉以外に思いつかないが、ジーナの同傾向の音楽では頂点をきわめているだろう。日本には馴染みのない人物へのオマージュ作品となれば、ジーナの音楽をまともに聴こうとする人は数少ないと思うが、『ガラスの三角形』は全編が即興で、文学的要素は皆無だ。筆者はこのCDを今のところ彼女の作品では最も好むが、彼女のエレキ・ハープはギターのピックアップをたくさん並べて取りつけたもので、その先鋭的な外形をサックスとドラムスとのトリオになぞらえつつ、音楽も三角関係の緊張を持続させ、全く新しい音楽を聴く気分になれる。ただしジーナの存在はサックスにやや隠れ気味で、それが物足りないが、そこに彼女の一種の女性らしさ、奥床しさのようなものがあるのかもしれない。その点で彼女はヨーコ・オノのようには自己主張が強くない。今日の題名の曲は『爪のためのソロ』ではなく、ニール・グリーンバーグというダンサーからの委嘱作で、珍しくアコースティックのハープを奏でる。4分弱の短い曲だ。筆者はYouTubeで彼女の演奏をまだ2,3しか見ていないが、即興の凄みはよく伝わる。
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by uuuzen | 2022-05-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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