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●『ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術』
糺し 夥しきや 柔ら人 式に臨みて 士気望まれり」、「前衛は 何でもありの よろず屋で コンビニアート きっと買っとこ」、「思いつき 見える形に してアート あっと驚き 轟く名前」、「有名に なれば何でも 売れにけり へたかうまかは 誰も気にせず」



●『ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術』_d0053294_15261688.jpg19日は大谷記念美術館と兵庫県立美術館に訪れた。今日は後者で見た展覧会について書く。ミニマル・アートとコンセプチュアル・アートについて現在の中学の美術の教科書でどれほど言及されているのか知らないが、美術ファンでも敬遠する人が多いのではないだろうか。それでも本展の会場で置かれていた他館での企画展のチラシに、東京での『ゲルハルト・リヒター展』があって、現代美術全般が敬遠されていることは全くない。大阪ではバンクシーの展覧会も4月から開催中で、TVやネットを通じて世界的によく話題になるバンクシーだけに入場料もかなり高い。どの分野の芸術でも同じだが、ごく一部の人が知るものと、大衆人気を得るものとがある。後者は企画側が儲かるから日本各地の巡回を考え、そのことでさらに人気が高まる。その俗受けする人気を前者の芸術を高く評価する人は侮りがちだが、大勢の人が知るものは案外侮れない。よくもわるくも絶大な人気は歴史に刻まれ得るし、そこから新たな潮流も生まれる。バンクシーの名前とおおよその画風を知っている人の中にゲルハルト・リヒターの名前を聞いたことのある人がどれほどいるかとなると、百人にひとりもいないのではないか。本展ではリヒターの絵画が展示され、副題が謳うように半世紀前の作品で、歴史に組み込まれているが、リヒター以外に紹介される作家とその作品を知る人はさらに百人にひとりの割合だろう。あるいは筆者の考えがあまりに古く、リヒターの芸術が正しく評価されているので日本の美術館で大規模展が開催されると見るべきなのか、ともかく現存の画家の展覧会が開催されることは日本における現代美術人気の高さを示す。ミニマル・アートもコンセプチュアル・アートも多くの作家を紹介する企画展はあまり開催されず、両方の傾向を持つ芸術が世界でどういう広がり方をしているのかを概観することも難しい。早速筆者は本棚でこれまでに見た図録を探し、1990年10月に国立国際美術館で開催された『ミニマル・アート』と、その5年前の2月における同館での『現代美術への視点 メタファーとシンボル』の2冊を引っ張り出した。隣家を探せば他にもあると思うが、現代美術をそれなりに見て来ているつもりの筆者でも即座に思い出す企画展はこの2冊だ。一方、ミニマル・アートと対照的にポップ・アートを想起し、こっちは言葉の明るさも手伝い、またミニマルから連想する地味で目立たない印象とは正反対に派手でカラフルな作風が中心を占め、個人展やファンの数は圧倒的に多い。こう書くと本展の内容がおおよそわかるはずで、チラシの地味な写真に応じた客の入りであった。
 ミニマルやコンセプチュアル、ポップはアメリカが牽引して来た現代美術の流派と言ってよいが、ポップ・アートのたとえばアンディ・ウォーホルの作品はオークションに出ると何百億円という高値で落札される。先週日本の有名な若い大金持ちが数年前に購入したバスキアの絵を転売して40億円ほど儲けたニュースがあった。現代美術はごく一部の大金持ちのステイタスを誇示する道具になっていて、いかにも「金こそすべて」主義のアメリカ文化の世界制覇を思う。歴史を振り返れば世界一の経済的豊かさを保有する国が当代の美術の首座を確保することは間違いがない。日本はバブル期に世界一の金持ちに一瞬なったが、その頃の日本の現代美術家の作品が世界の市場で通用する価格に高騰したかと言えば、そう言えるところはある。となればこれからは中国や韓国から国際スター的美術家が出て来るはずで、そうなって来ていると見てよいが、現代美術はあまりに作家の数が多く、誰も適切に総花的に人物と作品を選ぶことは出来ないだろう。それほど現在は捉え難い。本展はひとまず現代美術の古典作が見られるにもかかわらず、初めて知る作家がいると言う人は少なくないだろうし、見てもすぐに忘れるかもしれない。それほど作品に魅力がないという理由ではなく、見所、感じどころがよくわからないという戸惑いが先に立つからだ。またその戸惑いをもたらすことが作品にとっては成功で、「なぜこれが芸術なのか?」という素朴な疑問を鑑賞者に惹き起こさせ、言葉はよくないが、異物として抵抗を覚えるところに魅力があると言い替えてよい。現代美術では最大の先駆者のマルセル・デュシャンはレディ・メイドの量産品に目をつけ、市販されている陶磁器の男用の小便器に署名と年号を書き、「泉」と題して作品として展示した。1世紀前のことだ。それから今に至るまで美術がどのように変遷して来たかを知るうえで、ミニマルとコンセプチュアルのふたつは古典の潮流となっているが、当然デュシャンのやったことを模倣することは出来ない。新たな考え(コンセプト)が必要で、デュシャンの「泉」のようにこれでまで美術の文脈では考えられなかった無気質の、ほとんどそれだけでは意味を持たない最少(ミニマル)の素材を使って、今まで誰も見たことのない、したがって感じたことのない作品を作る動きが始まった。日本では70年代に独自に「もの派」が芽生え、そこにミニマル・アートが接しはするが、本展では日本の作家は「もの派」ではない河原温だけが取り上げられた。それは本展の副題が示すドロテとコンラートのフィッシャー夫妻に河原が宛てたはがきが、河原の一連の作品行動のひとつであるからで、河原が同夫妻の画廊で本格的な個展を開催し、夫妻が彼の作品を積極的に購入したかどうかはわからない。ともかく本展はフィッシャー夫妻が関係したミニマルとコンセプチュアルの作家たちを取り上げる。
●『ミニマル/コンセプチュアル ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術』_d0053294_15264189.jpg 筆者はフィッシャー夫妻のふたり揃った写真(2枚目左下)を昔何かで見た記憶が朧げにあるが、本展で彼らの役割を初めて知った。デュッセルドルフに住み、1967年に画廊を経営し始め、展覧会を手がけた作家の作品や資料を収集した。本展はそれを核にして日本各地からも作品が集められた。夫妻が亡くなった後、収集品はデュッセルドルフを州都とする州立美術館に収まった。前言を繰り返すと本展の作品はどれも地味で、市場に出てもバスキアのような高値はつかないだろう。スター性に欠けると言ってよいが、それは作家を見出す画廊や関係者の力量に負う部分も大きいことは、バスキアの生涯を描いた映画でも明らかだ。また作家自身が有名になることを目的として制作していると断定することは出来ず、バスキアのような名声が得られないとして、それが芸術性の価値や作品の純粋性とは関係がない。もっと言えばバスキアのように夭逝して死後に有名になって莫大な金額で作品が取り引きされる画家の運がよかったとは全く言い切れない。作家はとにかく作品を猛烈かつ真摯に作るだけのことで、その点を見定めてフィッシャー夫妻は自分たちの画廊で作家の個展を開催した。それは海のものとも山のものともわからない作品だが、夫妻は作家の個性と新しさを認めた。つまり前衛芸術の一端はそうした理解者がなくては表現を提供する場がないが、バンクシーは街中に絵を描くことでそのことに異議を表明してもいる。その意味ではジョニ・ミッチェルが歌詞にする路上でチョークで描く画家とさして変わらないが、ネット時代になって情報が即座に世界中に駆け巡ることに着目している点で新たな意味での「現代」美術と言える。そのことから本展を眺めると、やはり時代性が露わで、戦後の冷戦時、またアメリカではヴェトナム戦争時のことで、平和な日本とは違う新しい美術の傾向がわかる。こう書いてしまうと、いかにもわかったような気になるが、時代と美術が切り離せないとして、オットー・ディックスが従軍して戦争の惨禍を描いたような、自己の直接的な経験に対する即呼応がどの美術家にも言い得ることはない。表現行為はもっと複雑で、前述したデュシャンからつながる流れや先立つ抽象表現主義に対する批判もあって、ミニマルやコンセプチュアルのアートを楽しむには先行する美術の見方や知識がある程度は欠かせない。その意味で知的な芸術と言ってよいが、最小の要素で見せるミニマル・アートや、考えの独自性を提示するコンセプチュアル・アートは作家の考えを理解しようとする努力が必要で、またそのことを楽しいと思えなければならないが、これはどのような芸術についても言えることだ。誰もがわかりやすいと思っている具象画も同じで、たとえばセザンヌのよさがいつまでも理解出来ない人はいるし、ミニマルやコンセプチュアルでも即座に美しいと感じる作品はある。
 ミニマル・アートにしてもその言葉の下に作家たちが集まって団体行動を繰り広げたのではなく、一時的にミニマル風であった作家はいるし、自分の作品をミニマルと評価されることを嫌う者もあったろう。またミニマルとコンセプチュアルの双方にわたる作家もいて、本展の出品作にしても双方のアートに分けて展示されたのではない。図録を買わなかったが、無料配布の目録にしたがって本展の構成を列挙すれば、1「工業材料と市販製品」、2「規則と連続性」、3「「絵画」の探求」、4「数と時間」、5「場への介入」、6「枠組みへの問いかけ」、7「歩くこと」、8「知覚」、9「芸術と日常」で、作品の特徴がその言葉で言い表しやすいという理由により、作品によっては複数の分類にまたがる。1はアメリカのカール・アンドレとダン・フレイヴィンの作を展示する。本展のチラシの表側に前者の作品の写真が載る。10センチ角の鉛の立方体144個を用い、隙間なく並べたり点在させたりする可変的な作品で、題名「雲と結晶/鉛、身体、悲嘆、歌」は詩的で、無機質の抽象からどう感じてほしいかの作者の誘導が見える。ただしこの題名が何かを厳密に指すことはなく、抽象的に留まりはするが、「悲嘆」という言葉の重みは大きい。この作品が鉛でなくて明るい色のスポンジを使い、「悲嘆」を「歓喜」に変えれば、作品の質はがらりと変化する。となれば作家が鉛を選んだところに大きな意味を見出すべきだろう。144個をどのように並べてもいいという可変性はインスタレーションの美術に分類出来るが、カール・アンドレがその先駆者かどうかは知らない。本展では彼の他の作品として正方形の金属板を100枚用いた「鉛と亜鉛のスクエア」があって、静岡県立美術館が所蔵する。こうした作品のどこが芸術かと憤慨する人はいるだろう。誰でも模倣出来て作品の市場価値もないと言えばそれまでだが、デュシャンの「泉」がそもそもそうであった。先日河井寛次郎が市販される塩ビ管のL字型継手の新聞広告に触発されてその形を模倣した壺を作ったことを書いた。その行為がよくて、市販の継手を美術品として使うことは許されないのか。それは見せ方次第で、作品独自の芸術性が露わになるかどうかが問われる。また多分に画廊や美術館という会場が物を言う。デュシャンの「泉」はその画廊や美術館の存在を問うたと言ってよく、聖なる空間に飾られると人はそこに聖性を見やすい。それゆえ、小便器や鉛の箱や板を見て、「これのどこが芸術なのか」と憤ることも正しいと言わねばならない。ただ作家は作品を提示するだけで、それを鑑賞者がどう判断するかは自由だ。ミニマルの作品はその最少の表現性にもかかわらず、非常に押しつけがましいところがある。言い換えれば解釈が自由過ぎて取りとめがない。ダン・フレイヴィンは蛍光灯を使った作品で有名で、本展では東京都立美術館所蔵の1点が展示された。
 最初に言及した『ミニマル・アート』展にはとてもカラフルなダン・フレイヴィンの作品が展示されているが、それで思い出すのはポール・マッカートニーの2013年のアルバム『NEW』のジャケットだ。光る蛍光灯を縦横に並べた写真を使うが、ダンは96年に亡くなっている。2ではアメリカのソル・ルウィットと筆者が好きなドイツのベルント&ヒラ・ベッヒャーが取り上げられた。ソルの作品は『ミニマル・アート』でも紹介された。金属や木材で立方体を構成し、それを配置する作品で、カール・アンドレの手法に近いが、立方体はだいたい中空で、建築物の骨組みを見る思いがある。彼はまたプランを数多く設計し、その指示にしたがって第三者が制作してよいことにした。その意味でも建築を思わせるが、装飾性を排除しているので作品に妙なべたつき感がない。そこに逆に詩情が浮かび上がる点ではカールと同じと言ってよく、インスタレーション的な新たな彫刻に分類していいだろう。本展ではフィッシャー夫妻が所蔵した資料以外に滋賀県立美術館から作品が借りられた。ベッヒャー夫妻の写真作品については説明するまでもない。「規則と連続性」を言えば筆者のこのブログのいくつかのシリーズ投稿にも言える。たとえば「飛び出しボーヤ」の看板写真で、筆者は見つけ次第適当に撮影しているが、ベッヒャー夫妻は何年にもわたって用意周到に石炭貯蔵庫や送電塔をモノクロで撮影し、それらの類似する工場建築物を複数並置した写真を発表した。そこには独自の美が立ち上っている。3はロバート・ライマン、ゲルハルト・リヒター、ブリンキー・パレルモの3名だ。ロバートの絵画は『ミニマル・アート』展でも出品された。白の絵具でキャンヴァスを筆致がわかるように埋め尽くし、具象的な、つまり三次元的な何かを表現しない。その点は草間弥生の初期の作やロスコに通じるが、ロバートは絵具を載せる土台の素材を麻布に限らなかった。ゲルハルト・リヒターは東京都現代美術館が所蔵する有名なモノクロの1点「エリザベート」のみで、写真を元にした具象画だ。しかも全体にピントがぼけていて、チャック・クローズのスーパー・リアリズムの反対を行く。ブリンキー・パレルモは名前からしてイタリア人かと思うが、ドイツ人でしかも30半ばで死んだので作品は多くないだろう。本展では日本の所蔵者からいくつか借りられた。どれも小品で、三角形や楕円を平明かつカラフルに描き、イタリア的な明るさを感じさせる。「灰色の円盤」は横長楕円の小さなオブジェで、鑑賞者の手の届かない高い壁面に展示され、展示の仕方で訴える力が増すことを意図している。4はハンネ・ダルボーフェンと河原温で、前者はドイツ生まれで、作品(2枚目の写真右下)はカレンダーの数字や計算に憑りつかれた、絵画とは言えないもので、説明を読んでもよくわからないが、途方もないエネルギーは伝わる。
 書き疲れて来たので以下は概略。5はダニエル・ビュレンとリチャード・アートシュワーガー。前者はフランス人でビュランとも呼ばれる。赤白のストライプを描く作は星条旗を連想させるが、やがて縞模様の市販の布を見つけてそれを使うようになる。街角に縦縞模様の作品は目立つと考えてのことで、日本の紅白の幔幕はその考えを何百年も前から実行していた。後者は印象なし。6はマルセル・ブロータスとローター・バウムガルテンで、この両者は全く覚えていない。それで目録の展示室表示を見ると、どうやら筆者は5から6の部屋に入り込まずに右手に広がる7に移動した。7はリチャード・ロングとスタンリー・ブラウンで、前者は歩きながら見つけた枝をストライプ風に床に並べたフィッシャー画廊での作品が再現された。これはゴッホのアルルでの部屋と同じ縦長ながら奧が広く、等間隔に並べた枯れ枝は部屋の長辺で順次短いものが使われていた。また野原を一直線に何度も往復して歩き、踏み固められた一本の線を写真に撮った作(2枚目の写真左上)は、人が歩けば道が出来ることの視覚化となっている。後者は白い大きな紙を歩道に敷き、それを歩行者に踏ませた痕跡を見せていた。日本のアンデパンダン展に馴染むような作風と言えばいいだろう。8はヤン・ディベッツとブルース・ナウマンで、前者は写真を使った作品で、リチャード・ロングに少し似るが、人間に具わる遠近の眺めを写真上でそうではないように見せる。たとえば地面に立つ人は地面に描かれた長方形を台形として見るが、ヤンは地面に台形を描き、それを写真で撮ると正しい長方形に見えるようにした。これは割合誰でも考えることで、単なる思いつきと言ってもいいが、何事もコロンブスの卵であって、他者が見える作品として提示することはそれなりの先駆性があってのことだ。後者は記憶にないが、9の前半でも彼の作は取り上げられた。これはオープン・リールのテープデッキにテープを長い輪状につなぎ、一方をデッキのヘッド、もう一方を遠く離れた椅子にわたして、30秒ほどの音を繰り返し再生するインスタレーションで、録音は自動車の音などを含む工場地帯を思わせるものだ。彼の作品は絵画、彫刻、映像など多岐にわたり、本展でのわずかな作品では全貌を捉え切れないようだ。9の最後はイギリスの有名なギルバート&ジョージで、彼らのパフォーマンスを紙媒体(2枚目の写真右上)で紹介していた。本当は記録映像が見たいところだが、YouTubeに投稿されているか。ギルバート&ジョージは顔や衣服全体を真っ黒にして街中に銅像のように立ち続ける大道芸人の延長を思わせる。昔から日本でも存在はよく知られ、東京では個人展覧会も開催されたかもしれないが、関西ではなかった。平日に出かけたこともあって館内は空いていたが、熱心にメモを取る若い女性がいたことが印象的であった。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する

by uuuzen | 2022-05-26 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
●『佐藤健寿展 奇界世界』 >> << ●撮り鉄の轍踏み蘇鉄読み耽り、...

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