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●『佐藤健寿展 奇界世界』
脂色 目立つ子どもの 戦争画 大人起こすや トラウマ悲し」、「珍しき 人を訪ねる 凡人に わかるはずなし 正しき価値は」、「敬わず 遠ざけたるや 自信家の 誇りたきもの 金と名誉と」、「とりあえず 山は越えたと 医者は言い 谷に落ち込み ご臨終に」



●『佐藤健寿展 奇界世界』_d0053294_23451605.jpg
西宮市大谷記念美術館での企画展は、二流どころと言えば非難されかねないが、他館では取り上げない作家を中心とし、百貨店での展覧会と違って面白いものが目立つ。これはあまり客が入らなくてもよいという考えで、税金の無駄遣いと言い市民もいるだろうが、独自性を発揮し続けている点では関西でほとんど頂点に立つ。大きな美術館ではほとんど10年や20年ごとに有名画家の同じような内容の展覧会を開催する。それらは一館だけでの開催では外国から借りて来る経費の捻出が困難なので、たいていは東京と関西、あるいは全国数か所に巡回するが、筆者のように半世紀見続けて来た者にとっては新鮮な内容のものはほとんどない。あっても東京のみの開催だ。何年も遅れて筆者はその図録を入手し、実物を観たかったと残念な思いに浸る。大谷記念美術館は阪神大震災以前に全面的に改装して市立となった。旧館の部屋の間取りをかなり踏襲し、解放的な空間も手伝って気分のよい美術館となっている。19日に訪れた本展のチラシは、2月に大阪中之島美術館で入手したと記憶する。チラシは表側が異なる2種が作られ、どちらも俄かにはどういう内容の展覧会であるかはわからない。それはチラシを入手しても筆者はほとんど見ないからだ。それで本展も絵画なのか立体なのか、どういう作品が展示されるのかを気にせずに出かけた。音楽と同じで、前知識なしで筆者は作品に接することが多い。そのほうが衝撃の度合いが大きいからだ。こうして書く理解云々は作品を見た後に考えることで、その前提としてまずまっさらな目で見ることが重要だ。言い換えれば先入観を持たずに見ることだ。それは「奇」を求めたいからで、展覧会はその意味でも「奇観」を提供する見世物と言え、人々は時間と金を使って「面白い」気分になりに行く。今後どれほどネットが進歩してもそれは画面上の幻想であるから、マチエールのある絵画や立体の彫刻の味わいの皮相的な部分のみ、しかも疑似的にしか味わえない。それゆえ人間が存在する限り、展覧会はなくならないが、仮想空間により現実性を感得する半ロボット人間が増加すれば、「物」は不要で「データ」だけ残ればいいという時代になるかもしれない。その傾向は加速化しつつあるだろう。さて「佐藤健寿(けんじ)」の作家名を本展で初めて知り、写真家であることもわかった。近年写真展は珍しくない。またデジタル・カメラで撮影されることが中心で、その写真はネットと相性がよい。その意味では展覧会で鑑賞する必要があまりないが、写真家が決めた大きさにプリントされたものを見ることには特別の意味がある。
 館内の最後の部屋で佐藤のインタヴュー映像を見ることが出来た。全部見なかったのは、本展の元になったきっかけが語られたことで充分と思ったからでもある。在学中に課題として教師からアメリカのどこかの州に行って写真を撮って来るよう言われ、佐藤は宇宙人でよく知られるネヴァダ州のある街に行き、宇宙人が観光産業に一役買い、お土産店にそれらが売っている様子を撮影して帰った。またお土産店で誰も買わずに売れ残っていた宇宙人の置物を購入もしたが、撮って来た写真は学校での評判がよく、世界各地の奇妙な場所を撮影することをライフ・ワークにすることに決めた。本展は2010年に発刊された写真集に収められた写真と、その後の新たな境地を披露するもので、前述のように全体が「見世物」の感を呈し、またネット時代ならではの網羅性とインスタントな観光気分を満たしてくれるものであった。後者はコロナ禍ならではの企画と言える。ただし展示の大部分はほとんどの人が知っている場所で、さほどの意外性はない。たとえばフランスの聖地「ルルドの泉」の写真は、筆者がそれを初めて見た半世紀ほど前の写真とほとんど同じで、佐藤でなくても誰が現地に行っても同じような写真にしかなりようがないことを暗に示す一方、もっと工夫出来ないものかという不満が残った。それと同じことは他の写真からも感じた。簡単に言えばどれもデ・ジャヴ感があって、大勢の人が知る名所は実際に訪れてもさほど感動はないのではないかと思わせた。これは写真として低い評価を下さざるを得ないという辛口の意見になるが、本展で紹介された一風変わった場所をまだあまり知らない若い世代には教育的効果はある。前述したインタヴューで佐藤は、あたりまえのことながら、1週間や10日を要して目的の場所に行き、目的のものを撮影するのは長くて数時間であるので、その他の時間で経験することに強い思い出がある場合が少なくないことに言及していた。それらの真の目的ではない人間や場所との出会いも写真で表現することは可能だが、佐藤のとりあえずのライフ・ワークからは大いに外れ、したがって彼は撮影していないのだろう。では記憶を文章にすればどうか。本展では各写真に説明があって、それらを佐藤が書いたのかどうか知らないが、そうであれば文才もあるので、写真では表現出来ないことを今後は大いに文章にするかもしれない。話を戻して、日本で下調べをし、準備を整えて現地に向かい、目的のものを撮影するという一連の作業は、撮るべきものが最初からわかっていることであって、その旅行は楽しいものだろうか。佐藤が学生時代にネヴァダ州に訪れた時は、予想外のお土産店の様子を見るなど、驚きや興味の連続であったろう。そのことが写真に反映されたので評判がよかった。そのいわば初心な体験はチラシにあるように120か国の取材に及べば、機械的になる部分が出て来る。
 それはそれで見せ方によっては芸術になるが、世界各地に奇観を求めるとして、その線引きは佐藤がするものだ。現地の人には当然のことで、珍しさを誇るほどのことでもない場合はあり得る。つまり世界中の奇観を取り揃え、大きな会場で一堂に見せる「見世物」としての本展は、ほとんどの人が初めて見るものではなく、たいていの大人は知っているものを再確認するだけのことで、驚きは乏しい。そのことは佐藤自身がよく知っていることで、奇観そのものにではなく、それを取り巻く現地の人や風景のほうが興味深い場合が多いだろう。筆者はTV番組『ヒロシの迷宮グルメ』が好きだが、そこでは奇観は一切見せず、外国の庶民や彼らが利用する食堂を中心とした街並みを映す。NHKでは外国の有名な都市をカメラマンが歩いて紹介する番組があって、それも面白いが、ヒロシの番組では教養をほとんど無視した日常性を主眼とし、そのことが却って「奇観」的味わいをもたらしている。ネット時代になって情報は手早く入手出来るようになり、本展が紹介する奇観場所は場合によってはグーグルのストリート・ヴューで確認出来るだろう。となると、「ルルドの泉」に至るまでの道や、その聖地に背を向けた場合、眼前に広がる光景もわかるだろう。佐藤の写真を見て筆者はそのことを思った。誰でも知っている「ルルドの泉」の写真よりも、佐藤の撮影位置から360度方向の様子が見られればもっと楽しく、そのことはストリート・ヴューでおそらくたくさん写真が載せられているだろう。となればネット時代に「奇観」で有名な場所を撮影することの意義は限りなく少ないか、これまでにない撮影の仕方、見せ方をする必要がある。それはデジタル時代ならではの可能性がいくらでも広がっているのではないか。もっと言えば写真が芸術とみなされるにはどうすればいいかという根本的な問題だ。それは物見遊山の気分で「奇観」を世界中に取材して網羅することとは違う次元のことだ。ネットでは毎日のようにスマホで撮影された面白い瞬間の写真が紹介される。それらはみな素人の手により、偶然の機会に恵まれてのことだ。それでもめったに見られない「奇観」に変わりなく、この世はいつどこにでも「奇観」は転がっている。佐藤がこの20年ほどで120か国を訪れたことを知って筆者が真っ先に思ったのは、「経済的に恵まれているのだろう」ということだ。そうであるとして、そのことと写真の名作を撮ることには関係は全くない。本展のチラシ中央の黄色で印刷されるロゴは「世界遺産」を暗に意識しているように見えるが、世界遺産を紹介する本やDVDがたくさんあることに対し、そのネガのような場所を佐藤が網羅しようとしたことにはそれなりの価値はあるとしても、世界遺産が退屈で、佐藤の捉えた「奇観」がそうでないとは言い切れない。むしろその反対も多い。そこで結局のところ何が「奇観」であるかだ。
●『佐藤健寿展 奇界世界』_d0053294_23454048.jpg
 佐藤はそのことに対し、生と死が露わになっている場所と思っているところはあるだろう。生のあるところに必ず死はあるが、たいてい死は目立たなくされている。本展ではテキサス州のとある場所で死体を何体も網籠で覆って野ざらしにしている場所を取材した写真があった。日本の「六道絵」と同じ光景が実際に見られる場所は確かに珍しいが、一方では死体に樹脂を浸透されて輪切りにして見せる展覧会が日本で何度か巡回したことがあって、死体も「見世物」になっている。本展で面白いと思ったのは、佐藤はそのテキサスの死体野ざらし観察場所をまずはまともに撮影してキャプションつきで1階で展示し、2階の別の部屋では死体をもっと大きく捉えた写真を見せていたことだ。前者は記録重視、後者は芸術性を意識したアプローチで、佐藤は同じ場所で二種類の撮影をした。そこには物見遊山とは別の意外な心の動きによる対象への迫りがある。佐藤がその場所にどれほど留まったのかわからないが、誰もが撮るような角度とは別に、後者のどこか死の神々しさも漂うような写真を撮る気になったところに、佐藤の人間への関心を見る。それで旅先で出会った人に対して記憶が強いことがあるとの発言につながるが、筆者が本展で最も印象に残った作品はやはり人を捉えたもので、北朝鮮のマスゲームだ。競技場に集められた万単位の人々が各ページの全面に色を塗った大型ノートを胸の前に掲げ、合図にしたがって一斉に指示されたページを前に広げている様子を捉えた写真だ。これは誰でも知っている眺めではあるが、デジタル写真の荒い画素と精細な画素が混じった写真に見えるところが面白く、彼らの統制の取れた行動が「奇観」であることをひしひしと感じる。つまり、世界で最たる奇観は人間が作り上げ、しかも誰かの指示によるという狂気も見えて、背筋に冷たいものが走る。本展1階の奧の部屋では近年の新しい試みによる写真が展示された。それは衛生写真を拡大し、その一部を切り取ったものだ。アメリカから誰でも買えるものと思うが、どこを切り取るかで「奇観」が立ち現われる。佐藤は航空写真も撮っていて、本展のために西宮を上空から撮影したとのことだ。筆者はほとんど覚えていないが、高級住宅街ではなかったと思う。それは京都のように碁盤目状の街路ではないので北朝鮮のマスゲームのようには見えないが、形も色も他とは全然異なる奇抜さが許されない暗黙の了解の日本の街であれば、どの家も同じに見え、マスゲームと同じ考えが見え透く。となれば佐藤は世界中を回って日本で最先端の「奇観」を見出し、そこに「狂気」を見ていると言っていいのではないか。文明の進歩を標榜する先進国が実は最も変わった、狂った社会という見方は出来る。そういう狂気を秘めた日本にいるからこそ、佐藤は世界の「奇観」の「まともさ」を実見しに出かけたのかもしれない。
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by uuuzen | 2022-05-25 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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