「
焙じれば 風芳しき 松林 売茶翁立つ 行楽日和」、「はにかみの 童見せるや ハニーカム 吾ハーモニカ 取り出して吹き」、「地蔵には 児童似合うや 田舎道 いい仲保つ ことは尊き」、「オアシスを 忘るるなかれ されど死す 緑の野菜 よりどりみどり」

昨日の続きを書く。夙川オアシスロードは半世紀前は日に4000台の車が通行し、ダンプカーも走っていたという。これは知らなかった。筆者は歩行者専用道路となって7,8年後にはこの道を歩くようになった。ダンプカーなどの車が多く走るようになったのは高度成長期で、現在の姿は江戸時代の状態に戻ったと思ってよい。阪神香露園駅が新しくなって夙川の真上に出来たのは20年ほど前と思うが、それ以前から同駅を知る筆者はオアシスロードが香露園駅前の西国街道以南にどう延びているかに関心はなかった。現在もそうだ。その最大の理由は大谷記念美術館に行くことが目的で寄り道の時間が惜しいことと、駅前に阪神高速の高架が立ち塞がり、その下のトンネル道路の向こうを川沿いに歩く気になれないからだ。その理由も書いておくと、阪神高速の高架際に昔からラヴ・ホテルがあり、美術館に行くにはその西際を通る必要があって、それだけでも何となく嫌な気がして、西国街道と阪神高速の間で一旦途切れる駅南方の夙川の堤はろくな眺めがないだろうとの先入観があるからだ。今早速グーグルのストリート・ヴューで確認すると、昨日の3枚目の写真のような鬱蒼とした緑の雰囲気は欠けてやや解放感が増すものの、松や桜が同じように林立し、散策の場として利用されていることがわかる。それで次回訪れた時は歩くことにし、また長年気になっている香露園駅の東から西宮神社前までの500メートルほどの西国街道も踏破したい。ところで昨日はオアシスロードにベンチがないと書いた。グーグルのストリート・ヴューを見てそれが間違いであることを知った。数は少ないだろうが、ところどころにベンチはあって弁当を広げられる。筆者はオアシスロードで休憩したことがなく、ベンチがあっても目に入らなかったのだろう。思い込みはとんでもない間違いを誘う。5月は鯉のぼりで、そのことを思って歩いていると、夙川の両岸にロープをわたして多くの鯉のぼりが吊り下げてあった。ただし
以前の投稿にその様子の写真を載せたので1枚も撮らなかった。調べると3年前の5月だ。今月19日に大谷記念美術館を訪れたのはその時以来ではないか。今回歩きながら思い出したことは
「阪急夙川駅から阪神香櫨園駅までの道のり」と題する投稿だ。これは2005年秋、ブログを始めて半年後だ。もちろんそれ以前からオアシスロードは同美術館の企画展を見るために毎年最低2回は歩いていた。それゆえ大いに馴染みのある道だが、阪急夙川と阪神香露園の間のみ、しかもほとんど左岸ばかり歩いて来た。

コロナ禍でどうなったのか知らないが、同美術館では毎年秋にイタリア・ボローニャの童話原画展が開催される。筆者はそれにほとんど関心がなく、一、二度しか同展を訪れていない。ただし片山健かパツォウスカーか、筆者が大好きな絵本作家の原画が見られた企画展には訪れた。その時かどうか、80年代半ば、大雨の日にひとりで出かけたことがある。ちなみに当時家内は勤めに出ていたので、展覧会巡りの8,9割は筆者ひとりであった。話を戻す。絵本の原画展を見た後、午後の4時頃か、大雨の中、オアシスロードを歩いていると、前方に若い父親が傘を差して2,3歳の男児の手を引いて歩いていた。筆者との距離は7,80メートルほどだ。他に人の姿はなく、筆者は半ばずぶ濡れになりながら彼らの小さな後ろ姿を見ながら阪急夙川駅に向かった。すると道の中央に1枚の未使用の絵はがきが落ちていた。見たばかりの絵本原画展で販売されていたものだ。前方の幼ない子どもが落としたものかもしれない。おそらくそうだろう。彼らの姿を美術館の中で見た気がする。筆者はすぐに拾った。幸い誰も踏んでいないのでほとんど傷はないがひどく濡れている。日本の有名な絵本作家が描く数匹のウサギがボール投げをしている絵柄だ。父親は息子のために買い、息子はしっかりそれを握っていればいいものを、大雨でもあって途中で手放したのだろう。そのことを父親は気づいたのかそうでないのか。筆者は走ってその親子に追い着こうとは考えなかった。晴天で20メートルほどであればそうしたが、大雨では走りにくく、距離もかなりある。また彼らが落としたものではないかもしれず、落としたものとしても濡れてはもう使えないと思ってそのままにしたのかもしれない。ふたりの姿は国道2号線で消えた。歩いて美術館まで行ける近隣住民なのだろう。筆者はその絵はがきを手提げ袋に入れて持ち帰った。乾かすとどうにか新品に近くなり、後年使用した。インターネットが登場する以前、筆者は筆まめで、手紙やはがきを盛んに書いた。電子メールを今ではメールと呼んで、本家のmailである手紙やはがきをほとんど駆逐し、また手軽なLINEが登場したことによって、絵はがきの売り上げは激減したのではないか。オアシスロードを歩く時、その大雨の中を歩く親子の姿をたまに思い出す。その子は今40歳ほどになっている。その親子の後ろ姿を筆者が鮮明に覚えていることを彼らは知らない。人間は気づかない間に見知らぬ他者の心に影を落とす。それも縁と言ってよい。無数の縁の連続である人生において自分の意志でどこかに行ったり、誰かに会ったりすることが縁の中でも最も濃いと思う一方、意識しないところに向こうからやって来ることを長年忘れられない場合がある。男女の間柄だけではなく、縁は異なものだ。もちろん嫌な記憶もある。それがあるので筆者は好きなことに時間を費やし、新鮮な感激を求める。

阪急神戸線に乗るとわかるが、夙川沿いは山手から浜まで樹木が生い茂っている。これはきわめて珍しい眺めだ。人が大勢住む地域は緑が少ない。時々TVで東京都内を上空から捉えた映像を見ると、その灰色の微細な粒が密集した様子に、「東京砂漠」の言葉は本当だと思う。もっと言えば人間の住むまともな場所ではない。増殖し続ける癌細胞と言ってもよい。その人間の本質は宇宙時代になっても変わらないはずで、そう思うと長生きしても同じことを人間は繰り返すだけで、人の寿命が長くて100年程度というのは全く理想的ではないか。「夙川オアシスロード」という名称がそもそも堤防上の歩道が珍しい存在であることを意味している。「オアシス」から連想する言葉は「砂漠」であるからだ。つまり西宮市は街が砂漠化して行く中、せめて夙川沿いは市民の憩いの場として緑豊かに保存して行こうということにした。街中に同様の豊富な緑があれば街全体が「オアシス」だが、庭つきの一軒家をかまえることはごく限られた人にしか許されない贅沢だ。ロンドン市民のささやかな夢として狭くても庭つきの家を所有することと何かで読んだことがある。書き手の日本人はそういう生活を半ば嘲笑していた。では彼の生活の夢が何かとなると、植物を育てることや眺めることに無関心で、豪華なマンションに豪華な外車を持つこととすれば、筆者にはそれこそ嘲笑の最たることに思える。昨日書いたように、熊谷守一は自宅庭の豊かな緑に囲まれて暮らしていた。そういう彼が独特の書画を生んだ。もっとも、前述の豪華マンションと外車が究極の夢と言う人は書画を楽しむことは二の次、三の次だろう。さて19日は香櫨園に向かって家内とオアシスロードを歩きながら、筆者は長年目にしている小さな墓や石仏が集まる大木の根元で足を留め、今日の写真を撮った。以前見た時とは違う様子に気づいたからだ。びっくりしたのは最初の写真の下方、大木に向かって立つ女児の後ろ姿だ。『アンパンマン』のキャラクターを大きく描いたリュックを背負い、帽子に衣服を着せられた石仏だ。地蔵像だろう。ネットで調べると同じ色合いの別の衣服を着ていた時期があるので、地元住民が衣服を適宜交換している。そこまで世話をする人があることに感心する。最初の写真の上の像にも筆者は初めて気づいた。「鎮魂 童像」と墨書した立札がそばにあって花も供えられる。身なりはほとんど達摩大師像で、立札がなければ童像とは思えない。また童にすれば表情はどことなく不気味で、あまり凝視したくないが、ネットによれば専門家が彫り、阪神大震災で亡くなった子どもたちの霊と弔うために据えたという。その点はリュックを背負う像も同じだろう。設置はこの場所の墓や石仏と違和感なく同居し得ると考えられたからだ。3枚目の写真の文字が示すように、ここは「無縁塚」だ。

その大きな自然石を利用した碑の裏面には大正末期建立の旨が彫られ、ネットにはそれ以外の情報はない。筆者は最初にオアシスロードを歩いた時からこの石碑を見ているが、大木の根元に集められる墓碑や石仏はさほど違和感はないものの、「無縁」という言葉には引っかかる。大正時代に何があってここに塚が建てられたのか。西宮市が情報を持っていればそのことを記す看板を設置するはずで、たぶん誰も覚えていないのだろう。そして代を重ねながら、鎮魂の思いで石彫りは増えて来ている。堤防上の「無縁塚」となれば堤防を補強するなどの工事に携わった時に亡くなった労働者を弔うためのものかもしれない。ネットには昭和13年に夙川が氾濫し、堤防上にあった地蔵像の近くで濁流に流されそうになった女児が奇蹟的に助かり、その親が上流から流されて来た地蔵像を引き取ったとある。その人が東京大田区に移住後、御嶽神社内の小さな祠に祀られた。その写真を見ると地蔵像は高さ60センチほどで欠けもなく、ほっそりとした古風な造りだ。夙川の右岸でもう少し上流に「延命地蔵尊」として立派な祠がある。去年までそこに3体の素朴な地蔵像があったのに、高齢化で世話する人が激減し、魂を抜いた後に大阪に移された。「無縁塚」は小説『細雪』以前の建立で、それまでに何度かあった大水害で死んだ近隣の人たちを弔うためのものか。祀られる石仏は上流から流されて来たものが混じるだろうが、霊を思えばそれを奪って古物として売ることを誰も考えない。右岸の「延命地蔵」の石仏が撤去されるのに、左岸のこの大木の根元は新たな石像が増え、しかも目立つ衣装を着せられる。これは川の両岸で自治会が異なるからではないか。これまでの夙川の氾濫でも阪神大震災でも子どもは死んだはずで、オアシスロードの半ばにこれらの石仏や墓が多く集められることは、災害の悲しい歴史を忘れないためにはよい。京都では街中にこうした石仏はよく見かけるが、オアシスロードに面するマンションなどの新しい家が建ち並ぶ地域では絶対に無理で、緑の多い遊歩道しかないのが現実だ。それはせめて都会が砂漠ばかりでないことを示す。「無縁塚」のように誰もその由来を記憶しないほどの長い年月を経ても世話する人がいることは理想だが、対岸の延命地蔵尊の石仏の行方を思えば先のことはわからない。4枚目の写真はオアシスロードで見かけた新しい切り株で、「切り株の履歴書」のシリーズに投稿しようと思って撮った。倒壊の恐れがある樹木が伐られることは仕方がない。空いた穴からマンションが覗くのは無粋で、新たに木を植え、オアシスぶりを保つ必要がある。なおオアシスロードには奇妙に曲がった松が目立ち、それらも見物となっている。筆者は桜が咲く季節に歩いたことがなく、来春は西国街道歩きを兼ねてこの遊歩道を散策してもいいかと思っている。

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