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●『眼で聴き、耳で視る|中村裕太が手さぐる河井寬次郎』
けた箇所 縫うては裂けて また縫うて 襤褸をまといて 心は朧」、「プラスかな プラスティックの 世の中は 人も摂り込み スプラスティックに」、「ソイリーに ならずソーリー プラゴミは 塑性の素性 粗製で蘇生」、「培うは 土がありての ことなりし プラスティックで 土は買えずに」●『眼で聴き、耳で視る|中村裕太が手さぐる河井寬次郎』_d0053294_16440814.jpg先月6日に京都国立近代美術館で『京の大家と知られざる大坂画壇 サロン! 雅と俗』展を見た。その時3階の常設展示室の一部も同展の会場として使われた。3階は中央の出入口側とその奧の正方形に近い部屋を取り囲む形で、周囲がコの字型の展示室となっていて、手前の出入り口左手の左側が同館が所蔵する染織や陶芸、ガラスなどの工芸品の展示に使われている。右手の壁面は日本の洋画の小品が中心だ。出入り口の右手は奧に向かって両側が屏風などの日本画の大作が展示されている。中央の部屋の手前側は天井が高く、小企画展に利用され、奧の部屋は写真の展示に使われることが多い。先月6日に訪れた時、その奥の部屋で河井寛次郎に因む小さな企画展が開催されていた。今日はそのことについて書く。河井の作品は柳宗悦の民藝絡みで誰でも知る。京都の五条坂近くに寛次郎の住居を使った記念館があり、筆者はその前を二度ほど歩いたことがあるものの入ったことはない。TVのドラマで使われることもあり、また写真からだいたいの雰囲気はわかるが、やはり一度は訪れて雰囲気を味わっておくべきだろう。10年か20年前に同館に泥棒が入って寛次郎の作品が1点盗まれた事件があって、同館を管理する寛次郎の娘さんは作品を奪う気にさせたことに胸痛むと発言した。金目当ての盗難を思っての発言だが、同館の所蔵品であれば市場に出れば即座にわかるはずで、犯人は売ることを考えず、自分の手元に置きたかったのかもしれない。美術品を盗みたい気持ちはわからないでもないという意見は昔からある。スーパーや百貨店での万引きと違って美術品はひとつしかなく、買えないのであれば盗むしかないからだ。ともかく所有者が変わるだけで、壊されない限りは数十年ほど経ってまた世の中に出て来ることはあるので、気長に待つしかない。さて本展はほぼ正方形の部屋の四方の壁面のひとつに大きく拡大された新聞記事が特に印象的であった。雑誌であったかもしれないが、ひどく黄土色に変色した色合いで、大型スキャナーを使って印刷したのだろう。記事は医者でゴッホ研究家、民藝運動にも関係した式場隆三郎による河井へのインタヴューで、昭和30年代の終わり頃だろう。手元に同展の資料がないのでわからないが、式場が河井に質問したのは今日の最初の写真の右下の丸で囲った作品で、これは昭和37年(1962)の作品だ。式場は同作の手首の先に小さな球体をくっつけた理由を河井に質問したのだ。同作は河井の他の作品と同様、題名がない。そのことがなおさら式場には謎めいて見えたのだろう。
●『眼で聴き、耳で視る|中村裕太が手さぐる河井寬次郎』_d0053294_16443222.jpg 今日の3枚の写真は京都国立近代美術館所蔵品目録1『川勝コレクション 河井寛次郎』から撮った。筆者は1983年7月10日に同展を見てその図録を買った。以降何度も河井の作品を見ている。晩年作を1点ほしいと思いながら望みは達していない。ただし筆者は前述の泥棒ではない。河井の作品は独特で、一目でそれとわかる。不気味と言えば適当でないが、河井がどういう性格であったかはそう簡単にはわからない、つまり捉えどころのなさのようなものがある。それは柳が理想とした言葉を持たない民衆の健康で力強い造形には収まり切らないからだ。柳は造形作家の作品を評価しなかったが、河井その他、柳の思想に共鳴した有名な工芸家はみな強烈な個性を持った作家であった。柳は生活に供する道具の美を讃えたのに、河井の陶芸は用の美のみにこだわらなかった。前述の手首を象った作は彫塑で、部屋に飾るための置物だ。民藝は郷土玩具も含み、装飾品としての置物も民藝の精神にあると言ってよいが、河井が晩年に盛んに制作した、それまでほとんど誰も手がけなかった陶板や彫塑的陶芸品は、釉薬や河井独特の文様からは民藝に属しつつ、たとえばピカソを思わせる表現は現代芸術の文脈で語られてよい。筆者は1983年7月に初めて川勝コレクションの全貌を見た時、晩年期の作に何かとんでもないものを強烈に感じた。昔から河井の作を知る式場はもっとそんな思いであったろう。本展で知ったが、河井は当時新聞の切り抜き、しかも記事ではなく商品のイラストや写真をたくさん集めていた。一方、松下幸之助から贈られたトランジスタのラジオを気に入り、終日それを聞きながら暮らしていたそうで、河井は戦後の急速に変化する日本を目と耳から得ていた。本展の題名の『眼で聴き、耳で視る』は河井の言葉だ。これは視覚や聴覚の障碍者向きの展覧会に思われそうな気がするが、河井がこの言葉で何を言いたかったのかはわかりにくい。ともかく「よく見てよく聴く」ことが新しい造形に欠かせないと考えていたのだろう。そのことで思うのは情報の伝達が劇的に変わった今世紀のネット社会だ。これが登場して真っ先に不要とみなされたのは百科事典だろう。置き場所に困り、めったに繙かない分厚い数十冊の事典は、ネットのWIKIPEDIAに変わった。それはまだまだ発展途上で不備もあるが、印刷された百科事典とは違っていくらでも書き換えが簡単に行なわれる。河井が現在生きているとどういう作品を創造したのかという興味は、後継者がそれなりに腐心していることであって、150歳の作家としての河井を考える必要はない。人間には寿命があり、その範囲内で創作するしかない。それに河井が現在作家としての活力が旺盛のまま生きているとして、陶芸に携わらず、ネットでの仮想表現に新境地を見出している可能性は大きい。そう思わせるほどに死ぬまで河井は瑞々しさを失わなかった。
●『眼で聴き、耳で視る|中村裕太が手さぐる河井寬次郎』_d0053294_16450225.jpg
 ラジオで河井が耳にしたことが作品にどう反映されたのだろう。本展はそのことを直接には示してはいなかったが、たとえば手首の人差し指の先端に球体を載せた作品のヒントとなることが耳から得た情報であった可能性はある。河井は他にも手首を象った立体作品や陶板を制作した。それらには仏教に因むものが目立つが、仏像には指先に球を載せたものはないだろう。河井はその球が何であるかとの式場の問いに答えず、観る人が自由に思っていいと語っている。これはどのような作品でもそうと言い得ることは確かながら、河井がそれまでに手がけて来た壺などの生活の道具からすれば、突拍子もないものであることは確かだ。一方でヒントはある。河井寛次郎記念館を紹介する番組を最近TVで見たところ、筆者が勝手にこのブログで言う「ゴッタ」すなわち大きな石の球体が庭に転がしてあった。どういう経緯でそれが河井の家に持ち込まれたものか忘れたが、河井はそれを好んでいた。その球への思いが作品に反映したことは間違いないだろう。ガガーリンが地球を飛び出して「地球は青かった」という名言を発したのは1961年だ。河井はそのニュースにも接して、人間が宇宙を制覇することを指先の小さな球体になぞらえたかもしれない。また人間が地球の外に出るとしてもしょせん小さな存在で、河井のその作品の手首は神のそれと思ったほうがいい。ともかく戦後の60年代になって世界は大きく変わり始めた。そのことも本展から知ることが出来た。今日の2枚目の写真の丸で囲った作がそうだ。これは指先の球体よりももっと不可思議な造形で、河井はこういう形の器をどのようにして思いついたのか。それを示すのが河井の新聞の切り抜きだ。その1枚に樹脂製のパイプのL字型接続部の図があった。河井はそれをそのまま扁壺に応用した。そのことがわかるとアホらしいと思う人が少なくないだろう。しかるべき場所では安価で溢れ返っている物の形を借りて芸術作品を作る。このことはデュシャンの手法の工芸家による回答でもある。河井の作品から誰も樹脂パイプにL字型つなぎを思い浮かべないだろう。筆者もそうであったが、本展によって河井が市民生活を支える現代の工業品の造形に目を配っていたことがわかり、その意味で民藝の基本を忘れていなかったと言ってよい。現代の大量生産商品が醜悪なものばかりと決めてかかるのは間違いで、合理性は看過出来ない場合がある。河井が合理性をどう思っていたのかわからないが、巷にますます溢れる安価な大量生産品の前で作家の一点制作の芸術品がどうあるべきかは考え続けたに違いない。それは作品を高く売りつけるといったことでないことは当然で、現在を生きる人間として、作家として、ガガーリンと同じように前人未踏の領域をどう尽き進むかだ。そういうことを考えるのが真の作家で、それは民藝の枠には収まらない。
 今日の3枚目の写真は本展とは直接には関係しないが、河井の晩年作で、壁に飾るものだ。河井は木彫りでこうしたものをまず作り、それを得意の土を使って表現した。木彫りは河井の専門ではなく、京仏師に手伝ってもらって粗削りは任せたが、細部は河井が鑿で彫った。たいていの陶芸家なら「餅は餅屋」と考え、そんな手間のかかることはしない。しかし河井は違った。河井のそういう晩年作から遡って以前の作を見ると、晩年作の強烈な味わいの感化のためか、河井は初期から通常の陶芸家とは全く違って謎めいて見える。人間国宝の指定を辞退した河井で、そういう枠に収まり切らなかった真の作家であった。さて本展で筆者が最も感じ入ったことは前述のL字型つなぎに河井が注目したことだ。20世紀半ばに射出成型のプラスティック製品を生んだことは革命的であった。ただし今はその便利なプラスティックに人間は復讐され始めている。鯨や海亀がプラスティックを食べて死ぬことは今後なくなるどころか増加するだろう。微生物が摂取し、食べ物の連鎖で人間の体内にまでプラスティックは進入しつつあるが、河井はそこまで危惧しなかったであろう。プラスティックは土と同じ塑性の素材だ。河井がプラスティックの商品デザインに目を留めたのは、土とは比較にならない軽さと強度、土では無理な薄さや自由なデザインが可能であることであったろうが、生命はすべて土に還ることにプラスティックが反し、それどころか生命を脅かす存在になるつつあることを予知したであろうか。先月20日にTVで1946年製作のアメリカ映画『素晴らしき哉、人生』を途中から見た。主役の若い男はプラスティック会社の重役の地位の申し出を断って貧しい人たちのための安価な住宅を供給する事業を始める。そこにプラスティックに対する懐疑がある。プラスティックはエルザ・トリオレの小説にも出て来る。彼女は50年代末期から60年代初頭にかけて『ナイロンの時代』として3冊の小説を書いた。その2冊目の『ルナ=パーク』にプラスティック工場で働く若者が腕を射出機に挟まれて切断されることがさりげなく書かれる。その後にザッパは「プラスティック・ピープル」という曲を書くが、日本でプラスティック工場がたくさん出来たのは60年代末期だ。1966年に死んだ河井が樹脂製のL字型つなぎの形に関心を寄せたことは時代を敏感に感得していたことを明かす。本展の意図はそこにはなかったかもしれないが、河井の考えにしたがえば、あるものを目の前にしてどう感じるかは自由だ。筆者にすれば式場が河井について書いた文章があるのかどうかに関心を抱く機会でもあったが、ひとまずは彼のゴッホ研究を繙きたい。彼が中心となって日本にゴッホを紹介したことで、民藝から棟方志功が現われた。世界のあらゆるものは知る人がほとんどないままに密接につながっている。
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by uuuzen | 2022-05-07 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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