「
蹂み躙る 蕗の大葉に 謝りし 義に生きるとも 犠牲の上に」、「醜さを 見ずに済まして 澄まし顔 聞かず言わずで 難を遠ざけ」、「自殺者は ごまんとおらず 年2万 万にふたりに なりたくはなし」、「しあわせは 死に合わせつつ 生きること 逆算しての 今為すべきを」
今日は先月20日にTVで見た映画について書く。録画したのは途中からで、最初のたぶん20分ほどは見ていない。感想を書くことはやめておこうかと思っていたが、有名お笑い芸人の自殺、山口県下の町役場の誤入金問題と世間を大きく騒がせる事件があって少しはこの映画に関係するので書くことにする。1946年のアメリカの白黒映画で、昔から題名だけは知っていた。公開当時、評判はさっぱりであったのが今では毎年クリスマスに放送されるそうで、WIKIPEDIAによれば不朽の名画の評価が与えられている。監督はフランク・キャプラ、主演はジェームズ・ステュアートだ。気づかなかったが筆者は20代にこのコンビによる『スミス、都に行く』を見ている。本作は39年公開の同作の良心や正義感をテーマにする点で共通する。フランク・キャプラについては何も知らなかったが、1897年にシチリアに生まれ、6歳で家族と渡米、1991年に94歳亡くなった。ザッパの父は20世紀の生まれと思うが、キャプラの人生はザッパの父とザッパの生涯をすっぽり覆うほど長かった。シチリアからの移民が映画監督としてキャプラほどに大成した例はないだろう。ザッパがキャプラをどう思っていたかわからないが、若い頃から映画への関心を抱き続けたのはキャプラの成功があったからかもしれない。またザッパが最晩年に大統領選に出馬する意志を固めた背景に『スミス、都へ行く』があったかとにわかに思い始めている。つまり本作によって意外なことに気づき、ザッパがB級の怪獣映画以外にどういう映画を観たのかが気になる。さて、本作は題名からポジティヴな内容であることがわかる。だが主人公が狐につままれたように空想の世界をさまよう場面はグロテスクで、ホラー映画の趣がある。それは主人公のジョージ・ベイリーの自殺後にたどる煉獄と捉えてよいが、そういう世界をジョージの守護天使の老人がジョージに目の当たりにさせることで、ジョージの自殺を思い留まらせる。筆者が録画開始した場面は、住宅貸付組合を経営しているジョージの事務所に生活費を事欠く町の人々が大挙して押し寄せ、ジョージは保有する資金の2000ドルを全員に信用貸しで分け与え、2ドル残ったことでジョージの事務所の全員が喜ぶ辺りだ。そこから見ても充分本作の内容はわかる。町の人々が困窮した理由はWIKIPEDIAによれば町の最大の有力者で貸し家業を営むヘンリー・ポッターによる圧力だ。本作は悪人ポッターと善人ジョージの対決の物語で、大きな権力を持つ悪が滅びなくても、善はささやかな人々が力を合わせて生き延びるという内容だ。 ポッターに象徴される金儲けにしか関心のない者はいつの時代も大勢いる。ポッターはジョージと一緒に組合を運営しているビリー叔父が新聞とともにポッターに手わたしてしまった8000ドルを猫ババし、ジョージの事業を追い込み、ジョージを投獄させようとする。会計を担当するビリーは8000ドルを銀行に入金しに行く途中、当日すなわち1945年12月24日の新聞のトップ記事にジョージの弟ハリー中佐が武勲を立てて大統領と食事するほどの有名人となってジョージが住む町ベッドフォード・フォールズに凱旋帰還することが載り、その新聞を誇らしげに道行く人たちに配っていたジョージから叔父は一部を受け取る。その足で銀行に入金に行くと、ちょうど車椅子に乗ったポッターも銀行に入って来た。ポッターは銀行も経営している。叔父は自慢げにその新聞をポッターに見せると、面白くないポッターは新聞をひったくり、その時に叔父が持つ8000ドル入りの封筒も一緒につかんでしまう。別室に入ったポッターは新聞を広げて封筒のお金に気づきも、叔父に伝えない。お金を見失った叔父はうろたえ、ジョージと必死になって探す。その金がなければ倒産で、ジョージが使ったことになって逮捕される。夜になって憔悴し切ったジョージは妻と幼ない子どもが4人待つ家に帰り、妻に理由を伝えることなしに物に八つ当たりし、家族は震え上がる。次に馴染みの店で酔った後、車を運転し、町中の大木に衝突する。その足で雪が舞う橋に行き、そこから飛び降りようとする。雪は本物と思うが、そうであればよくぞうまく撮影した。激しく波が渦巻く川に飛び込む場面はスタジオのプールだろう。またスタントを使ったと思う。ともかく、この川から飛び込む場面が本作の時間的な半ばではないが、物語としては中間の大きな転換期に相当する。飛び込みの場面からジョージの守護天使でまだ神から羽を与えてもらっていない2級天使で笑顔の老人クラレンスが登場するが、筆者は本作の最初のほうは知らないので実際のところはわからない。ただしこの場面から天使が登場することはとても意外で、シリアスな物語は急に夢物語に変化する。それでたちまち本作に幻滅する人もいるかもしれないが、本作の見どころはジョージが必死になって天使と連れ立って町を歩き回るところにある。これが恐怖に満ちている。天使はジョージに最初からそのような場面を見せようとしたのではなく、ジョージが生きていても仕方がなく、生まれて来なければよかったと口走ることを受けてのことだ。またクラレンスは295歳と称し、マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』を保持し、同書が出版されたばかりと言う。実際は1876年刊であるので、クラレンスは70年ほどを時間の感覚なしで生きていたことになる。この本は映画の最後にも登場し、人生は金よりも何が大切であるかを説く。
ジョージは建築家を目指し、故郷の小さな町を出て巨大なビルや橋の建設を手がける夢があり、月にまで行きたいほどだ。それで住宅貸付組合を経営しながら、友人が町を離れて都会で一旗揚げようとすることを内心羨む。ジョージは町の外れの野生動物がいる地域を「ベイリー・パーク」と称して開発し、新築の家を世間の半値で提供し始めるが、ジョージのおかげで家を持つことが出来た人の9割は、以前はポッターの貸し家に住んでいた。ポッターは商売仇でやり手のジョージを雇うことをジョージに提案する。ポッターはジョージが30半ばで週給45ドル程度であることを知りつつ、3年契約で年俸2万ドルという破格の条件を出す。ジョージは申し出に驚きつつ、妻に相談するので1日考えさせてほしいと言いながら、握手したポッターの掌が汗まみれになっていることを知り、即座に申し出を拒否する。悪人が演技していることがわかったのだ。危うく難を逃れたジョージはポッターに世界からすれば蜘蛛のような存在と非難の言葉を浴びせる。今までポッターが事あるごとにジョージの事業を邪魔して来たことを知ってのことだ。ここには重要な問題は描かれている。人は大金を提示されて魂を売る場合がほとんどだろう。ポッターの片腕となってポッターの資産形成に一役買うことでジョージの暮らしは一気に改善するが、それは町の多くの人を裏切る行為でもある。ポッターとジョージはお互い事業に専念し、ジョージは結婚して子どもを4人もうけるが、その間に戦争があってポッターは町の代表として徴兵の合否を判断する役割を担う。ジョージは子どもの頃に溺れた弟を助けたために片方の耳が聞こえず、それで徴兵を逃れた。おそらくポッターはますます経済的に豊かになったが、ジョージはさほどでもない。なぜなら8000ドルを失っただけで破産するからだ。ポッターはジョージを潰す機会が、ジョージの弟が帰省するというニュースで有頂天になった叔父のうっかりによってついに訪れた。ジョージは事務所に州の金融検査官を待たせていて、8000ドルを1日で揃えて銀行に提出せねばならないからだ。万策尽きた彼はついにポッターを訪れる。他に借りる相手はいないからだ。ポッターは数年前にジョージから罵られたことの仕返しを口にし、金を貸さない。そうしてクリスマス・イヴを祝おうと待っている家族のもとに帰るが、前述のようにやけを起こして家を飛び出る。そして橋から飛び降りようとしている時に先にクラレンスが飛び込み、それを助けるためにジョージも飛び込む。その後ふたりは橋の畔にある橋を管理する男が詰める小屋で暖を取りながら話す。その奇妙な会話に恐れをなした管理男は小屋を飛び出る。ストーヴで下着を乾燥させたふたりで、クラレンスは8000ドル程度で自殺するなと諭す。だが神に祈っても願いはかなえてもらえないジョージは落ち込むばかりだ。
クラレンスはジョージを助けると神から天使の羽がもらえる。どのようにしてジョージの自殺を食い止めるか。自分の存在を否定するジョージに対して、クラレンスはジョージがこの世に生まれて来なかった場合の成り行きを見せることにする。それでふたりでベッドフォード・フォールズやベイリー・パークを訪れるが、どこにもジョージの知っていた様子はない。たとえば前者はポッターズヴィルという名称で、後者は墓地だ。面白いのは風紀が乱れていることを示すように、町は至るところ派手なネオン看板で、酒場やストリップ劇場が林立している。また後者ではジョージは弟の墓を見つける。弟は戦争で手柄を立てて華々しく故郷に戻って来るはずが、ジョージは生まれて来なかったので弟はジョージに助けられることなく、子どもの時に死んだのだ。次に母を訪れると、生活に疲れた様子で下宿屋を経営し、ジョージを知らないと言う。ジョージは馴染みの酒場「マーティンズ」にクラレンスを連れて行くと、店主は同じ人物であるのに全く人柄が違っている。それに親交を結んでいた高齢の薬局の男性は乞食同然の姿で酒場に入って来る。店主によれば、彼は自分の娘を毒殺し、20年刑務所に入っていた。店主につまみ出されたジョージは店の看板のネオンがニックスに変わっていることに気づく。住宅貸付組合の建物は別の看板がかかっていて、顔見知りのタクシーを拾ってわが家に行くと、そこは荒れ果てたホテルで誰も住んでいない。ジョージはクラレンスに妻のことを訊く。クラレンスは気乗りしないままに図書館の司書になっていて、もう帰宅の途に就く頃だと言う。図書館の名称はポッターの名前がつけられていて、そこから地味な身なりの眼鏡をかけた女性がひとり出て来る。彼女は独身のままだ。ジョージは彼女に詰め寄るが、彼女にすれば知らない男で悲鳴を上げる。そこに顔見知りの警官がまた駆けつけ、逃げるジョージを銃で撃つ。ジョージはふたたび雪降る橋にたどり着く。そして飛び込もうとする時に警官はジョージの名前を呼び、「心配してずっと探していた」と言う。クラレンスの魔法が解けたのだ。そしてもうクラレンスは登場しない。浦島太郎の気分であったジョージは現実の顔見知りに声をかけられて目覚める。そして狂喜してわが家に帰る。ここは感動的で涙を誘う。喜んだジョージはポッターの事務所の窓を叩いてポッターに挨拶さえする。ポッターは新年になれば監獄行きとなることを苦々しく呟く。ジョージにすればそれでも人生は捨てたものではないのだ。愛する4人の子どもと妻がいて、たとえ破産となって刑務所に行かなければならないとしても、生きている限りは夢があって楽しい。それは多くの友人もいるからで、町の人々はジョージにこれまで大いに助けてもらったことを忘れていない。ジョージを探しながら妻は叔父から話を聞き、金策に走った。
録画した最初の場面に登場した人々がみなジョージの家にお金を持ってやって来た。ジョージを待っていた金融検査官までが寄付をする。寄付金は8000ドルを優に超えているだろう。おまけにイギリスではジョージに万ドル単位で融資する人まで現われた。そこに弟のハリー大佐が帰郷し、大勢で「蛍の光」を歌う。札にまみれて1冊の本がある。クラレンスのものだ。その表紙を繰ると、「Remember no man is a failure who has friends」と書いてある。直訳すれば「友人を持つ者は誰も失敗がないことを忘れるな」。ポッターのように大金持ちではないが、無私の心で人々に接して来たジョージにはいざという時に手を差し伸べる人が大勢いた。この考えはどこかに共産主義的思想が見え透く思いがするが、アメリカの赤狩りは本作の2年後からで、公開当時の本作の評判がさっぱりであったのはそういう事情を間接的にしろ、反映しているかもしれない。当時のアメリカあるいは現在の日本でも、ポッターのような資産家になることが真の成功者で、間違って振り込まれた大金をそれと知って隠す者は本作でポッターが8000ドルをジョージに返さないことと同じだ。間違った相手が悪いのであって自分はそうではないと考える。ジョージがクラレンスから言われることに、「人間は誰かに影響を与えて生きている」がある。ジョージが生まれて来なければ町は全然違った様子になり、妻も結婚せずに図書館の司書だ。後者は今では差別とされがちで、独身高齢の司書のどこが悪いのかと糾弾されるが、女性が自分の家庭を持ち、よき子どもや夫に恵まれることを幸福と感じないことがあり得るか。ジョージの妻がジョージに見初められなかった場合はあり得るし、そういう場合は図書館の司書として慎ましく生活するということを本作は描くが、筆者は彼女が図書館から出て来て町を歩く場面は特に恐ろしく感じた。残酷と言い替えてもよい。ジョージと出会ったので映画の中では幸福な家庭を営むことが出来たが、そのような男性と出会えない女性はいつの時代も一定の割合で存在する。それでも彼女は自殺せずにそれなりの喜びを持って生きて行く。日本では毎年2万人以上が自殺する。ネット時代になっても友を求める思いは変わらず、一方ネットを金儲けの手段として詐欺や賭博、株の売買など、欲望の渦は大きくなるばかりだ。ジョージは大望をかなえられず、小さな町で人気者になった程度だが、多くの人に好かれるのであれば人生は明るく楽しい。それには自分を卑下せず、困っている人を助け、我欲に凝り固まらないことだ。クラレンスがしたことをジョージはしたのであって、ジョージは天使のような人間だ。チェーホフの『ワーニャ伯父さん』の最初のほうにも「たとえ人間は忘れても、神さまは覚えていてくださいますよ。」というセリフがある。
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