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●『旅スル絵画 住友コレクションの文人画』
壁に 立ちて見送る 豪華船 吾人生も それに劣らじ」、「母の日を 今年気づかず 母は亡き 労い言葉 心で妻に」、「イマジナリ ヴォヤジの親父 空見上げ 雲の変化の 動物遊び」、「ビルの街 山水画には 馴染まねど 人が住まねば 蔦で覆われ」



●『旅スル絵画 住友コレクションの文人画』_d0053294_00382244.jpg4月6日に岡崎にある京都国立近代美術館で『京の大家と知られざる大坂画壇』展を見た。当日は平野神社で桜を見た後、堂本印象美術館に行くつもりが、その時間はなさそうで岡崎に向かった。当日はもうひとつ見たかった展覧会があった。それが今日取り上げるもので、泉屋博古館で今日まで開催されていた。昨日家内と市バスで出かけた。丸太町通りの西の嵯峨小学校前から東端の交差点の東天王町まで乗り、好天も手伝って気分がよかった。距離は9キロで、50分ほどかかる。丸太町通りの景色を眺めながらぼんやり思っていたのは売茶翁のことだ。70代後半であったと思うが、売茶翁は双ヶ岡や聖護院村に住み、たまに渡月橋の近くまで茶売りに出かけた。丸太町通りは嵯峨では新丸太町通りと呼ばれ、江戸時代は円町辺りまであったろう。売茶翁はたぶん双ヶ岡から南下して三条通りに入り、それを西に進んで渡月橋に着いたと想像する。それはともかく、聖護院から嵐山まで片道8キロ程度ならば高齢の売茶翁でも充分歩いたはずで、筆者も歩いてみようかという気になる。ついでに書いておくと、売茶翁が暮した聖護院村の家は最近までそのままあったそうで、その様子はグーグルのストリート・ヴューで確認出来るが、双ヶ岡のどの辺りに住んだかはさっぱりわからない。おそらくJR花園駅の北、妙心寺と双ヶ岡との間の現在「花園〇〇町」と称されている区域か、双ヶ岡に隣接した西側の常盤地域だろう。江戸時代の双ヶ岡の長屋地域を記した地図や資料があればいいが、小高い丘で人が住まない双ヶ岡、そして妙心寺の境内はそのままとしても、今は大きな道路が走り、江戸時代の住宅地と田畑の区別はつかない。京都に長年住みながら、筆者が知るのは昭和末期からだ。昭和30年代半ばのことをたまに地元住民から聞くと、江戸時代からその頃まではあまり変化がなかったのに、その頃から現在までは破壊され尽くされたと言ってよいほどの激変で、古い時代の京都を想像することはかなり断片的になる。何が言いたいかと言えば、本展に関係することでもあるが、筆者は江戸時代の京都の町を想像して楽しむことが多いということだ。それは関心のある人物絡みで、たとえば上田秋成が現在の市内北部を歩いて道に迷い、這う這うの体で自宅に戻ったという経験談を読むと、今は拡幅されて明るい車道が、江戸時代は随所に鬱蒼とした樹木が茂る一方、道幅もとても狭く、碁盤目状の道はどこも似ていて、秋成が狐につままれたように方向がわからなくなって不気味な思いに陥ったことは、方向音痴の筆者としてはよくわかる気がする。
 たまたまだが本展は『京の大家と知られざる大坂画壇』とセットで企画されたような内容で、文人画に焦点を合わせる。また住友が収蔵する作品ばかりで、文人画を総花的に見せるのではなく、文人画にかなり詳しい人向きの内容と言ってよい。この詳しさの基準は人によって思いが違うが、たとえば日根対山という名前を聞いてその画風が即座に脳裏に浮かぶ人はかなり詳しく、名前だけは知っていると言う人は中級、名前も知らない人は初心者と言ってよいだろう。京都の鞍馬口に住む知り合いの古美術商の若い男性は明治期のあまり知られない文人画家に関心があって作品を集めている。安価であるうえに興味深い画風であるからだ。明治期の文人画はフェノロサが否定したこともあって今ではさっぱり人気がなく、さらに掛軸人気の凋落も手伝って、誰でも買えるほどの安価になっているが、今後研究が進んで評価が高まる可能性はある。それが百年後かあるいはついに訪れないこともあり得るが、それなりの面白い画風が生み出されたことは確かだ。たとえば、音楽ではヘヴィメタルはもうやり尽くされたようだが、現在でもそのタイプの音楽に固執するミュージシャンやファンはいる。彼らにすればそれぞれにバンドに個性があり、ヘヴィメタ全盛期のものとは全然違うとの思いがある。形骸化しても時代を反映するのでその考えは正しい。日本の文人画が全盛期を過ぎた後、巨匠を生まなくなるが、新たな絵画の潮流に触発され、あるいは混じり合い、新しい時代の文人画が登場する。マニエリスムのそれは全盛期の文人画とは様式の点で共通点が乏しいかもしれないが、文人の意識が絶滅しない限り、文人画は描かれ続ける。ただし文人意識が現在の知識人にどれほどあるかと言えば、詩を作り、書画をよくし、楽器を奏で、茶を愛する生活を理想とする人はほとんど絶えているかもしれない。かろうじて残っている人は今後も同じ割合で現われるとして、彼らの描く文人画は江戸期の全盛期の作に比べると、凡作である可能性が大きいだろう。そう考えるとやはり文人画は過去のもので、その過去を懐かしむところに文人画の味わいがあると言ってもいいかもしれない。筆者が売茶翁や上田秋成が歩いた江戸半ばの京都の町を想像するのと同じことだ。だが江戸時代の文人画家も現存しない理想の風景を想像して山水図を描いたところがあって、当時の街並みをさして美しいとは思わず、あるいは幻滅していたかもしれない。それで山水画では急峻な山の裾や中腹にぽつんと建物が描かれ、人はその雄大な景色の中で蟻のように小さな存在として捉えられる。あるいは自然に包まれて破綻がない。自然と現代の人間の混在を不合理なく描こうとしたのはたとえば昭和の小松均と言ってよいが、洛外の端とも言えない辺鄙な場所に暮らしたので、現代文明を象徴するものが絵の中に混じっても、自然のほうが大きくて問題にならなかった。
●『旅スル絵画 住友コレクションの文人画』_d0053294_00393667.jpg 筆者が梅津の染色工房に勤務し始めた20代後半、工房には多くの美術本があり、その中の加山又造の画集を見た時の驚きは忘れない。新宿御苑と思うが、六曲一双屏風に東京の都心を主題にした山水画があった。樹木の背後に巨大な白いビルがいくつか描かれ、それがどうにも受け入れ難かった。加山はそういう風景こそが現代の真実と思ったのだろうが、自然はそのままで常に美しいとは限らず、それで人間は手を加えて絵画にする。新宿御苑を散策して背後に無機質な色合いの高層ビルが否応なしに見えるとして、その自然と人間の構造物の対比を描くことが絵画の真実だろうか。大阪の天満宮でも本殿背後にビルがそそり立つが、本殿に近づくとそれは見えない。そのことは天満宮としてはなるべくそのようにお詣りしてほしいとの意味でもあり、背後のビルも遠慮しながら建てられたのではないか。京都の北野天満宮では背後や周辺にも高層ビルは見えず、江戸時代と変わらない空気が流れているはずだ。新宿御苑は周囲の高層ビルとの対比は仕方なく、加山は京都にはないその未来性を受容して現代の山水画を描いた。加山は応挙の写実の伝統をそれなりに受け継ぎつつ、京都生まれならではの文様、意匠の力を信じていて装飾性に突き進んだが、山水画のビルは日本画にふさわしくない現代の幻滅的要素ではなく、文明批判でも全くなく、ありのままの姿として肯定的に捉え、西洋の抽象絵画やモダニズムの要素の受け入れ、あるいは批判でもあったという見方も可能だ。筆者は40数年前に画集で見た時に嫌悪感を催したので、これまで積極的に考えたことはないが、今日はその屏風を思い出し、現代の日本画家の何をどう描くべきかという問題を意識に上らせる。それは一方では江戸時代の文人画家あるいはそうでないたとえば蕭白が描く山水画における小さな建物が違和感なく自然に嵌め込まれていると思えることが、加山の前述の東京を画題とする山水画における白い直方体のビルが百年後に違和感なく観賞者に見られるかどうかという疑問につながっている。このことは加山が現代ならではの山水画を描いたと将来大いに認められるのか、逆に山水画の論理的帰結点としてはとうていみなし得ないと退けられるかの問題を提起しているが、加山が伝統的山水画の復興を意図せず、現代文明を謳歌しつつそれに自然をしたがわせる方向にあったことは、いかにも加山的で、その態度を若い筆者は感心しなかったことを書いておく。簡単に言えば筆者は加山の作品を評価しない。黒いレースをまとった裸婦を描く作も石本正とはまた違った意味の煽情さがまず露わで、薄っぺらい即物性だ。それは文人画家が最も嫌悪したもので、気宇が感じられない。そこに日本における文人意識の終焉を見る思いもあるが、画家は加山だけではない。それに前述のビルを描き込む山水画は、加山にすれば風景画屏風との認識であったかもしれない。
 文人画すなわち南画への憧憬は戦前の日本画家の間でひとつの流行になったが、戦後世代の加山にすればそれすらももうなかったのではないか。ともかく本展で見られる画風と加山の絵画との間には何の関係もないと思える。どのような潮流もいずれマンネリ化するのは致し方のない必然として、フェノロサが評価しなかったのは明治のそうした文人画であったのだろう。ルネサンス後のマニエリスムは正統として評価されているが、幕末から明治の文人画もそれに倣えば見所がある。ただしそれはまずは正統的なものを充分受容し、その魅力を味わった後で踏み込むべきものに思える。というのは私淑も含めて必ず師があって後の世代は新しいものを創出するからだ。そのため本展は『京の大家と知られざる大坂画壇』を充分咀嚼してから見るべきだ。企画展に使用される泉屋博古館の別館は大きな展示室がひとつだけで、展示数はせいぜい50点までの少なさだが、住友の所蔵作のみで構成される場合がほとんどで、住友が展示作品を所蔵する経緯が垣間見える点で興味深い。これは莫大な財を築いた者が文化をいかに支えたかの証しでもあって、旧財閥ではそれは当然のことであった。また財閥だけではなく、各地方の名士が財宝として書画を収集し、画家や書家を経済的に支えたが、その傾向は明治になって洋画家にも光が当たる。それはさておき、金持ちがみな書画に強い関心があって収集に努力したかと言えば、そうでない場合のほうが多かったかもしれない。田舎では特にそうで、第一次産業に携わる者はたとえ経済的に裕福であっても書画に無関心である場合が多かったであろう。何度も書くように、現在の長者はおそらく文人画に関心はなく、アメリカのバスキアやウォーホルの絵画に血眼になる。それは買っておいて損はないという金儲けの手段でもあるからだ。江戸時代でも有名画家の作品はそのような理由で所望されたはずだが、書画を買い集めるだけではなく、文人趣味を持つ人がいた。それは生活空間に掛軸を飾る場所があったからでもあるが、紙と筆、墨さえあればいつでも描けるもので、書画は生活に深く入り込んでいた。そういう暮らしは明治期まで、あるいは戦前までは残っていたのに、今では普通の人の新築の家では床の間も庭もなく、文人画に関心を抱く契機がないに等しい。そういう筆者もそうで、35年ほど前、苔寺の近くにあった池大雅美術館に幼児の息子を自転車に載せて出かけ、じっくり大雅の味わいを知ろうとしたのに、結局どこがいいのかさっぱりわからなかった。それが急に感得出来たのは10数年前のことで、絵画を見慣れている人でも文人画の味わいを獲得するには長年を費やす必要がある。また筆者は本展で展示された彭城百川や蕪村、大雅、米山人辺りまでは画風を理解しているが、後の世代となると作品を間近に見る機会がきわめて乏しく、情報も同様で、名前のみ知って画風は詳らかでない。
 たとえば米山人の息子の半江は昔は父よりも作品が高値で取り引きされ、絶大な人気を誇ったとされるが、米山人のあまりに独特な画風に比べて特徴に乏しく、筆者は半江に関心を抱くことが出来ないでいる。本展に出品された他の画家としては浦上玉堂、春琴の親子、十時梅厓、谷文晁、中林竹洞、田能村竹田、貫名海屋、頼山陽、小田海僊、渡辺崋山、椿椿山、帆足杏雨、日根対山、田能村直入といったところで、竹田や崋山は筆者は特別意識するものの、玉堂はまだ味わいがよくわからず、春琴には興味がなく、他は今後機会があれば画風に分け入りたいと思う程度だ。つまり筆者は文人画への関心は中級程度で、本展の醍醐味を充分に理解したとは言い難い。文人画展が毎年開催されればいいのだが、本展のような機会はめったにない。またあっても蕪村や大雅に人気が集中し、他はその他大勢として十把ひとからげにされる。本展もそうと言ってよいが、蕪村と大雅に焦点を当てた展示内容ではない。それは住友家が所蔵した文人画家の作が江戸後期に重点が置かれたためだろうか。そのことは本展に『芥子園画伝』などの手本帖や蘭を描いた図などが並べられた「住友友親の書画ライフ」と題する関連展示があったことからも想像がつく。友親は12代目で明治の半ばに死んだが、明治の文人趣味の流行に反応して自らも文人画に手を染めた。筆者が本展で初めて知ったのは本展の第3章『絵画が旅する―泉佐野・挟芳園の中国名画』で紹介された泉佐野の廻船業を営む里井浮丘だ。里井は豊かな財力によって書画の優品を収集し、文人墨客がしばしば集まった。本展では天保15(1844)年9月21日の書画会の記録が紹介された。当日里井の挟芳園に集まった文人画家は竹洞、竹田、海屋、春琴、三陽、篠崎小竹、半江、海僊、対山、直入で、こういう豪勢な顔ぶれが集まる機会は木村蒹葭堂でも持てなかったのではないか。本展で展示された清の画家周之虁(しゅうしき)の大幅の山水画は浮丘の蔵品で、それを半江が借り受け、約束した日時を延期してほしいと浮丘に宛てた手紙が紹介されていたが、写真がない時代、実物を見るしか勉強の機会がなく、半江の中国絵画に焦がれる思いが伝わる。周之虁の同作が住友家の所蔵になったことは、豪商の栄枯盛衰を物語るが、本展が浮丘やまた彼が特に庇護した同郷の対山の作品を展示したことに「絵画の旅」の一側面が見られる。本展で最も大きな作は沈南蘋の「雪中遊兔図」で、展示の壁面の高さはこの作品を飾るために決められたのではないかと思わせるほどにぴたりであった。この作を筆者が見るのは3回目と思うが、やはりこの作が本展の白眉で、初めて接したらしき中年女性はしきりに声を上げながら感嘆していた。他に興味深かったのは梅厓による蕪村・大雅の「十便十宜図」の模写の一図で、割合簡略に描いたところに面白みがあった。
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by uuuzen | 2022-05-15 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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