「
楊貴妃を 白き牡丹に 見た後に 芍薬咲いて 美人現われ」、「芍薬の 花の臭みは 薬かな 美女の笑みには 毒ありと知る」、「芍薬を 牡丹に変える 接ぎ木とは 宿を乗っ取り 栄える手立て」、「何気なく 顔を向ければ 芍薬の 白き花咲き 笑み返す吾」
裏庭で先月20日に撮った牡丹の写真を
26日に載せた。今日の写真は芍薬で、一昨日嵯峨のスーパーに買い物の行く途中で見かけた。この花の付近の数軒に去年は数鉢のアマリリスが咲いていたのに、今年はひとつも見かけなかった。毎年球根を買って植える必要があるからだろう。筆者は2月頃に種苗会社でアマリリスの赤い品種の5種の球根セットが5000円で販売されていることを知り、陽当たりのよい場所がないので諦めた。なぜアマリリスかと言えば、大きな花が好きなのだ。小さな花は描きにくく、それゆえ興味がそそられないが、スミレは例外だ。話を戻して、今日の芍薬は開花して存在を知った。カメラを持っていなかったので、帰宅して今度は自転車で引き返して撮った。牡丹の花ほど大きくないが、もう少し花弁が開くわが家の白い牡丹とそっくりだ。今日の2枚目の写真はわが家の裏庭の牡丹のすぐ際に置いている植木鉢の芍薬で、上端に覗く牡丹の葉と形が違うのでそれとわかる。以前に何度か書いたように、島根の大根島で買った牡丹の苗木が枯れ、何年か放置していると台木の芍薬が蘇った。来年は開花すると思うが、それが無理なら白い牡丹の蕾をつける枝を切り取って挿し木すれば、次の年には牡丹の花が咲くのではないか。だがそれでは面白くない。赤の品種の牡丹が枯れたからには赤い牡丹の花がほしい。それには苗木を買ったほうが早い。それにこの葉ばかりの芍薬にどのような色と形の花が咲くのかという楽しみもある。赤が咲けばそのまま育てる。それにしても不思議なことは、芍薬は草花、牡丹は花木で、芍薬の台木に牡丹を接ぎ木することは逆ではないのか。脆弱な草花では牡丹の花木が支えられないと思うからだが、接いだ箇所から牡丹の根を生やさせ、全体として根元を強靭にさせる。また台木の芍薬は絶えず自分の花を咲かせようとするから、春に芽生えて来る葉を切り取り、挿し木した牡丹に栄養が行くようにするらしい。そのような牡丹と種子から育てた牡丹の寿命の差は知らないが、後者は百年は咲き続けるらしい。さすがに百花の王だ。わが家の牡丹は前者だが、目下のところ毎年勢いを増して花の数を増やしているので、筆者が死んだ後、どうなるのかの心配がある。今のうちにほしい人に株分けでもするべきか。それを言えば筆者が大事にしているものはたくさんあって、しかるべき人に所有してほしい思いが年々増している。息子はさっぱり理解がないからだ。これも前に書いたことがあるが、ある人は死期を察した時、庭の植物を全部切って燃やしたそうだ。その気持ちはわからないでもない。
そのことで思い出すのは10数年前に高槻から千里にご夫婦で転居され、その後まもなく年賀状も含めて音信が途絶えた染色を趣味とするKさんだ。当時80半ばであったはずで、今生きておられるかどうか微妙なところだ。前にも書いたことがあるが、Kさんは引っ越しが決める前に筆者を自宅に招いた。Kさんは平安神宮の代々の宮司の家柄で、染色に携わったのは京都工芸繊維大を出たからだ。Kさんの染色はドイツで製造中止になった特殊で扱いが難しいインディゴゾール染料を使ったローケツ染めで、酸性染料をもっぱら使う筆者はその染料の色合いに関心がありながら、使ったことはない。染色は扱う繊維ごとに染料が異なり、また染料の種類が違えば当然発色も異なる。またインディゴゾールは亀の甲の化学式を理解しなければ自在に使うことは難しい。やがてKさんが引っ越したのは広い家に夫婦で暮らすことから生活を縮小するためで、持ち物もそれなりに処分する必要がある。Kさんは染色作品を作る一方、水彩画も手がけ、写実的な風景画を描いた。特に力を入れて作った額入りの染色画数点が自慢で、転居に際してそうした代表作を処分するに忍びなく、筆者は無料でもらってほしいと言われた。交際の広いKさんであるはずなのに、染色に理解のある人は筆者以外にほとんどいなかったのだろう。Kさんの最大かつ最良の作品は白いチマチョゴリを着た数十人の長髪の若い女性が手をつないで輪になって踊る様子を染めた50号ほどのものであった。Kさんはその元になった朝鮮のお祭りをどこで見たのだろう。個々の人物の躍動性からして現場での写生は難しく、写真を利用したかもしれない。Kさんはその作品を筆者に所有してほしかったのに、筆者も自作の置き場所に困るほどで、申し出を断った。その時のKさんの残念な面影が忘れられない。筆者はいただいておくべきであった。しかし筆者が死ねばどうなるか。個人が作る作品は美術館に保存されない限り、遅かれ早かれゴミになる。それでも筆者はKさんの作品を所有すべきであった。Kさんはその作品も含めて自作を処分した。Kさんの家に招かれた時、Kさんは聖徳太子を描いた掛軸を広げながら、「これはお隣さんが引っ越しする際に捨てて行った掛軸の一部です」と言った。それと同じことをKさんは自作に対して行なった。充実した楽しみ、輝かしい自作に対する思い出。そういうものを死が見えて来た頃に反芻しながら、形あるものの行き場所がなく、自ら破棄する。たまにKさんの上品な優しい姿と話しぶりを思い出す。これも以前に書いたように、Kさんの高槻の自宅玄関に飾ってあった木彫りの飾り額は素晴らしく、奧さんが作ったものであった。奥さんは筆者がこれまでに会ったすべての女性で最も美しく、清楚で気品があった。Kさんは転居した千里の住所を知らせて来なかった。今日の3枚目の写真は先月20日の裏庭で撮った残り。
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