「
燈籠に 電球入れて 照らすのは 利便求める 時代と人と」、「人形を 並べて射的 素敵かな 人で試すは ひとがた悪魔」、「新入りは 目立つ分だけ 期待され 早々辞めて 別の新入り」、「気になるも 胸が騒ぐは 珍しき 心身磨れる 人生鑢」

桜が咲いて嵐山に来る人が今年は一気に増加し、渡月橋左岸下流沿いの大きな三か所の駐車場はどこも盛況であった。最も下流にある市営駐車場では係員が落とし物を見つけたのだろう、今日の写真の下側からわかるように、左端に小さな茶色の立方体の飾り物が増えた。写真は上側が
「その28」に載せた3月12日撮影で、下は先月19日の撮影だ。その鍵や財布に取りつけるような飾り物に気づいたのは中旬で、駐車場を利用した花見客のものだろう。この室外機の板の覆いの上に並べられる小物人形の類は減少傾向にあり、係員は存在を忘れたのかと思っていたが、そうではないことがわかる。そのわずかなプラスの変化は、注目し続けている筆者にすれば少しは心が躍る。賑やかであったのに数が減り、風化の度合いが増すことはさびしい。これらの小物人形を拾って並べる人がいなくなれば、他の係員は放置するだろう。そうなればやがて全部除去されることもあり得る。筆者は今年に入ってそのことを何度も思い、ひとつ増えたことに「生」を感じる。とはいえそれはちっぽけなもので、なくなれば筆者は忘れるだろう。そしてそのことを他のことと比較してみる。たとえば筆者がそれなりに気になっているブログや人があるとして、そのブログの更新がすっかりなくなったり、その人の存在が伝わらなくなったりした時、筆者は気にはなるが、やがて忘れるだろう。ただし関心の度合いによる。最近ある女性の夢を二度見た。最初の夢の内容は忘れたが、二度目は筆者がその女性と経験のない社交ダンスを賑やかな場所で踊る夢だ。体を密着させながらで、彼女の肉体の生々しさが衣服を通じて伝わった。この夢は、彼女が筆者のことをたまに思い出すためかと言えば、そうであってもなくても筆者にそのことはわからず、現実では何も起こりようがない。それはさびしいことかもしれないが、それが人生だと思える年齢になっていることを筆者は自覚する。また思い切ってその女性にメールで近況を訊ねるか、あるいは見た夢の内容を陽気に伝えるのもいいが、そう思うだけで筆者は実行しないことを自分でよく知っている。筆者は彼女の現状を知る手立てがないが、彼女にその気があればこのブログを読んで筆者の現在がわかる。それは彼女にとって今日の写真のどうでもいい小物人形の羅列に過ぎないだろう。だがその程度の賑やかさはあるはずで、更新されなければ彼女はいささかさびしく思って、案外筆者と踊っている夢を見るかもしれない。とはいえ、筆者は彼女のためにこのブログを書いているのでは全くない。小物人形もそうだ。誰がどう感じようが、そこに並んでいるだけだ。
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