「
酸っぱさを 減らしつ蒸れる 果実には 佳きこと多し 記憶の過日」、「人生の 果実は実は 嘉日なり 歓談ありて 深紅に実り」、「始末して 半生かけた 庭の実を ひとり頬張る たわわのすぐり」、「わかっても やがて忘れる ことあれど 深き感動 人を作るや」
今月は女性ミュージシャンを取り上げようと思っていたが、どの曲を選んでいいのかわからないほどにCDを聴き込んでおらず、来月以降に回す。それでそのミュージシャンとの関連からヨーコ・オノの曲にする。筆者はヨーコの全アルバムを所有していると思っていたが、先ほどWIKIPEDIAを見ると最新の3枚は存在を知らなかった。おまけに今日の曲が収められる『日の出の青写真』は10数年前に買ったのにそれを忘れていて、先日また注文した。これは最初に買ったものをあまり気に入っていなかったからではなく、むしろ逆で、「これは貴重だ」と思うので持っているかどうか調べずに注文ボタンを押してしまう。ヨーコの音楽は以前このカテゴリーで取り上げた気がするが、今調べるとそうではない。どの曲にするかはおおよそ決めていたが、それとは違う曲について書く。ヨーコの音楽は誰もがよく知っているようでいてあまり知らないだろう。筆者は彼女の音楽は何度も聴くものではないと昔から思っている。それは叫び声や奇妙な声が前面に出た印象を受けるからで、ヒットするようなポップ曲を彼女は作曲出来ない、あるいはその才能に劣るという偏見を抱かせる。またまともに歌詞を歌う曲でも声の質はプロと言い難い面があり、その点でも素人的な音楽家と判断する人もいるだろう。そこには音楽とは何かという問題がある。楽譜にきちんと作曲され、そのとおりに演奏を再現出来るような音楽とは別に、即興の音楽がある。それが大いに開花したのはアメリカのジャズだ。10数分以上の曲では冒頭と最後に主題が演奏され、その間の演奏は主題の調性に基づきながら演奏家は自由にメロデイを構築する。同じ即興演奏は二度と出来ず、メンバーたちの火花の散り合いだ。そういう音楽はライヴで楽しむに限る。録音をLPやCDにして発売することでミュージシャンの名声は広まると同時に収入が増え、生活を維持する重要な手段になるが、即興演奏にはわずかな粗が生じやすく、それをレコードで何度も繰り返して聴くと気分が削がれるから、通常は生演奏の収録を短くしてレコードにした。その窮屈さをミュージシャンは感じ来たであろう。それに主題と変奏という古典的な形式ではなく、最初から最後まで即興でいいと考える立場も当然出て来る。それは商業主義はほとんど念頭になく、演奏家同士の一回限りの出会いにふさわしい真剣勝負の場となる。そういう音楽を聴き馴れない人は、演奏を聴いてどことなく損した気分になるだろう。聴き手に媚びないそういう実験的と言われる音楽はジョン・ケージから始まったとしてよい。
ヨーコの最初のアルバムはプラスティック・オノ・バンドとの共名義で、アルバム・ジャケットは『ジョンの魂』とほぼ同じながら、大きな木の下でジョンとヨーコの寝姿が逆になっている。『ジョンの魂』に対してそのヨーコのアルバムは『ヨーコの心』という邦題がつけられたが、激しさを伝えるために『ヨーコの魂』でよかった。プラスティック・オノ・バンドはメンバーを定めておらず、『ヨーコの心』では驚くことにオーネット・コールマンのクワルテットが参加する曲「AOS」を含む。68年2月、ロンドンのアルバート・ホールでのショーのためのリハーサルで、オーネットだろうか、メンバーが2,3回咳払いをし、寒々とした場所を想像させる。このリハーサル曲は本番ではどうであったのだろう。その録音があればレコードになったはずだが、その話は聞かない。それはともかく、60年代のオーネットの人気からしてヨーコと彼のコンボとの共演は、ジョンとヨーコが71年6月のニューヨークのフィルモア・イーストでザッパ/マザーズと共演したことにつながる。しかもこれ以上はないという時機を得ている。そこにヨーコの時代の読みの鋭さがうかがえる。他のミュージシャンでそのようにジャズの大物とロックの大物と相次いで共演して存在を示し得た例はないだろう。また面白いのは、オーネットとの共演から2年半後にザッパと演奏したことだ。この2年半で時代はすっかりジャズからロックに変わった。それを見事にヨーコは察知し、レコードに痕跡を残した。ヨーコがオーネットとどのようにして接触したのかは知らないが、「AOS」はたぶんオーネットの全アルバムを持っている筆者でも、どこにどう収めていいかわからない異質な曲になっている。それはザッパ/マザーズとの共演でも言える。あたかも女王的な存在感を示した者は、ヨーコが初めてと言ってよく、彼女以降にもいない。ただし彼女は商業主義をほとんど念頭に置かずに音楽活動を始め、その態度はジョンと出会って以降にポップさを加えはしたが、基本は前衛で、叫び声は相変わらずだ。それは声を楽器に代えた即興演奏を中心とするジャズ奏者であって、多彩で奇妙な叫び声は独自の語法を獲得している。楽器は音階を知らなくても音を発せられるので、赤ん坊でも奏でられる。ただし出鱈目、無茶苦茶に聞こえても、訴えて来るものがなければ作品とは言えない。それには楽器を独自に扱う独自の考えは欠かせず、それを表現し得るのであれば芸術家にほかならない。そのことはたとえばオーネットがヴァイオリンを奏でたことにも言える。オーネットは正しくヴァイオリンの奏法を学ばなかったが、即興でそれを独自に操った。その演奏は正規に学んだ音楽家には真似の出来ないものだろう。ヨーコはジャズにおけるそうした因習に囚われない独自の語法を知っていた。ザッパもそうで、それゆえふたりの共演は必然でもあった。
筆者はヨーコがザッパとマザーズ、そしてジョンをしたがえて奇声を発する演奏を半世紀聴き続けて来た。つくづく思うのはヨーコの音楽性がそこに端的に表われていることだ。ヨーコは伴奏メンバーがいかに変化しても、「AOS」と同じく、共演者に合わせた歌い方をするだろう。ザッパ/マザーズとの共演はヨーコを含めて演奏者全員がごくわずかな間を捉えてしかるべき音を発していて、そこにはジャズの即興演奏の醍醐味の典型がある。それはビートルズのような短いポップスでは望めない気迫で、緊張の音楽と言ってよい。それは現代音楽の大きな特質でもあり、クラシック音楽はその伝統を培って来ている。その緊張を楽しめない人は多数派だろう。それでヨーコの音楽性への評価は今後も現状以上に大きくはならないと思う。音楽はすべてそうした緊張を含み得るが、楽譜がない場合は演奏のたびに音楽はより変わり、緊張も全く新たになる。それはそうしたい音楽家のわがままと言ってよい面があり、聴き手はレコードで耳馴染んだのと同じ演奏、同じ声を通常は求める。ここには音楽家が商業性とどうかかわるかという思想、立場の問題があるが、ヨーコの場合は大金持ちでもあり、実験的なことばかりやり続けてもいいのだが、ジョンとの出会いがあって歌詞を伴なうポップ曲のメッセージ性に開眼し、詩人の面が強調されることになった。もちろんジョンと出会う以前から比較的単純な英語で詩を書いていて、それはネイティヴ・スピーカーには俳句的であるとの好評価を得られた。言葉のハンディを逆手に取ったと言えばいい。渡米当初は語彙は少なく、わかりやすい言葉しか操ることが出来なかったのだろうが、難解な単語を使うのでなければ、どの国のかなり若い世代にも伝わりやすい利点がある。そしてジョンと出会ってビートルズなどの2分半ほどの流行歌に触れる及び、彼女の音楽性は即興の奇声以外に大きな武器を得た。彼女の曲は歌詞をしっかりと歌う曲においても叫びや奇声が用いられ、他のミュージシャンがカヴァー出来ない仕上がりになっているものがある。その叫びや奇声は抑圧を跳ねのける思いと言ってよい。それは女性解放運動思想によるものだけではなく、人間を不自由にさせている存在に対する抗議だ。自由を唱えてもいつも無条件で確保されることはあり得ない。その不条理は赤ん坊でも知っている。人間は死ぬまで自由を希求しながら不自由を感じる。それで赤ん坊はただ泣くだけだが、大人も同じと言ってよく、不条理に向かって叫ぶことで抑圧されている感情を吹き飛ばす。ザッパ/マザーズと共演した最後、舞台上のヨーコは当時の自ら編み出したバッグ・パフォーマンスとして布の袋に入った。それは胎内回帰で、演奏後にそこからまた出て来ることは新たな自己確認だ。それを女性がやることに意味がある。布袋は母の隠喩であり、また自分でもあるからだ。
今日取り上げる曲は最初「RISING」と題されて1995年のアルバム『IMA』に収録された。同曲は英詩で、その時はあまり意図するところがわからなかったが、2001年のヨーコが西太后に扮するジャケットの『日の出の青写真』に「RISING Ⅱ」として再録された時は大半が日本語の語り口調で、これには度肝を抜かれた。1995年は阪神大震災があり、2001年はニューヨークでツイン・タワー・ビルが攻撃された。ヨーコにすれば不条理に遭遇し、未来を見据えることの出来ない人々に対して表現者として何が出来るかとの思いであったのだろう。ヨーコは夫のジョンを突如失う悲劇を経験した。そういう人でしか表現出来ないことはある。ヨーコは本曲で随所に叫びや奇声を挟み、語り調で日本語で歌う。それは日の出のための青写真のつもりだ。作品が他者の心に届き、新たな思いで生きる力の糧になるかどうかはわからない。芸術家は真に思いを込めて作品を生むだけで、それは目指す希望の青写真に留まる。ふたつのヴァージョンはともに10分を超える長さで、伴奏のギターはショーン・レノンが弾いている。これがまたよい。ヨーコの語りは美輪明宏の「ヨイトマケの唄」を思わせ、同曲のように強い感動を沸き立てる。久しぶりに聴き直して筆者は涙を流した。ヨーコは理不尽な不幸に遭った人に同情しつつ、どうにかまた立ち上がってほしいと思ってこの曲をふたたび録音した。日本語で歌った理由は知らないが、CDのブックレットの最後のページにアルバムの概念が書かれ、その内容に最も適合するのは本曲だ。題名は日本女性であることの矜持も重ねている。最初の節だけ以下訳す。「第二次世界大戦の間、セント・ペテルブルグは他のロシアの地域から切り離されてドイツ軍に数か月包囲された。ついに食料や暖房がなくなり、爆撃の音だけが鳴り響いた。けれど人々は降伏しなかった。自分たちの街を諦めないことにした。ラジオのDJは人々を元気づけるために音楽を演奏し、語り、冗談を交えた。ついに全く無気力になったが、人々を生存させるために出来る何かを感じた。彼はメトロノームの音をラジオで流した。人々は横になりながら昼夜それを聞き続けた。そのことによってセント・ペテルブルグは陥落しなかった。」 戦争の悲惨を経験したロシア人が今はウクライナを攻め込む。もっとも、戦争を起こすのは一部の想像力の足りない、芸術を真に理解しない愚か者だ。第二節は戦時中のヨーコと兄との飢えに苦しんで採った手段について書かれる。それは本曲の歌詞に通じている。最後の第三節は2001年のヨーコのベルリンでの個展で受けた「フェミニズはもう古い問題ですよね?」との質問に対するヨーコの返答だ。そして最後に西太后がイギリスによって恥辱と失意にまみれて死んだこと、自分は生き残ると毎日言い聞かせていること、そして芸術は生存のための一方法であると書く。
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