人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●当分の間、去年の空白日に投稿します。最新の投稿は右欄メニュー最上部「最新投稿を表示する」かここをクリックしてください。

●飛び出しボーヤ、その74
らかい 時計があれば 車もと ダリでも思う 跳ねても死なぬ」、「誰でもと 言いかけやめる 子の思い 貧しきわが家 誰でもでなし」、「我慢して いずれミイラに なるもよし 何に魅入らる 人さまざまや」、「ナホトカに 送られ気づく トホホかな 暗いが泣くな ウクライナ人」



●飛び出しボーヤ、その74_d0053294_14255925.jpg
昨日は伊賀の堅焼き煎餅を思い出したので、今日は伊賀つながりで久しぶりに「飛び出しボーヤ」の写真を使う。写真は前々回の去年9月の投稿からの続きで、金森幹夫さん2019年9月25日に自動車で伊賀から甲賀に入った辺りで撮影したものだ。筆者はグーグルのストリート・ヴューで確認していないが、今日の2枚目と同じ角度の画像は載っているだろう。写真は左端に忍者姿、右端に前々回に載せた小学生高学年を思わせる「飛び出しボーヤ」があり、忍者姿の残りの写真は次回の投稿に使う。忍者は忍び込む者で隠れて情報を収集し、提供する者で、伊賀、甲賀は忍者の里として今ではテーマ・パークが出来るなど、観光遺産になっている。伊賀の出の松尾芭蕉が各地を歩いて句を詠んだのは忍者の役目もあってのことと言われているが、その点は筆者は関心がない。それはともかく「飛び出しボーヤ」を忍者型にするのは全国でもこの地域のみだろう。もっとも市販品のデザインを下敷きに忍者衣装にして手作りしたもので、パロディだ。何事も基本の形も含めて個性的なものを創るにはプロ的技術を要する。その点では前々回の小学生高学年少年型は独創的だが、素人が描いた稚拙さによって市販品のデザイン力に及ばない。ただし手作りならではの面白さがあり、市販品よりも目を引き、子どもが道路に飛び出す危険を運転手に伝える役目を果たしやすい。さて2,3年前か、ダイムラー・ベンツ社が車の車体を繊維のようなものに替えた試作車を作り、それがTVで紹介された。繊維を使えば鉄よりも人を跳ねた時に死亡率が低いとの考えだ。それは自動車の速度にもよると思うが、鉄よりは怪我の度合いは下がるだろう。その新アイデアの自動車がその後どうなっているのか知らないが、柔軟な頭を持った人が一流企業にいることを伝える。軟らかい自動車は漫画的発想だが、ダリの有名な絵に時計がぐにゃりと曲がった様子を描いた作があって、その超現実が自動車に適用されることは不思議ではなく、また芸術が未来の現実を予告することも改めて思う。金属で出来ている時計が曲がっている状態は勃起しない男根を暗示させもし、ダリは妻のガラ相手に男性機能不全に陥っていたのかもしれない。それはあり得る。そうなれば女性は不満を抱えるので固さは絶対的に必要だが、常に勃起していると世界は乱れるから、適当にそうなることが望ましく、実際にそうなっている。そのことから考えるに、自動車も人間のようになるべきで、車体が繊維との発想は女性のものではないか。適当な硬さがあって衝突時は鉄よりも肉体を傷つけない。
●飛び出しボーヤ、その74_d0053294_14262179.jpg
 忍びの者は現代のスパイで、どの国にもいるだろうが、ネット社会になって情報をネット経由で送ることになれば、ネットを監視すればよいことになる。アメリカはその点ロシアを凌駕するようで、ウクライナもロシアより技術が進んでいることが昨今のニュースからわかる。7,8年前になるか、TVでアメリカ軍が開発した人間の体温を感知する暗視カメラの遠隔操作ミサイルの映像を見た。ウクライナはその技術をドローンに搭載してロシア兵を攻撃している。黒い画面に人間だけが白く浮かび、建物の中にいてもわかる。アメリカ軍はその人間に向けて精確にミサイルを発射することが出来、TVでは白い人の形が爆弾でばらばらになる様子まで写し出された。殺された兵士はどこからミサイルが飛んで来たのかわからず、死んだことも気づかない。建物の中でそのミサイルを遠隔操作するアメリカ軍はTVゲームと同じ感覚でボタンを操作し、白い影がばらばらになって歓声を上げていた。間近にいる人をそのように攻撃することは気弱な人ではなかなか出来ないが、顔も声も知らない白い影なら虫を殺すことに等しい。そういう感覚で核爆弾でも人間は平気で落とせる。そうでなければそういう爆弾を開発しない。人間は他者の痛みは感じない。それどころか他者の痛みは痛快な者もいる。ロシア軍がウクライナ人を無視せずに虫のように扱うのはどの戦時下でも起こることだ。スイッチが入ると人間は残虐になる。その本性を教育で糺すことが出来るか。わが子への躾として体罰は絶対にしないという人がある。筆者も母から体罰を受けたことはないが、ただし母はとても厳しかった。たとえばどんなに寒い夜でも水で足を洗ってからでないと布団に入れなかったから、筆者はいまだにその習慣が抜けず、またそのほうが足は気持ちよく、快眠出来る。だがその母の躾を虐待と見る人がいるだろう。せめて湯を使わせばとの声もあるはずだが、貧乏なわが家に湯沸かし器はなかった。筆者の従妹は子どもを絶対に叱らない考えで子育てをした。どんなに悪いことをしても叱らず、それが愛と信じた。悪いことをしても静かに諭すか黙認だ。筆者はそのことに呆れたが、従妹の子どもたちがどうなったかと言えば、まあ常識の欠ける大人になった。それでも従妹もその子どもたちもそうは思っていない。このように子育てに正解はない。「あいつは常識がない」と憎まれても、憎まれっ子ほど世に憚るもので、彼らには彼らの世界があって、彼らなりの常識がある。一国の中にはそのようにさまざまな人がいて、一部の反対があっても大多数が戦争を容認するとそれは起こる。それはロシアに限らない。世界中どこでも同じだ。人間は同じであるからだ。そこで思うのはやはり教育の大切さだ。それは義務教育以前の家庭での躾だ。しかしもっと言えば遺伝子を受け継いだ段階でどのような人に成長するかは半分は決まっている。
●飛び出しボーヤ、その74_d0053294_14263752.jpg
 プーチンの母からどのような躾をされたのかは知らないが、貧困が人格形成に悪影響を及ぼすとすれば、筆者の経験から言えば金持ちからでも同じほどろくでなしが育つ。最近また気になってロジェ・カイヨワの『蛸』を引っ張り出して脇に置いている。家内はその様子を見て呆れている。その本は1975年6月16日に梅田の紀伊国屋書店で買い、半年後に読了しているからだ。前にも書いたようにこの本は後半がカイヨワの全著作の説明となっていて、今に至るまで翻訳されていない著作もあってとても便利だ。訳者の塚崎幹夫の人柄が伝わり、今後も筆者はこの本を何度も繙くだろう。そうそう、同著の最後のページにこうある。「もう一度だけいわせていただく。1934年にプラハでガストン‐バシュラールにロートレアモンを読むように説得した人は、同時に、ジョーゼフ‐コンラッドとサン=テグジュペリの断乎たる支持者である。彼はこの統一の稀な実践者である。」この「彼」はもちろんカイヨワのことだが、最初の「もう一度だけいわせていただく」に対応する文章を筆者は先ほど探せなかった。本を買った23歳当時の筆者はロートレアモンとサン=テグジュペリは知っていたが、バシュラールとコンラッドについては名を知らず、興味がなかった。今では分厚い百科事典に頼らずともWIKIPEDIAでごく簡単なことはわかるうえ、ネットで本は即座に注文出来る。筆者にはいい時代になった。話を戻して、カイヨワは戦争を経験しているので戦争論が目立ち、有名な1958年の『遊びと人間』でも最後は遊びと戦争を結びつける。次に塚崎氏の解説から引用する。「スター崇拝は際限もなくひろがって、いまでは民主主義社会の重要な代償的調整機構の一つになっている。…「仮面」を奪われているので無害なものにとどまっているが、「仮面」の働きをするものが現われたら、いつでも「目まい」に結びつき、「目まい」に転化するエネルギーを蓄えつづけているということである。ナチの黒シャツは現代の「仮面」となった。…「目まい」そのものの消費は、今では子供の遊びのなかに残るだけになっている。大人のあいだでは、「目まいの遊び」の腐敗したものであるアルコールや麻薬による陶酔のなかで、かろうじてその欲求が満たされつづけているにすぎない。かつて祭りで消費されていたあの熱狂的なエネルギーが十分使い果たされているとは考えられない。このエネルギーは必ず何らかの形で、おそらく暴動や戦争の形で、噴出してこずにはいないと思われる。「目まい」のルドゥスに当たる遊び――スキー、登山、空中サーカスなどは、「目まい」との闘いであったり、「目まい」の統制を目指す訓練であって、「目まい」の欲求そのものを満足させるものではない。…偽善的・倒錯的形態にカムフラージュされて現われた「目まい」の再噴出の例は、すでに少なくない。」
●飛び出しボーヤ、その74_d0053294_14265456.jpg
 「これらの危険に備えるために」カイヨワは、文明への進化の道を「聖なるもの」とする教育の推進、本能との間に距離を保ち、どんな場合でも冷静な自分をとりもどすことができる「遊び」の精神の確立、「祭り」の復活と「遊び」の重視が緊急に必要だと説く。1963年の著作『ヴェローナ、あるいは戦争の傾斜道』の同じく塚崎氏による概説文から引く。「現代の科学は空間の距離を縮め、広大な地域の効果的かつ同時的な統制を権力に許すようになっている。争いは地球の規模に拡大していく。いまは各国に、戦争か平和を自分の望むとき選ぶ権利も、どちらの側について戦うかを選ぶ権利さえも、残されていない。二つの国だけがこの特権をもち、他の国は地理的位置にどちらが強いかの判断に従う。もちろん、国民がすべてにそれに同意するとは限らない。帝国主義的対立に、イデオロギーの衝突が重なる。内戦の覚悟も必要である。…原子爆弾やミサイルをもたない国は、政治的にだけではなく、軍事的にも、まったく無資格の状態におかれ、ただこの爆弾を受けるだけの役割を演じることになる。広い範囲を荒らすことが目的なのだから、だれかれ見さかいなしの皆殺しである。…」続けてカイヨワは、「武器を発明したり、技術を開発したり、軌道を計算したり、そのための専門家を組織したり、ミサイルを発射するボタンを押したり、それを決定したりしているのは、つねに個なのである」が、彼らが慎重な意識と責任ある反省に委ねられているとの意識を人々が持ち得ないのは、現代社会を組織し管理している無数の歯車装置の重圧と厳格さが生み出した社会的な恐るべき重力が、現代の戦争の絶対的な根源にあるためとする。そして社会の機構を破壊して一段と緩められた集団生活の様式に戻るしかないとする。それは進化の方向を逆転させる空しい願いではあるが、巧みに自分を抑え、よく考え、手段を講ずれば基本的な圧力をも和らげ得るのではないか、そして努力以上に必要なものはないと続ける。「機械はそれ自体としては危険なものではない。巧妙に組み立てられた金属にすぎない。恐ろしいのは、自分の能力を超える複雑な機構を、頭を使って、苦心してつくりあげていく人間の、立ち止まることを知らぬ、かけがえのない勤勉さと器用さである。これを治療することは、細やかな心づかいと無限の忍耐とを必要とする仕事である。すべてのものごとを根底から考えなおすことが、その前提となる。人間に関することでは、教育からやりなおさなくてはならない。このような積み上げのみが、「遊び」が欠けていて危険になっている世界に、いくらかの「ゆとり」をいつかはとりもどさせることができるだろう。しかしながらいまは、こんどこそは確実に世界を破滅させる絶対的な戦争と、速さを競わねばならないときである。このような時間のかかる歩みで間に合うのかどうかが気がかりだ、とカイヨワはいう。」
●飛び出しボーヤ、その74_d0053294_14271939.jpg
 カイヨワはインターネットが生まれる以前に死んだ。そのためTVゲームを知らず、『遊びと人間』でも取り上げられないが、「eスポーツ」という言葉が生まれたように、今では競技のひとつとみなされ、カイヨワが分類した4つの遊びである「競争」にまず含まれる。そして「模倣」と「目眩」にも該当する。残る「偶然、運に賭ける遊び」にも当てはまる種類のTVゲームもあるだろう。となればTVゲームは遊びのすべての要素を持ち、絶大な人気を得ていることが納得出来る。しかもそれが兵器にそっくり応用され、画面を通じて相手国の兵士を監視し、絶対的に命中させて殺すことも可能となっている。それは人間が戦争においては机上の遊び感覚で人殺しが簡単に出来ることになったことであり、カイヨワの懸念は払拭されずに増大して来ている。つまり人命はますます軽くなって、無名で代替可能な小さな画面上の記号が消えるだけのことだ。一方で筆者が「遊び」で思うのは、「いじめ」だ。これをカイヨワは遊びとして取り上げていない。そこにカイヨワの同書の恣意的な欠陥があるのではないかと筆者は思う。カイヨワは例外的な遊びの存在を認めていたが、そこにもいじめは含みようがない。では「いじめ」は「遊び」ではないかと言えば、学級でいじめが絶えないのは遊びないしその感覚で楽しんでいる者がいるからで、彼らにすれば「遊び」にほかならない。カイヨワは「遊び」においてはそういう人間の負の部分に目を留めたくなかったのだろう。「いじめ」が「遊び」であることはネット世界では歴然としている。匿名をいいことに平気で暴力的な言葉の書き込みをする。彼らにはそれが気晴らしになっていて、「遊び」の楽しさを味わっている。「遊び」の本質が愉快で心が浮き立つこととすれば、「いじめ」で同じ快感を覚える人はいる。そういう性癖を持たないように子どもを躾けなければならないが、そのための完全な方法はたぶんない。義務教育の場で少しは効果を上げ得ると思うが、それはいじめをする者は嫌われて孤立することを体験させればいい。ところが必ずそのいじめっ子になびく者はいて、中にはいじめられっ子に非があると言う者もいるだろう。ロシアのウクライナ侵攻はそのこととさして変わらない。いじめられっ子が自殺してもいじめた者は無意味な記号がひとつ消えた程度にしか思わず、次の弱き者を狙う。そのようにして人類は「逞しく」進化して来た。このような考えをカイヨワは当然知りながら、英知で多様な文化を築いて来たことに目を向けた。そういうカイヨワが晩年は美しい石に関心を持ったのは、言葉に限界があると考えたからか。酒で命を縮めたカイヨワの思いに筆者はたぶん至らないが、それは何事も凡人は深く考えず、その日その日が面白ければいいという暮らしをしているからだ。突如襲う禍があってもそれも含めての人生で、その場に遭遇した時に考えればよい。
●飛び出しボーヤ、その74_d0053294_14273802.jpg

スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する

by uuuzen | 2022-04-27 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
●「陽当たりの 悪きわが庭 牡... >> << ●飛び出しボーヤ、その75

 最新投稿を表示する
 本ブログを検索する
 旧きについ言ったー
 時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2025 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?