「
甚大に 破壊すべしと 長が言う 更地に築け 我らの文化」、「コロナ禍で お祭りなきて 戦争は カイヨワさんの 思想どおり」、「戦争で 儲けて平気 兵器屋の 塀に黄色で 印を書きて」、「核ボタン テレビゲームに 酷似して ボタンで人を たやすく殺し」

ビートルズの50周年記念盤は全部発売されたと思うが、ザッパの場合はまだいくつか予定されているだろう。たとえば日本公演は76年であったので、4年後に発売が期待される。ザッパが生きていた当時からアルバムは続々と発売され、ザッパ・ファンは懐を気にする必要があったが、たとえば6月発売予定の『ZAPPA/ERIE』はCD6枚で2万円少々という高値で、筆者はまだ予約していない。アーメットは価格を割高にする路線に変更したとして、その理由を考えるに、たとえば『ERIE』は74と76年の公演を収録するハイブリッド手法で、これは目ぼしい録音はこれまでに概ね発売したことによるのではないか。6枚組ならば74年と76年の演奏は個別に発売してほしいが、そうすれば高額商品化はしにくいだろう。同作以降は新たな戦略による新譜の時代になる気がする。2万円の価格は一定数存在する熱烈なファンならば買うと見てのことで、ビートルズの近年の新ミキシングによる新譜と比べても格別高額とは言えない。さて本作をひととおり聴いて思い出したのは、2年前に発売された4枚組『THE MOTHERS 1970』だ。同作は本作との違いを考えるのにちょうどよい。同作と本作の間に去年発売された50周年記念盤の『200 MOTELS』があり、フロ・アンド・エディ在籍期は本作で網羅されたが、70年と71年のザッパの仕事量の途方のなさを思い知る。同映画の後、ザッパは70年に演奏していた曲をふたたび取り上げて71年のツアー・レパートリーを増やし、ザッパの曲を歌い慣れていたフロ・アンド・エディを前面に出して『フィルモア・イースト71』を発売した。同作の大半の曲は70年に演奏されていて、比較すると当然ながら71年がほうが完成度が高い。また『THE MOTHERS 1970』には「住み慣れた小さな家」が収録されず、ザッパは旧曲を引っ張り出して『フィルモア』を構成した。ただしステージでは『フィルモア』のB面最後の2曲が最初に演奏され、レコード化に際して曲順が大幅に変わった。最初に「ピーチズ」を収めるより、じっくりと進展する「小さな家」を置いたのは、次第に曲調を高めるにはよい。そこで思うのは、ザッパはフィルモア・イーストで演奏した時にLPの曲構成を考えて「小さな家」をレパートリーに加えたのではないか。この曲は複雑に進み、昨日アメリカの大西さんに教えてもらったが、
エド・パレルモ・ビッグバンドが20人編成でこの曲をステージで演奏している。そこから思うに、ザッパの脳裏でこの曲はオーケストラ向きとして響いていたのではないかということだ。

「ピーチズ・アン・レガリア」にしても『ホット・ラッツ』のオリジナル・ヴァージョンと違って本作ではフロ・アンド・エディのヴォーカルを中心にし、安っぽくはあるがそれなりの面白さがある。このことはザッパ曲を管弦楽団で演奏しても少人数のコンボでも、魅力を持つ事実を示す。理想は予算をふんだんに使った大人数による演奏だが、ツアーを組むとなると10人がせいぜいだ。それはそれなりの編曲の工夫が必要で、またチープだがそれ独自の魅力を持ち、大管弦楽団の演奏より劣るとは一概に言えない。フロ・アンド・エディを迎えたことによるチープさを押し出した曲として「サンジニ・ブラザーズ」がある。この1分ほどの曲は70年から演奏され、本作では「コンセントレーション・ムーン」(強制収容所に昇る月)の中間部に置かれた。「サンジニ」でフロ・アンド・エディとザッパがステージでどう動いたのかはわからないが、サーカスやヴォードヴィルを彷彿とさせ、マザーズのステージでは後年も一要素となる寸劇のごく短いものだ。本作では「ソドミー・トリック」と題され、性的な動きを見せたことの想像がつく。それを「コンセントレーション」の間に挟んだのは、同曲のオリジナルの『ウィア・オンリー…』ヴァージョンのヴァリエーションであるからで、谷間の強制収容所に入れられた人々に対する慰問劇のつもりか、あるいは権力者が収容された人から選んで性の慰みものにするかを暗示する。オリジナル・ヴァージョンではジミー・カール・ブラックがインディアンであるという言葉が発せられ、インディアンもアメリカの権力の犠牲者であったことが示唆される。ザッパの国家権力に対する風刺は同曲の題名のように静かで詩情豊かでありながら、見苦しいという理由だけで警官が何千人もの黒人やインディアン、日系米人などを捕らえて強制収容所に入れ、時に撲殺したことを訴える。ザッパもそのようにして逮捕されたからだが、「コンセントレーション」の中間部に「ソドミー・トリック」の言葉を含むのは、一方では『フリーク・アウト』の「ハングリー・フリークス・ダディ」に通じている。そこではアメリカ大統領のわが子に対する幼児性愛がほのめかされ、性の倒錯はザッパの初期からのひとつの主題になっていた。話を戻して、寸劇を伴なう音楽はフロ・アンド・エディ期からではなく、最初のマザーズから存在した。それがフロ・アンド・エディを起用してより派手になり、また後年にナポレオン・マーフィ・ブロックを起用してからも同じ要素は使われ続けた。その寸劇の大規模なものがジム・ポンズの加入から、つまり71年になって書かれた「ビリー・ザ・マウンテン」だ。これは70年のレパートリーにない。いくつかのパートに分けられるので組曲としてよく、細部はステージごとに変化し、中間部のソロも誰が担当するかは決まっていなかった。

『プレイグランド・サイコティクス』にザッパは「ビリー」を収録したが、本作からはザッパがどの部分を削除したかがわかる。『プレイグランド』ヴァージョンは30分で、実際の演奏より4,5分短い。イアン・アンダーウッド(あるいはドン・プレストンか)のキーボードの最後辺りと続くザッパのギター・ソロをそっくり削ったが、ザッパ・ファンとしてはやはりギター・ソロを聴きたい。ではなぜそれを省いたのか。2011年の4枚組CD『カーネギー・ホール』では50分近いヴァージョンが収められ、そこでザッパはソロを奏でるが、ギターの音色は激しくなく、その点が物足りない。本作では30分強のヴァージョンが5曲あり、またザッパのソロは存分に大きな音を奏で、ようやくこの曲の真の醍醐味が伝わる。この曲はビリーという大きな山がアメリカを横断する物語で、その怪獣としての存在は軍隊のみならず、この曲のハイライトであるアメリカの典型的詐欺的商売人をも寄せつけない。ビリーは不条理な存在としてたとえば無敵を自覚する今のロシア軍を思わせる。ザッパはビリーを戦争の脅威にたとえたのではないが、そのようにも読み解くことは出来る。72年にザッパは「ビリー」に続く大曲の「グレガリー・ペカリー」を作曲し、その歌詞はアメリカのもうひとつの典型の流行を商売にする人物がビリーの噴火に出会って狼狽える物語で、突如襲って来る自然災害の不条理が主題だ。ザッパは71年暮れに頭のおかしな男に大けがをさせられたが、人生に不条理がつきものであることは若い頃の監獄入りから自覚していた。さて『フィルモア』のB面にドン・プレストンのソロ曲「エレクトリック・ロンサム・ターキー」がある。それが「キング・コング」の中間に演奏されることは先日書いたが、4回のステージで一度のみで、よくぞこのスリリングな演奏が得られた。事前にザッパはドンとは打ち合わせをしただろう。ジム・ポンズはジョンとヨーコを迎えた時もマザーズのメンバーには何も言わず、ふたりと打ち合わせたことを書き、ザッパは中心になる者以外のメンバーは背後で演奏を合わせて当然との思いがあったのだろう。70,71年、ドンの存在はフロ・アンド・エディに次いで大きかった。モントルーのカジノでの演奏や6日後のロンドンでの演奏の最初はドン(イアンもか)による10分に及ぶソロ「ザンティ・セレナーデ」があるからだ。それはキーボード、シンセサイザーの前衛的、実験的な即興演奏で、部分的には後年流行するミニマル音楽を思わせる。またモントルーではサイレン的な音が目立ち、それが同ステージの最後の火事の暗示になっている。フィルモア演奏から半年後にザッパはライヴ構成をまた変化させたのだが、「ザンティ」ではザッパが最初にドンやイアンに指示を出して演奏させ、やがてメンバー全員が揃ってジャミングを繰り広げたことを想像させる。

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