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●『THE FOUR SEASONS』
越の 自覚なきほど 人気者 任期撤廃 テレビに出すな」、「顔と名を テレビで売れば 偉大人 周り思うは 痛い人かと」、「四季を知り いずれは死期を 悟りけり 猫に出来ても 無理な人あり」、「四季のなき 土地に暮らすも よけれども 南極は嫌 南洋はよし」●『THE FOUR SEASONS』_d0053294_16255348.jpg正月明けからヴィヴァルディの『四季』を思い出したように聴いている。筆者は現在3種の録音を所有する。これを書くために何度も聴き比べているが、やはり最初に聴いた録音に思いは戻る。これは廉価版のLPで、友人Mから20代前半にもらった。その以前から『四季』は日本では最もよく売れたクラシック・レコードのひとつであるはずで、ラジオでも何度も聴いた。家内と交際するようになってから、カラヤンの指揮によるLPを借りたこともある。家内はそのレコードを実家に置いたままで、現在の行方はわからないが、同じレコードは簡単に手に入るので惜しくはない。友人Mからもらった盤はあまり聴いて来なかったが、今年に入って10回程度聴いた。マリヌム・フォールベルグ指揮、アムステルダム室内管弦楽団の演奏、ヴァイオリンはヘルマン・クレバースで、筆者はこの指揮者や楽団の他の演奏を知らない。二流どころと言えば聞こえが悪いが、カラヤンなどの超有名な指揮者に比べると、あるいは『四季』の録音では代表とされるイ・ムジチ合奏団に比べると、名が劣るのは致し方がなく、レコード会社としては廉価版にふさわしいと考えたのだろう。それでも大手レコード会社の商品になるだけの価値はある。筆者がこの録音を忘れ難いのは、LPであるからかもしれないが音がまろやかで間近で聴いている気分になれるからだ。またその間近さは粗がわかりやすいことでもあるが、そのことが人間らしくてよい。もっとも、この粗には二種類あって、違和感を覚えさせる場合もある。ここから脱線して辛辣なことを書く。以前に書いたことがあるが、70年代前半までの『芸術新潮』には五味康祐のクラシック・レコード評があって、筆者は取り上げられる曲をほとんど知らないまでも氏の意見には概ね賛同出来る気がした。氏は人相学にも詳しく、その方面でTVによく出ていたが、氏が理想とする音楽家はどのような顔をしていたのかという思いに至る。つまり一人前のいい顔をしていなければ、もとよりその人が生み出す芸術は高が知れているということで、これは内面が人相に現われ、また芸術を目指す者であればその人相から作品の質がわかるとの考えだ。そのことをよく自覚していたのでカラヤンは自分の写真の写りを大いに気にした。昔日本で写真週刊誌があった頃、黛敏郎の写りのよくない写真を掲載し、そのことで氏の酷さを示そうとした記事があった。筆者はその時の黛の写真を見ていないが、何となく写真を撮った人物の思いはわかる気がした。日本を代表する立派な文化人の黛でも酷い部分があると非難、批判したかったのだろう。
 右翼的言説の黛が許せず、揶揄するために黛を本人の許可を得ずに撮影し、雑誌に載せたのだが、誰でもほんの一瞬の表情を撮影されれば、本来のイメージとは違う「酷い」印象を与えるものにはなりがちだ。聖人であっても酷く見える部分を保有している、すなわち醜さを抱えていると言い替えてよいが、そうなれば五味がクラシック・レコードのジャケット写真は音楽雑誌から知る指揮者や演奏者の顔から演奏に対する先入観を受け取ったことは、現実的にはもっと辛辣の度合いが増してしかるべきとなる。指揮者や演奏者は写真映りがいいことを可能な限り心がけて写真撮影に臨むからだ。ここからは面白いことがわかる。写真映りのよい人でも案外内面の本質は写真や映像から立ち上ることだ。実際に面会せずにそのように判断することは許しがたいと言われそうだが、一般人は有名人を写真や映像でしか知りようがない。それゆえカラヤンのように有名人は写真映りを気にするが、いかに気にしても写真からでも本人の何かは伝わる。それで筆者はカラヤンがいかにも格好をつけて深淵な思想を持っているかのような顔や態度で写っているアルバム・ジャケットが苦手で、カラヤンのファンにはならなかったが、カラヤンの指揮がどれも鼻につくというのではない。それにしても何でもありのカラヤンで、どういう音楽を指揮すればどれほど売れるかをよく知っていた商才に特に優れていた。そういうところがなければ超有名にはなれない。五味がカラヤンをどう評したのか知らないが、五味が辛辣な評を書いた演奏家は、五味が理想とする盤には遠く及ばないとの考えからだったろう。つまり自分が認める一流以外はなくてもいい存在ということだ。一生の間に堪能出来る音楽は限りがあることから、その考えは仕方がなく、最初から見限って聴かない音楽は誰にもある。その見限りは本人の写真や映像を参考にするしかなく、その視覚重視をよく知っているだけにレコード会社や演奏者は写真映りを気にする。まずアルバムを手に取ってもらうからには見栄えは大切だ。そしてその見栄えに演出の意図が露わになり、その意図によって賛美される場合もあれば、見え透いた卑しさのようなものを喝破されることもある。ここから辛辣なことの本論に入る。最近『徹子の部屋』にショパン・コンクールで受賞した男性が出演してマズルカを1曲弾いた。その曲に筆者は馴染みがなかったのでなおさらかもしれないが、彼の演奏に感心しなかった。マズルカはポーランド人にしかつかめないリズムの微妙さがある。これは鑑賞者からすれば演奏における右手と左手のごくわずかなずれをどう味わうかという問題でもあるが、彼の演奏ではそのずれが出来の悪いロボットのようで聴き苦しかった。もちろんショパンの母国のコンクールで受賞したのであるから、ポーランド人も驚く才能であるのだろう。
 そこで筆者は五味康祐ならば彼の演奏をどう評価したかと考える。まず筆者は彼の顔が好みではない。あるいは嫌いと言ってもよい。彼はゲーム音楽も好きだと言う。いかにも現代の若者らしいが、筆者はゲーム音楽を聴きたくない。その時間があれば読書に使う。結局ゲーム世代がショパンを演奏すればなるほど彼のようになるのかということを、『徹子の部屋』に出演した彼の姿から納得したのだが、たとえば彼のCDが無料で筆者の手元に届いたとして、筆者はそれをほとんど聴かないだろう。いくらでもショパンの名演はあるからだ。とはいえ、今の10代は彼の演奏によってショパンの音楽を知り、それを基準として過去の名演にけちをつけるだろう。時代は常にそのように新しい世代が作って行く。つまり筆者は古い人間でゲーム世代のショパン弾きを理解出来る能力がないとみなされる。それは仕方のないことであるし、筆者としてもけっこうだと思う。辛辣なことついでに書くと、筆者はTVで中年になったジャニーズ系タレントが出ると、全員がアホ面に見えて仕方がない。それは当然だろう。男芸者が齢を重ねただけで、知性の片鱗もない。話をさらに戻す。粗の二種類だ。顔から想像がつく一種の嫌味ゆえに当人やその作品を嫌うことは、本来の芸術のみを正当に評価しない態度と言われそうだが、芸術は人間のもので、人間が創るからには人間性を作品以外の属性から判断され得る。つまり完璧に近い作品でも作者が醸す雰囲気から必ずしも好意を得るとは限らない。人間性に粗があれば作品もそうと見ることが間違いであることは筆者も充分承知しているが、そこは辻まことの考えに筆者は賛同し、真に価値ある作品は、それを除いても真に価値ある人間によってしか作り得ないと考える。五味が言いたかったのもそこだろう。一流の壁は途轍もなく高い。では大多数の二流以下は価値がないのかという話になる。もうひとつの粗はそのことを言う。一流とは言い難い演奏ではあるが、一生懸命に虚心で演奏しているという場合は、やはりそのことは聴き手に伝わる。友人Mからもらった『四季』はそのような演奏だ。至らない人間が懸命に演奏しているという雰囲気がありありと伝わる。またそれは無名の凡人たちの演奏とはほど遠いのは言うまでもない。また弦楽器を奏でている様子がまざまざとわかるほどに生々しさがある。これは録音の特性で、それを好むかどうかは人によりけりだ。ひとつ言い得ることはデジタル時代になって名演はロボットじみて聞こえるようになったことだ。そのことで思い出すのは、前述したマズルカを楽譜どおりに機械に演奏させたヴァージョンがYouTubeに投稿されていることで、それは『徹子の部屋』に出たショパン弾きの演奏とよく似ている。もっとも、筆者が言いたいのはデジタル録音による隅々まで磨き上げられた完璧な演奏のことで、それはカラヤンから始まったと言ってよい。
●『THE FOUR SEASONS』_d0053294_16261335.jpg さて筆者が所有する『四季』の2枚目は10数年前に買ったドイツのハルモニア・ムンディのCD50枚ボックス・セットの1枚で、同レーベルが売りにする古楽器による演奏だ。ゴットフリート・フォン・デア・ゴルツ指揮、フライブルク・バロックオーケストラの演奏だ。ヴィヴァルディはイタリア人なので、やはりイ・ムジチがベストと思う人が多いと思うが、四季のある国ではどこでもこの曲は理解されやすいはずで、イタリアの演奏にこだわることはないだろう。このCDは『四季』の後にヴィヴァルディの別の曲、そして最後に男性が語る『四季』の作曲の元になった詩の朗読がある。解説に翻訳はないが、それは友人MからもらったLPのジャケット裏面に印刷される。この詩の意味を知って聴くとなおさらヴィヴァルディの意図がわかるが、「春」における鳥の囀りや、「夏」での雷鳴など、現代でも、あるいは日本でもよくわかることが音楽で表現されていて、一言すれば牧歌的な生活を謳い上げ、平和そのものだ。とはいえ、この詩に関係せずに音楽を聴く自由はあるし、この曲から詩とは全然違うことを想像する人もあるだろう。とはいえ、筆者は春を迎える頃になるとこの曲を思い出す。聴かなくてもメロディが蘇るほどで、それほどに覚えやすく、馴染みやすい。春夏秋冬が各3楽章から成り、また急緩急の構成でどれも3分程度、長くても6分で、12曲でちょうどLP1枚に収まる40分程度だ。フライブルクの楽団による演奏はチェンバロがよく響き、よりヴィヴァルディ時代の様子を彷彿とさせる。弦楽器が古風に響くのもよい。ただし、筆者は古楽器による演奏を必ずしも絶対とは思わない。ヴィヴァルディ時代の演奏は永遠に失われていて、同時代の楽器を使っても同じとは言えない。現代の人間が演奏するからで、いわばレトロ趣味で、疑似的に昔を楽しむ行為だ。そのことは同じ楽譜を使って古風にこだわらずに演奏することと大差ない場合もある。ただし現代があまりに行き過ぎて昔とはそぐわない演奏になっている可能性を意識する必要はあるだろう。あるいはそれさえも必要ないという意見がクラシック音楽界にはあると思う。ブーレーズは楽譜に忠実であればよいと考えながら、可能な限り作曲家に会ってどう指揮すべきかを考えたが、そのことがかなわないのであればただ楽譜にしたがうしかなく、またその演奏は作曲家が生きた時代のものとは全然違っている場合があるが、それは誰にもわからない。それで現代のショパン弾きが一方でTVゲーム音楽を聴きながら練習に勤しみ、それはそれで仕方ない、あるいは妥当、当然とされる。話を戻して、このフライブルクの楽団の演奏は品があってよい。また強弱のつけ方が筆者所有の3枚では最も明確で、静かな曲は聞き取れないほどに静かで、勇ましい曲は驚くほどに大きな音で激しく演奏する。
●『THE FOUR SEASONS』_d0053294_16264962.jpg 3枚目はチョン・キョンファがヴァイオリンを担当するもので、この演奏をどう評価していいか筆者は戸惑う。去年YouTubeでチョン・キョンファがTV番組『徹子の部屋』にかつて出演した様子を見た。2000年発売のアルバム『四季』の宣伝のためにキョンファは同番組に出演したので、当時キョンファは52歳で、堂々たる貫禄だ。黒柳徹子はキョンファのことを何度か「すごい」といった形容詞で讃えた。それ以外に適当な言葉が見つからないことはその番組でのキョンファの語り口調や、また『四季』のMTVでのオーラから納得出来るが、もう少し別の表現が出来ないものかとも思わせられる。筆者はキョンファのCDボックス・セット2種を去年購入し、折に触れて聴いているが、まだ10分の1程度しか聴き込んでいない。『四季』をキョンファが演奏したのはEMIの移籍し、その要請によるだろう。ヴァイオリンが中心となった曲だが、キョンファの才能を目立たせるにはあまり役立たないのではないか。MTVはどこかにロケし、野外で彼女が演奏する姿が始終映し出され、ほとんどポップス界の音楽家扱いだが、美貌ゆえにヴィジュアル性を用いたのではなく、黒柳徹子が言ったように、とにかく「すごい」ことを納得させるための映像化で、皮相的な美しさを歓迎する人には理解不能だろう。だがキョンファの実力と名声に応じた選曲とMTV制作で、『四季』は彼女の存在を知るための格好の録音であったろう。この盤は友人Mからもらったオランダの楽団の演奏とはどこにも似たところがない。粗がまずないのだ。そのことが欠点と言ってよい。あるいはその粗は粗のない完璧性で、作りものめいていることだ。人間が演奏しているが、人間の演奏とは思えないほどの宇宙性がある。身近で楽器が鳴り響いているのではなく、天国かもっと別の世界で繰り広げられている感がある。それはデジタル録音でしかもごくわずかな粗を徹底的に排除しようとした結果だが、手の届かない別世界性がすんなりと心に入って来ない。それで筆者は何度も交互に友人Mの盤を聴くが、どの演奏が最適であるかは決められない。わずかな粗を人間らしさと捉えればオランダの楽団に軍配が上がるが、完璧性となればキョンファ盤になる。あるいはフライグルク盤でもよい。また使用する楽譜が違うのか、曲によって倍ほどの長さの差があって、3種を比較することでより『四季』の深みがわかる。わずか3枚でそうであるからには何十、何百もの録音を聴き比べるともっと何かがわかるだろう。とはいえ筆者にそのつもりはなく、今後もこの3枚で充分で、また結局最初に所有した友人M盤に戻る。この曲の元になった詩の「冬」の最後はこうだ。「……南風と北風の戦いを感ずる。これが冬なのだが、冬は春を呼ぶ喜びをもたらす」春に始まったロシアとウクライナの戦いは、いつ終わるのだろう。
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by uuuzen | 2022-03-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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