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●『その男・榎忠』
先月15日に大阪に出た時に立ち寄るつもりが今日になった。道頓堀のキリンプラザの1階奥にエレヴェータがあり、そのすぐ左際で入場料を支払うようになっていたが、お金を出しながらふと横に立っている人を見ると榎忠(えのきちゅう)氏であった。



●『その男・榎忠』_d0053294_273459.jpg目が合って少しどぎまぎしたが、瞬間ににこりと微笑んだ。サインしてもらおうかと一瞬思ったが、適当なものを持っていないし、まさかチケットを買ってすぐにそれはない。今ちょうど60歳の氏はこれまでのハードとも言える芸術活動で体力を消耗したのではあるまいが、筆者よりも小柄であるのが意外であった。そう言えば岡本太郎も150センチ台の身長しかなかったが、岡本によれば「背の高い奴に天才はいない」で、これは同感だ。同じことをケストナーも言っていた。それでも昨今は女性でも170センチほどの身長があたりまえになっていて、150センチ台の男が自分を天才と任ずるにはそうとうな努力と才能を必要とする。榎のことを初めて知ってまだ日は浅い。今回の展覧会チラシを見てわかったが、去年、京都国立美術館で開催された『痕跡-戦後美術における身体と思考』で出品された1977年の「ハンガリー国に半刈り(ハンガリ)で行く」という写真作品によって初めて知った。これは榎が33歳の時のパフォーマンスだ。衝撃度の点で代表作と言ってよい。長髪で口髭も伸ばした格好で、体のちょうど縦半分の体毛をすっかり剃り落とす。つまり、眉毛も含めて片側を無毛状態にするわけだ。その異様な姿のままで、まだ一般人の旅行か難しかったハンガリーに旅行したのだが、途中西ドツイでの5年に1回開催されるカッセルの前衛芸術祭の「ドクメンタ6」に飛び入り参加し、西ベルリンからチェコに入ろうとしたところ、パスポートの顔と違うということで入国を拒否され、飛行機でハンガリーに入国した。知人の京大教授がハンガリー大学の客員教授をしていて、その招待状があったために入国が可能となったが、奥さんを連れての旅であったことがよい影響を与えたと、今日見たビデオで榎は語っていた。体毛を半刈りにして真正面から上半身を撮影した榎の写真は一度見ると誰しも忘れ得ない。榎はそのままの格好で日常生活を4年続け、途中で半刈りをすっかり左右逆にした。このことに気づく人は少なかったそうだが、そうして半刈りが入れ代わった半身写真もちゃんと残していて、2点を並べて見ると、その間に流れた月日を誰しも感じ、アホらしいやら恐ろしいやらで、とにかくショックを受ける。
 体毛を片側だけ剃って生活すると、いかに人間にとって毛が大切かを知るらしい。発汗作用が左右で違うので、体調もおかしくなる。自分の肉体を使ったこのような行為を芸術と呼ぶかどうかだが、「ハンガリー国に半刈り(ハンガリ)で行く」という、面白がりの語呂合わせ的ナンセンス・タイトルからしても、完全にダダイストの芸術行為としか言いようがない。そんな格好で地下鉄に乗ったり、街を歩いたりして人々の反応を見、しかもその様子をビデオで撮影していて、今回会場でそれが流されていたが、榎の説明ぶりは明抱腹絶倒ものであった。それでもそんな格好で4年もサラリーマン生活を続けるというのが凄い。芸術家はサラリーマンにはならず、毎日ひたすら芸術と格闘しているというのが世間一般のイメージだと思うが、食うためには最低限の生活費が必要で働く必要はある。榎のように売れるような絵を彫刻を作る芸術家でない場合、それは仕方がない。きちんと5時まで働いて、残りの時間を芸術活動に当てる。それを知ると口先だけで芸術家になりたいと言っているような人は大抵黙るに違いない。お金や時間がなくても、それなりにやれることはある見本が榎で、今までにやり続けて来た芸術行為は並みの前衛芸術家の何人分にも相当する。そんな人が60になってようやく本格的に多くの人々に知られるようになりつつあることは喜ばしい。神戸に住む榎は香川県の善通寺生まれだ。絵を描き始めたのは20歳の頃で、当時の写真が最初に展示されていた。ごく普通の平凡なサラリーマンに見える顔と姿だ。それが40年でここまで変貌させるかと思うほど表向きは雰囲気が違っている。今日はエレヴェータの横で見かけた後、4階で若者3、4人に囲まれて話している姿を5分ほど傍らで立って観察したが、榎はその芸術とは違ってごく優しい物静かな印象があった。だが、そういう人ほど内に秘めたものは頑固だ。自分というものをしっかり持っている。偉そうぶったところが感じられなく、むしろあまり存在感がないように思えたほどで、それがまたとても好感が持てた。
 会場は3、4、5階で、下から順に見て行くが、3階では今までの仕事がパネルなどで紹介されている。階段踊り場は昔の個展の案内状や雑誌の紹介記事など、4階はビデオのほかに何もなかったと思うが、ひょっとすれば見忘れたかもしれない。5階は新作だ。最近では稀な充実した内容の展覧会で、本当は関西のどこかの公立美術館が大回顧展をすべきだと思うが、すでにその話は持ち上がっているかもしれない。メモはかなり取って来たが、全部をここで紹介出来ないほど仕事は多い。そのどれもが自分の体をそのまま使ったものと言ってよく、芸術が頭ではなく、体で作るものであることを再認識させてくれる。その体を使っている部分がとても見ていて心地よい。頭でひねくり回して理屈づけた芸術はどこか胡散臭いが、榎の作品はみなわかりやすい。自分自身が面白がっているところがはっきりと伝わるからだ。面白くないことはやらないという態度がまずよい。それは関西人特有のサーヴィス精神の表われで、東京からは生まれ得ないものではないだろうか。体を使った芸術と言えば、60年代終わり頃から盛んになったパフォーマンスと呼ぶものがある。榎も絵を描く一方、それを1970年に最初に行なった。この年、榎は鴨居玲らと「デッサン教室<0>」を結成しているが、実は2月18日に兵庫県立美術館に『山田脩二展』を見に行った時、「HART」と題するタブロイド・サイズの同館の情報誌をもらって来た。その中に「鴨居玲の思い出を語る」と題する榎へのインタヴュー記事がある。簡単に内容をまとめる。鴨居とはよく行く画材店で68、9年頃に出会った。画材店で鴨居を中心にデッサン教室が作られ、榎も参加していたが、次第に展覧会のために描いているような権威的、組織的なものが合わなくなった。そして仲間とグループ「JAPANKOBE ZERO」を結成して神戸市内でパフォーマンスをするようになり、鴨居とは疎遠になった。鴨居と出会って人々のつながりが出来たが、自分としては鴨居のような絵描きにはなりたくないとの思いを抱いている。この記事を読んだ時点では榎がまさかあの「半刈り」の人物とは知らなかった。3月になって新聞に今回の個展の記事が出た。そこに写っている顔写真が情報誌の写真と同じであることに気づき、それで大阪に出た時にはキリンプラザに立ち寄ることを決めた。
 1970年のパフォーマンスは大阪万博を風刺したものだ。万博のあの桜の花からデザインされたマークをそっくりそのまま直径15センチ大に腹と背中に日焼けで浮かび上がらせ、白の褌姿で銀座の歩行者天国を歩いたところ、わずか10分で騒乱罪で逮捕された。パフォーマンスの決行は8月2日で、当時日本全国にニュースとして伝えられ、榎の名前は一躍東京でも知られた。マークの日焼けは毎日30分ずつ4か月にわたって光を浴びて施したもので、2年間も消えなかったそうだ。ここに自分の体を使って表現をする榎の作品行為の原点がある。その後72年の「日本列島の告別式」という、日本列島を背負って棺桶に入りそのまま投げ捨てられるパフォーマンスや、73年の京都アンデパンダン展における「人間狩り機」では、美術館内に入った瞬間、ドアが閉まって巨大に檻に閉じ込められる作品を作ったりするなど、毎年のように刺激的な発表を続けた。また77年は「半刈り」の前に、自宅で個展を開いている。案内状の多くは新聞の夕刊の折り込みチラシとして配付され、そのため近所から学生や子どもまでが多く訪れた。ここには榎の作品のひとつの特徴である、老若男女を問わず楽しめる作品の思想がすでによく表われている。前衛となると社会から孤立したような作品を作っていると思われがちで、実際作家の方にも普通の人にわかってたまるかという思いがあるが、榎にはそういう妙な歪みはない。それは権威を嫌う態度からも当然であろう。鴨居とは違う芸術に進むとして、それが今度は前衛という牙城に閉じこもるのであれば、それもまた別の権威であるからだ。そのため榎の芸術を前衛と呼ぶことはふさわしくない。もっと独自の、榎だけのものだ。確かに70年代のパフォーマンスは思いつきとして当時の同じような好みを持つ作家ならやり得たに違いない。だが、榎がある意味で精神的に健康でいられたのは、毎日を勤め人として過ごしていたからではないだろうか。そこで一般の常識人としての目を失わなかった。これは大切なことだ。昼間働いて夜制作するのは、並みの根性では出来ない相談だが、それも習慣になるとそのリズムの中でそれなりに独自の作品が生まれる。
 榎の昼間の仕事が何であったかは知らないが、今は神戸の長田にある鉄工所に勤務し、旋盤工をやっていると思う。上映のビデオには旋盤で自分の作品を部品を加工している姿があった。会社では今は榎の仕事が理解され、工場内の一角に榎が使用出来そうな鉄の廃材が置かれて行く。それを吟味して榎は旋盤で加工し、出来上がった部品の無数とも言える量を組み立てて、銀色に光る未来都市にも見える作品を作り続けている。その完成はいつかわからないが、今回は5階のホールにただ1点その作品が展示された。未完成でも総重量は数トンはあるだろう。床が抜けないか心配であったが、数段の階段をあがって円柱のうえに円形にびっしりと敷き並べられたそれらの鉄の彫刻の集合体を見ていると、他の誰もやらない、やれない作品を実感する。それは榎のサラリーマンの仕事の延長として、その合間の時間を利用しながら少しずつ増殖して来た独特のオブジェであり、同じものを作るには途轍もない時間と経費がかかるし、またそんな徒労のようなことは誰もしないもので、そこにもダダイズムの精神が見られる。鉄工所に縁があることを利用した作品は、絵具とキャンヴァスという絵画、あるいは木材や大理石、ブロンズという彫刻を飛び越えたもので、その枠に収まり切らないところが圧倒的なエネルギーとなって作品に宿る。80年代後半からはそのような作品が中心になっている。これはパフォーマンス芸術から始まってきわめてどっしりと本格的なモノ作りに向かった点で最大限に評価してよい。一瞬に消えるパフォーマンスは写真やビデオでしか残らないが、「モノ」を作れば一応は同じ迫力がいつでも誰でもが体感出来る。だが、榎の作る「モノ」は大抵巨大であるので、ある時期が来れば解体される。たとえば81年に神戸港に人工島が出来た時、ポートアイランド博覧会が開催された。筆者は行ったにもかかわらずほとんど記憶はないが、そのテーマ館に榎は「スペースロブスターP-81」という作品を作った。昭和初期の鉄道車両や船、電化製品の廃材を自ら解体して部材を収集、制作したもので、長さ13、高さ8、幅4メートルの鉄の固まりだ。一番下は鉄道車両、そのうえに船、そしてそのうえに主に電化製品をつなぎ合わせたグロテスクなオブジェで、完成した後にそれを囲う形でテーマ館が建てられた。会期終了後に解体処分されたが、その費用もかなりのものであったという。この作品は地球上の廃棄物が宇宙のある星に廃棄され、やがてその星がその廃棄物で自在に空間を移動出来る乗り物を作って地球に戻って来るという考えのもとで作られた。そこには大量消費文化への風刺がある。同じことはダイオキンに題材を得た微生物をそのまま拡大したような黒い色の多くの彫刻作品にも見られるし、70年の「裸のハプニング」も同じだ。鉄を使った巨大な作品は尼崎制70周年記念モニュメントにも見られる。86年の「AMAMAMA」で、榎の唯一現存する作品だ。今でも尼崎市記念公園にあって子どもたちが遊べるものになっている。内部を子どもが滑るのに充分な太さのパイプを何本か組み合わせたもので、市は当初明るい色を塗ることを指示したそうだが、榎は頑固に反対し続け、黒のままになった。完成して間もなくホームレスや不良の溜まり場になったため一時閉鎖されたが、5年経って元どおりにされた。最後に書いておくと、女装して2日だけ画廊をバーにして改装して無料で飲み放題にした個展を79年に開催していて、これは今回会場内に再現された。そこでは特製のカクテルが飲めるようであった。榎さんがいるなら飲みたかったが。
by uuuzen | 2006-04-02 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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