「
胆据わる 人が拝むは 不動様 怒りに燃えつつ 静かに威嚇」、「信念を 貫き死ぬは 仕方なし 戦に参じ 幾多の惨事」、「貧富の差 あまりに開き 是正時 政治駄目なら 民衆蜂起」、「自由得て 貧富拡大 変わりなし 銃で蜂起は 今は鎮圧」
半年ほど前に今日取り上げる映画がNHKで放送された。その時は途中から録画したので見るのを諦めた。今月10日、放送される直前に家内が知り、録画出来た。3時間ほどの長さで、インターミッションで前後に分けられている。今回の放送はロシアがウクライナに侵攻したことがひとつの理由ではないか。さて、この映画の題名を筆者は小学生高学年か中学生で知った。近所の3,4歳年長の兄さんが、「こーちゃん、『だれがために鐘は鳴る』という映画知ってるか」と訊ねた時、筆者は「たがために」とは訂正しなかった。その兄さんから筆者が受けた流行の影響は大きいが、残念と言うか、兄さんは知性に若干問題があった。そういうことは小学生でもわかる。「だれがために」は「だれのために」とわかりやすく訳すべきだが、小説と映画の冒頭にジョン・ダンの詩が引用され、文語訳がふさわしい。それで「たがために」と翻訳された。その詩は誰のために鐘は鳴るのかと問い、最後は「汝のために」と締めくくり、映画では最後の場面にも鳴る鐘が大写しになる。この鐘で思い出すのはジョン・レノンの曲「マザー」で、冒頭に鳴る鐘は母への弔いの思いを表わす。そのことと同じで、本小説でヘミングウェイは誰もが死ぬが、その死すなわち生は尊いものだと言いたかったのだろう。ではなぜ彼は自殺したのか。そのことは後述するとして、少年の筆者はヘミングウェイの小説をもとにした同名映画の存在を知っていたが、見る機会がないままに高齢に至った。そしてこの文章を書くために昨日隣家から小説本を持って来た。1968年9月6日の購入で、筆者は17歳になって1週間ほどだ。当時日本文学や世界文学の全集を母が近くの本屋で毎月購入してくれていた。歯医者に通いながら志賀直哉や武者小路実篤の小説を読み、今も白樺派は気になる。全集は全部読んでいないが、有名な小説家とその代表作の題名程度は覚えた。また70歳を超えて読む気になっている小説は多々ある。その点、本は腐らないのでよい。先ほど『誰がために鐘は鳴る』の巻末の解説を読み、そこに掲載される映画のワン・シーンの写真を17歳で見たことを思い出したが、主演女優のイングリット・バーグマンに関心を持つほどではなかった。当時小説を読む気にならなかったのは、長編であるからだ。その後『老人と海』を読み、それでヘミングウェイはひとまずはいいかと思った。彼の文体は素早く読めるほどに単純と言われる。今なら原書は容易に手に入るので、それを読んでもいいかと思うが、手元にある翻訳でもあまり読む気がしない。それはともかく、筆者は何を焦っているのか、気が多過ぎる。
バーグマンはこの小説を読んで映画化の際はぜひとも自分がヒロインを演じたく思い、ヘミングウェイに手紙を出したそうだ。スウェーデン人の彼女でも読み通せる文体であることの想像がつく。またその平易な文章でヘミングウェイは人気作家になった気もする。バーグマンは1943年の映画公開時は28歳だ。ヘミングウェイは彼女以外に考えられないほどのはまり役と思ったそうだ。また主演男優のゲイリー・クーパーはヘミングウェイと親しく、小説の映画化としては理想的な形になったのだろう。つまり本を読むのが面倒な人は映画で済ませばよい。とはいえ、映画を見ても背景となっているスペイン内乱については理解が及ばないだろう。WIKIPEDIAを読めばなおさら疑問がいくつも湧くのではないか。その代表的なことは、アメリカ人のヘミングウェイがなぜスペインでの戦争に関心を持ち、そのことを主題に本作を含めていくつかの小説を書いたのかだ。バーグマンにも言えるが、この小説に夢中になる何かが当時の欧米の知識人にはあった。それで義勇軍に参加し、アンドレ・マルローはその代表格だ。ガエタン・ピコンの『マルロー論』ではマルローがアジアやスペインの戦争に参加したことでその思想の核心を読み取ろうとしている。つまりマルローのことを深く知るには、彼の小説を通じての戦争への参加の意思を汲み取る必要がある。同じことはヘミングウェイにも言える。たとえばウクライナに義勇兵として参加する知識人が現在は多いのか少ないのかだが、今回のロシアとウクライナの戦いに大義を見つけてそれに同調し、銃を取って戦う気になる日本人はまあいない。ヨーロッパでも同じと思うが、それはスペインの内乱と今回の戦争は事情が違うという理由によるかもしれない。話は変わる。画家のダリは6,70年代までは盛んに非難された。スペインの内乱に際してフランコ政権側つまりファシズムに賛同したからだ。ヘミングウェイが共和国側についたのは、フランコ政権側の教会や貴族という富裕層にではなく、市民に味方するためだ。これはフランスの7月革命に通じる。ドラクロワの有名な絵画に、銃を持った市民が自由を象徴する女神に率いられて幾多の屍を踏み越えて前進する様子を描くものがある。それはつまるところ、既得権益を保持する旧勢力に対する市民の革命だ。その精神がアメリカに受け継がれた。メキシコに住んで作曲したコンロン・ナンカロウもスペイン戦争に参加したが、筆者が大塩平八郎に関心があるのは、腐敗した権力者に反旗を翻す行動力を見てのことだ。ところがヘミングウェイもコンロン・ナンカロウもアメリカではなしにスペインでの戦争に加わった。このことを理解しようとしなければ、『誰が為に鐘は鳴る』もよくわからないだろう。そして市民が勝ったのであればいいが、フランコが勝利し、その政治は彼が死ぬまで続いた。
スペインのことはスペイン人に任せておけばよく、他国がでしゃばるなという考えは当時もあったはずだ。ウクライナのことも同様で、静観しておけばいいという意見はある。それどころか、侵攻側のロシアの肩を持つ者もいる。本作からもわかるように、戦争は非情なものだ。人は簡単に人を殺し、簡単に人は死ぬ。本作は共和国側をいちおうは善、フランコ軍を悪として描いているが、前者が味方を平気で殺す場面がある。バーグマンが演じるマリアは共和国側の市長の娘で、戦争が始まってファシスト軍に父は殺され、マリアは丸坊主にされて凌辱される。同じことはウクライナで起こっている。武器を持って戦うと精神に異常を来す者は必ず出て来る。スペインの市民戦争で言えば、結局フランコが勝利したのであるから、彼の側が善とされたかと言えば、前述のようにたとえばダリは非難された。それに有名な話としてピカソの「ゲルニカ」がある。これはフランコ軍がバスクのゲルニカを攻撃した際に市民が犠牲になったことに抗議して描いた大作だ。その伝で言えば、ウクライナの惨状を題材に芸術で抗議する向きは今すぐにでも出て来てよいが、たとえばバンクシーはどのような作品を用意しているのだろう。それはともかく、ゲルニカの街が空爆され、市民の犠牲が大勢出たことを、当時のフランコ側は共和国軍の自作自演ないしフェイクとは言わなかったのだろうか。ピカソにしても現地で見たのではなく、ニュースで知った。今は政治的に何か意見すると、フェイクと言って愚弄すれば論争に勝つと信じている連中がいる。SNSや画像加工の発達によって真実が歪曲されやすくなった。そういう時代では表現者はどういう方法で道義に基づいて作品を発表し、虐げられている人々の側に立てるか。話を戻す。フランコ軍が勝ったのであれば、ヘミングウェイの行為は無駄であったのか。また本作の主人公ロベルトがフランコ軍にひとり立ち向かって死ぬことも無駄か。走行する列車や橋梁を爆破するロベルトの任務がみな無意味であったとすれば、なぜヘミングウェイはこの小説を書いたのか。もちろん無意味ではないとの思いがあったからだ。ドラクロアの先の絵画には勇ましい女神としての若い女性が描かれる。それは新しい未来への象徴で、彼女や続く市民の戦士が死体を踏み越えて前進する様子に大きな意味がある。それは犠牲を踏まえて革命は成し遂げられるとの考えだ。マスとなって戦うのでなければ最初から勝利を捨てたことになる。ロベルトは生きるか死ぬかわからない窮地にあって任務を果たし、そして敵に足を撃たれて動けなくなる。戦争ではいつ死ぬかわからない危険をかい潜らねば勝てない。ゆえに軍の勝ち負けは自分とは直接関係しないところで決まり、また予想のつかない出来事に見舞われるが、戦う者はその不条理に対して死を賭けて全力で挑むしかない。
本作はロベルトが汽車を遠方から爆破させる場面から始まる。爆破後に味方のひとりが怪我をし、ロベルトは撃ってくれとせがまれて撃ち殺す。苦しみにもだえるよりひと思いに死ぬほうが楽であるのだろう。この冒頭の場面が本作全体を表わしている。戦争では人の死はいかにも軽い。たいした理由なしに、死神の目にたまたま留まる。そういう生きるか死ぬかの瀬戸際でロベルトは淡々と任務をこなそうとする。仲間は山をアジトにしているジプシーたちで、アンナは彼らに匿われている。そのことをロベルトは意外に思うが、話す間に事情が呑み込める。つまり戦争の犠牲者だ。マリアは列車で連行される途中、運よく共和国側のジプシー連中に助け出された。そのジプシーたちは文盲も混じり、また親分肌の中年女性ピラーもいるが、彼らは以前ファシストらを血祭に上げた経験があり、スペイン内部がふたつの勢力に別れて血で血を洗う戦いを繰り広げて来たことの回想場面がある。マリアの父は市長であったので本来はファシスト側と言ってよいが、当時のスペイン内部の知識階層でも思想はさまざまであった。マリアの父がフランコ側で、戦争にさほど影響されずに地位を保ったのであれば、マリアはほとんど心に傷を受けることなく、平穏に暮らした。ところが父の思想のために一家離散となり、自分も殺されかけた。そして共和国側に助けられ、ロベルトに出会って一気に彼に夢中になる。戦時下のことで、またピラーが言うようにロベルトは女であれば誰が見ても好きになる男だ。会ってすぐにマリアは知的かつ冷静なロベルトと生活をともにしたいと燃え上がる。ロベルトは戦争が終われば一緒にアメリカに戻って暮そうと約束するが、その望みは一気に断ち切られる。泣き喚くマリアを抱えたピラー一味はロベルトを残して馬で去るが、ロベルトがマリアとの別れ際に、一瞬は永遠で、また一心同体の自分たちのどちらかが生き残ればお互い生き残ったことであるとの言葉を発する。とはいえ、長年生きて来た筆者は、若いマリアが戦後は別の男を愛し、ロベルトのことをほぼ忘れて生きて行くことを想像する。そうでなければ哀れだ。いつまでも死んだロベルトを思い続けてはせっかくの人生がもったいない。そう思うと、本作の最後の場面は感涙ものではあるが、ロベルトはもっと冷徹にマリアを突き放したほうがよかった。だがマリアは死ぬのであればロベルトと一緒と思い込んでいる。3日の間にそのように燃え上がる恋情があるとの設定は、銃弾でいつ死ぬかわからない状態にあるからだろう。それにマリアは敵軍の兵士に陵辱され、自分を穢れていると思っている。ロベルトはそうではないと彼女を諭し、そしてピラーらとともに生き延びることを願った。それは足を撃たれて彼らの足手まといになると知ったからだ。映画の冒頭で仲間を殺したこととつけが回って来た形だ。
ヘミングウェイはロベルトに自分を重ねたであろう。ひとつの理想としたと見てよい。だがヘミングウェイは戦争で死なずに自殺した。彼がライフルで自殺したことが10代半ばの筆者にはえらくドラマティックに思え、また重苦しかった。それはゴッホに対しても言える。なぜ自殺するのか、それほど死にたい理由は何か。その澱となっている疑問に今度は三島由紀夫の自殺があった。筆者には自殺願望はなく、また知り合いの自殺もないので、自殺についてほとんど考えたことがない。富士正晴は兵士として北支に送られる時、絶対に生きて帰ることを誓い、そのとおりとなって70半ばまで生きたが、20代前半で自殺した久我葉子に対して「少し生き急ぎ過ぎた」と書いた。これは自殺を否定しないまでも、長生きせねばわからないこともあると思っていたのは確かと見てよい。誰でもいずれ死ぬから、せいぜい生きてあれこれ考えて楽しめばいいではないか。とはいえ、それはたとえば経済的にさして問題がなく、心身ともに健康であるゆえの思いであろう。ロベルトは死を意識して機関銃を敵にぶっ放した。その後の死は描かれないが、これはわかっていることであって、死の間際まで戦うことの大事さをヘミングウェイが思っていた。ではなぜ自殺したのか。あるいは抵抗しながら死んだロベルトの死も自殺とさして変わらなかったのか。というのは、義勇兵となってスペインにわたった時から彼は死ぬ可能性を自覚していたからだ。死の危険に自らを晒すことは自殺願望と言ってよい。となれば死に方は違うが、ヘミングウェイはやるべきことを遂げてロベルトのように死んだと見てもよい。これはいつでも死ねる覚悟があったという生き方だ。その覚悟があるので、本職にも全力投球が出来た。その点は三島由紀夫と同じで、自殺したことで作品にアウラが増した。それは見え透いた策略であまり褒められないという見方も出来るが、命を自ら断つことはそう誰にでも出来ることではない。ましてや栄光の名声があればなおさらではないか。その名声によって享受出来ることをなるべく長らく保ちたいと思うのは人情だろう。だが、そういういわば小物思想はヘミングウェイにはなかった。しかし自殺したことで彼を貶めて見る向きもあるかもしれない。そのことで思うのは前述した「人生は一瞬」という考えだ。筆者は本作の小説を10代半ばで入手し、映画を先日見たが、少年時代から現在まで一瞬であったような気がする。これは100歳まで生きても同じことだろう。つまり人間は成人すればいつ死んでもさして大差ないのではないか。ただし若死にはもったいない。そのことはマリアに言える。彼女がロベルトと別れてもう少し生きると、全然別の人生に恵まれるかもしれない。それは若さの特権で、もう若くないと自覚した時はいつ死んでも思い残すことはないと腹をくくるべきか。
死に関連してもう少し書く。チェーホフの短編小説「かけ」は死刑と終身刑のどちらが残酷かで意見を交わし、大金を賭けて争う物語だ。年配のサロンの主は独房に3,4年も入れば気が狂うほど退屈すると主張するのに対し、20代半ばの客の男性は15年でも入っていられると豪語する。主はそれが出来るなら200万ルーブルの金を与えると約束する。独房生活が15年目の約束期限終了日の数時間前に、客の男性は手紙を残して脱走し、そのことで主は約束金を支払わずに済むが、若者が15年の独房生活で達した思いの境地を読んで敗北の念を味わう。筆者はチェーホフの作品集を1975年5月に買い、これまでずっと気になりながら、ロシアのウクライナ侵攻によってようやく読み始めている。「かけ」もそうだが、チェーホフはロシア人は厭世的と書いていて、そのことはチェーホフの顔からもわかる気がする。そして彼が44歳で病死したことは本望ではなかったかと思う。他の小説でも登場人物は生きることにほとんど意味がないと思うからだ。実際大多数の人は劇的なことがないまま人生が過ぎ去り、いつ死んでもほとんど誰も困らず、すぐに忘れ去られる。人生というドラマの主人公を自認していても、ほかの誰も経験しないようなドラマはまず生じない。それに有名になったところで知れていて、チェーホフは中編小説「退屈な話」でそのことに触れる。ではヘミングウェイはどうであったか。スペイン好き、闘牛好きの彼がスペインの内乱にアメリカから馳せ参じ、共和国派のために募金運動をし、また前線のすぐ近くに行って戦いの状況を経験した。それはまたとないドラマの経験だ。ところが『老人と海』ではひとり舟に乗って大マグロを釣る話で、戦時下のスリルに比べると趣味に堕していると言える。開高健がヴェトナム戦争に記者として従軍したのは、先輩格の富士正晴の従軍経験と肩を並べるつもりもあったとして、多分にヘミングウェイを見習ったところを思わせる。また晩年の開高が釣りにのめり込んだのもヘミングウェイを意識してのことではないか。それはともかく、自殺で一気に人生を終えるか、富士のように、あるいは開高もそうだが、酒で命を縮めるかはあまり大差ない気がする。どちらも厭世的であるからだ。戦争に参加すればそういう思いに至るのは当然かもしれない。残酷なことをいちいち自覚していれば自分が殺される。それで精神を殺し、非情になって生き抜くしかない。富士も開高も、それにヘミングウェイも人を撃ち殺した経験はないが、ヘミングウェイは尊敬する祖父に倣って自由を勝ち取る戦争に加わり、また自殺したのは父の自殺に囚われ続けていたためと見てよいだろう。傍から見れば眩しいほどの有名人で、作品も広く認められたのに、なぜ自殺か。それを問うのはそれなりの幸福に恵まれた普通の人のすることだ。自殺者には個々の理由が複雑に絡まっている。
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