「
谷あれば 山もあれども 今はどこ 居場所わからず 空を見上げる」、「取り立てて 誇りはなきに ただ生きる 平和の中で 欲の向くまま」、「本物の 人生の意味 誰が知る 人のふり見つ ゆらゆら歩み」、「才能を 信じて賭ける 若き日々 万が一でも 夢見は楽し」
今日は1月20日にTVで放送された1959年のアメリカ映画「悲しみは空の彼方に」について書く。書きたいことはたくさんある。いつものよう以下は思いつくまま。まずこの映画の本題「IMITATION OF LIFE」(模倣の人生)の意味するところがよくわからない。そのためもあって「悲しみは空の彼方に」といういかにもメロドラマの邦題が付されたのだろう。あるいは本作は1934年の同名映画のリメイクなので、その差を伝えるためでもあったのかもしれない。原作はアメリカのユダヤ系の女性作家ファニー・ハーストが1910年代の物語として書いた1933年の同名小説だ。その概要をWIKIPEDIAで読むと、34年のオリジナル映画は小説に忠実のようで、本作つまり59年のダグラス・サーク監督によるリメイク版とはかなり違いがある。そのためにサークの考えがどこにあったかが推察出来る。差異の最大点は二組の母子を描きながら、小説では白人女性はケチャップやメイプル・シロップを行商する父を持ち、同じ仕事でやがて財を成すのに対し、本作は白人女性を舞台女優志望に設定を変え、また彼女がニューヨークを代表する女優になり、やがて国際的にも有名になるまでに登り詰める様子を描く。サークはドイツ人でヒトラー政権から逃れて妻とともにアメリカに移住し、そしてハリウッドで映画を撮った。本作を撮ってから本国に戻り、また本作が遺作となった。サークが渡米したのは妻がユダヤ系であったからで、サークはヒトラーが政権を獲得した年度に発表された小説『模倣の人生』を知っていたであろう。また翌年の映画も見たと思うが、そうであれば長年リメイクの思いを温めていたことになる。ファニーは同小説を書く以前に有能な黒人女性を援助して秘書に雇い、ふたりでアメリカの黒人の置かれている状況を歩いて調査した。彼女がウーマン・リブ思想の端緒かどうか知らないが、戦後にヨーコ・オノが渡米し、やがてジョン・レノンが「女は世界のニガーだ」という曲を発表することに寄与したことの半世紀前に、ファニーが女性や黒人の差別に関心を持ち、小説を書いたことは日本ではあまり知られないだろう。それはともかく、ファニーが黒人女性とともに行動したことは『模倣の人生』の筋立てに影響を与えている。この小説は二組の若い母子が登場し、一組は白人、もう一組は黒人だがその8歳の娘は白人に見える肌色をしている。白人親子は父の商売を受け継いで細々と行商していたが、やがて黒人親子を雇い、その母親のワッフル作りに着目し、それを手広く販売する事業に乗り出し、大成功する。
小説でも男で重要な人物はひとり登場する。彼は白人の母親より8歳下で、事業拡大に法律面から手を貸し、やがてふたりは愛し合う。その間に、つまり10年の間に6歳の娘は多感な16歳に成長し、同じ男に心を寄せ、母子との間で恋愛の三角関係が生じ、悲劇の結末となる。一方白人親子を陰で支える黒人親子の娘は肌の黒い母を嫌悪し、黒人差別から逃れるためにやがて男とボリビアに去り、母は孤独のうちに死ぬ。ところで先月中旬、ebayでこのオリジナル映画のDVDを見つけて発注した。その最大の理由は、本作では最後の葬式の場面でマヘリア・ジャクソンが歌う黒人霊歌の有無を確認したかったからだ。ところが届いたのは本作つまりNHKで見たサーク監督版であった。業者が間違ったのだが、何度かメールをやり取りすると相手はどうも頼りない。再注文で同じものが届くかもしれないと思ってまだ注文していない。その後に小説の概略を読み、オリジナル映画がそれにほぼ忠実であることも知った。つまりサークは二組の母子がどちらも不幸な結末になることを嫌い、希望の持てる内容に変えた。それがいいのかどうかは原作者のファニーに訊ねるべきだが、映画の評価はオリジナルと同様、あるいはそれ以上によく、ファニーは大枠のプロットはそのままにサークが時代と場所に応じて原作を書き換えたことに文句はないと想像する。また白黒のオリジナル版に対して本作はピンク色や水色を効果的に使い、色彩が圧倒的にきらびやかで、夢のような成功物語をハリウッド映画らしく表現している。ところで筆者に届いたDVDは古いフィルムをそのまま起こしたようで、全体に黒ずんでいる。それは時代の古さと好意的に思うことも出来るが、やはりデジタル化で色彩を公開当時の華麗なものにしたものが断然よい。ファスビンダーは晩年のサークに会いに行き、当然本作も見て影響を受けたが、アマゾンではサークのDVDはとても高価で、NHKでの本作の放送はありがたい。筆者は二度見てこれを書いているが、最初に見た時にとても意外であったのは、白人の母親ローラ・メレディスがコニー・アイランドの海水浴場で出会ったカメラマン志望でビール会社の宣伝部長スティーヴ・アーチャーから結婚を迫られるのに、女優になる夢に賭けるローラがそれを拒否することだ。スティーヴがローラを諦めさせようとしたのは、有力者に肉体を提供しなければ仕事がもらえないという現実にローラが突き当たったからだ。もちろんこれはサークが新たに加えた筋立てで、サークは華やかな映画界で女優が体を武器に有名になって行く様子をしばしば見聞したのだろう。同じことは日本でも言えるはずだ。演劇や映画だけではなく、音楽その他芸能界全般が男女の密かな関係がひとつの掟として存在する。男に有力なコネがなくても、その言葉に騙される若い女性は無数にいるはずで、サークはそういうことを本作で匂わせた。
ところでローラ役のラナ・ターナーは美人だが、どういうわけか筆者は彼女の顔を思い出せない。二度見終えたところ、やはりまた忘れている。個性がないことはないのだが、表面的な美しさと言えばいいか、印象にほとんど残らない。WIKIPEDIAによれば8回結婚し、また有名な映画人と何人も関係した噂があり、大物から声をかけられれば誰とでも寝たという感じだ。もともと女優として成功するにはそれくらいの根性も必要だろう。本作で彼女は藁をもつかむ思いでオーディションに向かい、性を求められてそれを拒否するが、やがて演劇のチョイ役がもらえる機会が訪れ、持ち前の積極さで脚本家に意見し、彼に大いに気に入られ、そこから喜劇女優として成功への道を駆け上って行く。その脚本家と当然肉体関係を持ち続けるが、結婚する気にまではならない。そうして10年が経ち、ローラは名声と役の幅を広げるために人種差別をテーマにしたシリアスな舞台に出演することにする。10年コンビであった脚本家はそれに反対し、結果はローラの勝ちで、さらに名声を高める。その舞台後の集まりに10年ぶりにスティーヴが若い真面目そうな彼女を連れてやって来る。そしてローラは改めて自分が10年の間、心から満たされなかった思いに気づく。名声と富を得たのに真に愛する男がいないという設定はいかにもメロドラマだが、ローラは人種差別をテーマにする演劇に出たいと思うほどにまだ魂を金と名声だけのためには売っていなかったということだ。これはあり得る。ラナ・ターナーはスキャンダラスなことで有名で、8回も結婚し、さらには多くの男と浮名を流したが、そういうところをサークは見抜きながら彼女にローラ役をやらせたのかもしれない。話は戻る。最初に本作を見た時、ローラがスティーヴの写真の腕を侮辱し、自分は女優の夢を諦めないと言って彼と別れることに驚いたが、それほどの気丈さがあるのでローラは成功をつかみ取ったが、そこには運の作用も大きかった。ローラが脚本家に意見する機会が得られなければ、また脚本家がローラのようにきっぱりと意見してくれる女優の卵に感心しなければ、ローラは売れない女優としてたまに宣伝写真のモデルを務めるだけで老いて行ったはずだ。そのような運命になった若い女性が無数にいることを知ったうえでのスティーヴの言葉であった。ところが本作では彼のような普通の優しい男ではとうてい太刀打ち出来ないローラを描く。このローラの逞しさは原作の小説の白人女性とはかなり違うのではないか。ワッフル販売と女優と比べること自体が無理だが、後者は有名かつ金持ちになるので商売人以上の成功率の低さだ。サークが本作の主人公を女優としたところに、映画界で成功を夢見る女性に関心を抱いた以上の応援をしたい考えがあったからと思える。女優がいなくては監督業もないからだ。持ちつ持たれつの関係がそこにはある。
本作の主役はローラだけではない。むしろローラを家事で支える黒人親子だ。映画後半は特にその雰囲気が強くなる。テーマは人種差別で、それは原作の小説の時代から50年代の終わりまで全く変わらなかった。サークはヒトラーの良質民族主義、ユダヤ排斥から逃れてアメリカに移住し、名前まで変えた。ところがアメリカでは別の人種差別があった。それを目の当たりにして映画で描いておきたかったのだろう。オリジナルの映画でもその人種問題が大きく話題となって賛否が渦巻いた。それはもちろん原作の小説にも言える。本作では冒頭の海水浴の場面で二組の親子とスティーヴが登場する。ローラの娘スージーが人混みの中、行方不明になり、ローラは必死に探す。そこに写真を撮っていたスティーヴが現われてスージーを探すことに一役買うが、スージーは黒人親子と日陰で一緒に遊んでいた。その母親アニー・ジョンソンは住む家がなく、アパートを転々としている。本作では1947年の話なので、そういう人は少なくなかった。お互いの娘が親しくなったことから、アニーはローラに頼み込んでブロンクスにある彼女のアパートで一夜を借りることに成功するが、人柄を知ったローラは給金は払えないまま、アニー親子と同居する。原作の小説では二組の母子の出会い以前が詳細に書かれるが、本作では出会い以降を描く。またサークは小説と違って黒人の母親のお陰で白人の母親の商売が成功する設定にせず、アニーはずっと家事をこなすだけの陰だ。ところがこれが実際はローラが考える以上に大きな役割で、アニーは教会に通い、牛乳配達人と親しくなるなどして人脈を作り、しかもスージーの相談相手にもなる。ところがアニーの大きな悩みとなるのが娘のサラジェーンだ。彼女はスージーより2歳年長で、ローラが名声を得て豪邸に暮らすようになった頃には性に目覚め、黒人の母を疎ましく思い、白人として生きて行こうとする。サラジェーン役を演じる女優スーザン・コーナーは本作のもうひとりの主役と言ってよく、その迫力ある演技は彼女しか出来ないものだ。スージーを演じるサンドラ・ディーはアメリカの典型的なかわいい女性で、ラナ・ターナーと本当の親子と言ってよい雰囲気があり、本作公開当時18歳であった。ちなみにラナは37歳、スティーヴ役のジョン・ギャビンは27歳で、原作の小説とほぼ同じ年齢差だ。つまりスージーがスティーヴと出会った当時から10年想い続けることは自然だ。父を早く亡くしたスージーは海水浴で出会った彼の優しさと逞しさに父の面影を見たのだろう。また女優業に邁進して夢をかなえた頃にふたたび現われたスティーヴをローラが懐かしく思い、自分の売れない頃を知っているという理由もあって信頼を置くことも自然で、かなり年下であればなおよいだろう。37歳の女性が10歳ほど年下の男を求めることは今ではさらに多い。
小説では母子と若い男との三角関係が悲劇を迎えるが、本作ではスージーは母がスティーヴと抱き合っている場面を目撃した後、遠方の大学に願書を出す。つまり想いをふっきり、大人になる。これは母の育て方というより、アニーの躾がよかったからだろう。スージーは真っすぐに育ったのだ。それに対してサラジェーンは深刻だ。彼女は父の血がより濃いと思っている。それに小説と違って肌の色は白人と変わらない。そこで白人の彼を見つけるが、噂で母が黒人と知られ、ひどい暴力を受ける。そして部屋でジャズのレコードをかけ、ひとり踊ってうさを晴らす生活を送り、母には図書館に勤務していると嘘をついて白人のいかがわしいバーで踊子になる。そこにアニーが出向き、娘は経営者に母が黒人と知られ、解雇される。懲りないサラジェーンは今度は行く先を伝えずに家出する。スティーヴの尽力で居場所がわかり、彼女はロサンゼルスのモテルに泊まりながら、ムーラン・ルージュという豪華なステージつきのキャバレーで踊っている。疲弊しているアニーはやはり彼女に会いに行く。サラジェーンが舞台の一員として踊る場面は見物で、踊子のカラフルな衣装も本作の色彩効果を代表している。人に悟られずに娘の部屋に入ったアニーは気弱に娘に対応し、別れを告げる。この場面と続くアニーの葬儀の場面は本作で最も印象深く、また涙を誘う。アニーは家事でローラを支え続け、こつこつ貯めたお金で計画を練っていた。娘の結婚式の費用を残すことと自分の盛大な葬儀を執り行うことで、それを死の床でローラに告げる。教会でマヘリア・ジャクソンが歌い終わり、馬車に載せられた棺が楽隊の引率で大通りをゆっくりと行進する寒い中、サラジェーンは人混みの中から叫びながら走り出て馬車に突進し、遮られることを無視して馬車の後方の扉を開け、棺にすがって泣く。この結末は小説とは全く違って希望を持たせる。それは黒人に見えないサラジェーンが衆人の前で自分の出自を明かすことだ。その彼女をローラやスージーが抱いて支える。ヒトラーの時代から四半世紀後、サークは少しはアメリカの人種差別にも光を見ていたのだろう。それはさておき、相変らず筆者はファニー・ハーストがなぜ「人生の模倣」と題したのかを考える。「IMITATION OF LIFE」を「IMITATION OF LOVE」にすればどうか。これなら「贋物の愛」でイメージしやすい。「LIFE」と「LOVE」は同じではないが同じようなものと捉えることは出来る。となれば「紛い物の人生」とは「真理から遠い人生」で、これは本作で言えばサラジェーンのことか。彼女は混血で白人と黒人を併せ持っている。そして顔つきや肌色は白人に近く、彼女の白人の自覚は否定されるべきではない。だが問題は彼女が母や黒人を否定することだ。白人になり切って暮しても、親が黒人とわかれば差別される。「模倣の人生」の悲しさだ。
アニーは年頃の娘に向かって、男性との出会いのために教会に行けと助言する。娘はそこでは皿洗い程度の黒人しかおらず、行っても無意味と言う。黒人は差別され、下働きしか仕事がないことに絶望を感じているのだ。また彼女は勉強を頑張る気もない。ローラの成功のお陰でアニーは娘を大学に行かせることが出来たが、娘はダンスが好きで、人前で半裸になって踊る。そういう人生が紛い物とサークは言いたかったのではない。アニーは黒人の矜持を持って生きればいいと娘に言って来たはずだが、白人の血が混じって白人に見えるところにサラジェーンの悩みがあった。では彼女の黒人を否定する生き方が「模倣」か。白人を模倣して生きようとした彼女だが、半分は白人だ。ここにファニー・ハーストが提示した人種差別問題の根深さとややこしさがある。今なお黒人の血が少しでも混じっていれば黒人とみなすと思うが、一方で「PASS」という制度があって、サラジェーンのように、言われなければ黒人の血が混じっていると思えない場合は「見逃し」、あるいは「許容」と言えばいいか、白人とすることもあった。これは黒人と白人がたとえば公共トイレでも別々であった昔のことだ。話を戻して、サラジェーンの生き方が「模倣の人生」であれば、ファニーは小説で何を訴えたかったのだろう。つまり「本物の人生」とは何かだ。本作では冒頭のタイトル・ロールでダイアモンドが次々に降り注いで積もって行く様子が映し出され、それが画面いっぱいになった時に本編が始まる。ダイアモンドはおそらくイミテーションだろう。ごくわずかだが、微細な欠片が飛び散っているのが見えるからだ。透明で輝かしく見えるものが、ダイアモンドかガラスかわからない。本作で描かれる二組の母子やスティーヴがガラスに過ぎないのか、それともダイアかとなれば、みな精いっぱい生きていて、筆者にはダイアに見える。ガラスはすぐに割れる。それは精神に芯がないことで、言葉で生きている者であれば二枚舌を平気で使う連中だ。彼らは顔を売り、名声によって平均的な人の何百倍も収入があるだろう。ところが欠けたり割れたりするガラスに過ぎない。ダグラス・サークは「模倣の人生」をどう捉えていたか。穿って考えるに、俳優は脚本の人物を模倣することが仕事だ。ラナ・ターナーはローラを演じ、ローラではない。実際のラナは多情でひとりの男に満足しなかった。俳優とはそういう人種と思う向きは昔から強く、その意味でラナは文字どおりまともに生きた。それは他人の人生を模倣する俳優ではあるが本物の人生であったという意味だ。「模倣」を「直き心」の反対と見れば、やはりサークは本作でサラジェーンも含めて直き心の人たちを描いた。それゆえ本作は原作と違って後味のよい物語になっている。ただし富と名声を得たローラはスージーを孤独にした。愛情たっぷりのアニーも娘に苦労をかけ、子育ての難しさを描く。
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