「
典拠には なりがたきこと 書き連ね 資料になりぬ 求めもせずに」、「古きこと 何が確かか わからねど 吾ここにいて しかとこれ書き」、「何事も 詰まるところは つまらねど 楊枝つまんで 用足し楽し」、「大楠に 代わって増える タワマンに 人は集いで 鳥の気分に」
昨日投稿した写真から話をつなぐ。WIKIPEDIAによれば、萱島神社は江戸後期に新たに開拓された土地に豊受大神と菅原道真を勧進合祀して祖神とし始めたとのことだが、樹齢700年とされる樟があったので、それを神の依代として崇め続けていたのだろう。そこで思い出すのが少し京都寄りの樟葉駅だ。同地は地名では楠葉を充て、「くすのき」は樟でも楠でもよい。前者の使用は小学生のなる前の頃から母から聞き知っていた「樟脳」に馴染みがある。防虫剤に使われる一方、樟脳の結晶の破片を小さなセルロイド製の舟の玩具の後方に取りつけ、それを水を張った洗面器に浮かべると勢いよく前進した様子を鮮明に思い出す。香具師のおじさんが市場の片隅で子ども相手に舟と樟脳のセットを売っていたのだ。母は樟脳が樟という大木を原料にし、臭いがきついので服の虫除けになるとも教えてくれた。後者の「楠」を最初に意識したのは楠木正成だ。中学の修学旅行では皇居でその勇ましい騎馬像に感心し、写真を撮ったが、楠木正成を楠公(なんこう)と呼んで、樟(しょう)とは違うことに納得が行かなかった記憶がある。それはさておき、萱島神社の赤い幟旗には「大楠大明神」と染め抜かれ、これは楠公とは関係がなく、楠の巨木を祀るからだ。幟旗の上部には「家内安全」とあり、なるほどと思う。誰しも樹齢700年にあやかりたいだろう。実際は今生きている人は人類の出現以来の血を受け継ぎ、その最先端の歴史に位置しているが、誰の家系図もあまりに混み入り、遺伝子を調べたところで祖先がどこでどのように暮らしていたかわからない。ひとまず国が形を成した頃まで遡ることが出来ればと思うが、天皇家でも曖昧な部分があって、たいていの人は数代前がもう曖昧としている。そのことを知りつつ、ともかく家族が健康で長生きし、子孫に恵まれたいと思い、そのことを樹齢の長い大木に重ねる。巨木が格好の信仰の対象になることは世界共通で、画家のフリードリヒはそういう神がかった巨木をしばしば描いた。山の多い日本は樹木に恵まれ、神社や寺院の建築に使用して来たが、枯渇して来ているようで、沖縄の首里城の再復元に台湾から材木が持って来る目途が立っているのだろうか。樹齢数百年の古木を使っても燃えるのは一瞬だ。ならば鉄筋コンクリートでという発想になるかと言えば、日本ではまだそこまでドライな感情が一般的ではない。それで首が痛くなるほどに見上げなければ視界に入り切らない巨木を前に敬虔な気持ちになり、それを伐り倒せば祟りがあるのではと慄く。ところが人が多く住み始めると大木は邪魔になる。
楠葉の地に楠の巨木があるだろうか。大きな神社にはあると想像するが、樹齢700年を誇るのでなければ楠葉の地名が泣く。それはともかく淀川左岸の新田として開発される以前の土地は楠の巨木が点在していたのだろう。そう思わせることが先月28日、人と会う用事を済まして門真守口線と呼ばれる道を西に向かって京阪の大和田駅に着き、その構内を北に抜けてとある神社を目指した時にあった。出かける前日に地図を1枚印刷し、訪れるべき場所を鉛筆でつないで最短距離を記した。方向音痴の筆者はそうしてもよく道を間違えるが、その日はほとんど思惑どおりに歩くことが出来た。と言いたいところだが、大和田駅北東に神社があるとばかり思って歩いたのに、それを見つけられなかった。神社はたいてい大きな木が社殿の背後にあり、遠目にそれはわかる。街中でそうした鬱蒼とした樹木を見つけると、その下に神社があると思って間違いがない。その日も目指す方向に巨木が見えた。ところが近づくと今日の写真のような説明板が2か所にあるのみで、神社がない。それは後で探すとして、まずは巨木と考え、説明板を見て驚いた。昔から知っていた「茨田堤」とあったからだ。さして気にしていなかった同堤が突如眼前に現われた。地図を印刷した時にはその存在に気づかなかった。それに「茨田堤」は街中ではなく、もっと淀川際にあった気がする。説明には「伝」がついているので、田畑を開墾するために、渡来人が日本で初めて築造した堤である確証は得られていないようだが、発掘で古墳時代の須恵器が出土している。となれば堤防が築造され、その場所が大和田駅の北100メートルほどのところに東西に続いていたことは確実視してよい。茨田を「まんだ」と読むのを知ったのはいつのことか忘れたが、淀川右岸の茨木市ではなく、南方の左岸で、筆者には馴染みのない京阪沿線沿いの地域であることを覚えていた。「茨」は「薔薇」に通じ、棘のある雑草を意味する。茨木も茨田も現在のように民家が建て込む以前は田畑で、またそれ以前は棘のある雑草だらけの土地であったのだろう。「茨田」によって「茨」を「まん」とも読むことを知ったが、ネットには「まった」とも読むことが載る。淀川の氾濫を防ぎ、農地耕作のための水をいかに確保するかは人口増加にとって死活問題であった。その治水の土木工事の技術は渡来人によってもたらされ、京都から大坂に適用された。筆者が子どもの頃の京阪電車からの眺めは見渡す限りの緑の田畑であった。萱島や大和田が現在のように住宅密集地になったのは高度成長期からだろう。それまでは田畑が広がり、遠くまで見通せた。そのことは京都市内でも言える。昭和30年代までの右京区は現在の三菱の工場からは南数キロの京都駅やそこを走る汽車が見えたそうだ。京都よりはるかに田舎の萱島や大和田、すなわち茨田地域は推して知るべしだ。
茨田堤は後の淀川改修によって不要になって行った。淀川は明治にヨーロッパから技術者を呼んで大改修をしたが、もっと下流の大阪市内のことだ。現在の茨田地域は河川敷が広く、淀川が氾濫した話を聞かない。現代の土木技術と治水管理の成果だ。ただしそれは最初の治水工事を改良し続けて来た歴史の積み重ねの結果だ。日本最古の茨田堤が大和田駅北100メートルほどのところにあったとすれば、かつての淀川は現在よりももっと南を蛇行していたと考えられる。それを北に移動させたのは、右岸の高槻や茨木の各村との話し合いがあったであろうし、江戸時代では三十石舟などの船舶による輸送との兼ね合いもあったはずだが、現在茨田堤は街中にあって、そこから淀川は全く見えない。これはたとえば鴨川がかつては四条河原町付近まで広がっていたのを、新たに護岸工事で川幅を狭め、川底を深くして増水期に氾濫しないように改修したからだ。つまり現在の四条河原町にある阪急の駅と同じことが大和田駅にも言え、四条河原町のどこかを掘ればかつての堤の跡が出て来る。それはさておき、筆者が驚いたのは背の高い楠に遭遇したことだ。萱島神社に同じような巨木があれば大和田駅近くにあって不思議ではない。またそのことを寝屋川市や門真市は大いに自慢してよい。ただし「伝茨田堤」は本来はもっと長いのに、現在は数十メートルしか残っていない。宅地開発で削られて行ったからで、すぐそばの神社の宮司が保存に奔走したことでわずかに痕跡が残された。このことは、神社がなければきれいさっぱりと楠は根元から伐られていたことを意味する。人間が便利に暮らすことが第一で、鬱蒼と生い茂る楠の巨木など不要という意見もあるだろう。実際今日の写真の楠のすぐそばにはいくつかの地面すれすれの高さとなった楠の切り株があった。そのことから推して、大昔は淀川の堤沿いに楠の林があったのだろう。樟葉駅の淀川に近い箇所も同じであったのではないか。楠はいろいろと有益で、日本中どこにでも植えられていたと想像する。その名残が茨田地域に残っている。西国街道は淀川の右岸にあって、萱島や大和田の寝屋川市、門真市、守口市には西国街道に匹敵する古い街道はなかったのだろうか。大阪市内から京都に車で向うには国道1号線をよく走った。その原型の道が江戸時代の西国街道に匹敵する大路であったのだろうか。淀川を運搬に利用しなくなってから、人は阪急と京阪、物は国道で運ぶようになったが、物流の多さで言えば淀川左岸のほうが右岸を圧倒するだろう。筆者は桂川沿いに住むので左岸は昔のような馴染みはなくなった。今回萱島と大和田の町をほんのわずかに歩き、大阪らしい下町の親しみやすさを覚えた。とはいえ今から引っ越して住む気はない。歴史や文化の深さで言えばやはり京都市が周辺地域を圧倒しているからだ。「くすのきの 香りを嗅いで くすと笑む 薬になるか しょうむないか」
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