「
惑いにも 法則ありて 光る星 恒星眩し 公正守り」、「怨念を 鎮めて願う 泰平は 正義にずるさ 混じること知り」、「運なきと 諦めた後 また思う 負けてたまるか 今度こそはと」、「一巻の 終わりの後の 第二巻 有名人は 稀に書かれし」

萱島の地名は川中に島があり、一帯が萱で覆われていたことに由来するだろう。萱葺きの家はもうほとんど見られなくなったが、周辺のどこにでもあった萱を家屋を建てる際の材料とすることはヤドカリと同じでごく自然なことだ。産業革命後はそういう暮らしが不可能ないし不要となり、今では日々の食品でも大型の工場で作られるものを誰もが買わざるを得ない。その食品はプラスティックの袋に入っているか、発泡スチロールのトレイに収まり、ラップされていて、昔にはなかったよけいなゴミが増えた。筆者が子どもの頃は魚でも野菜でも新聞紙にくるまれて手わたされたが、それを今や不潔と思うだろう。不潔を排除して寄生虫が人の体からほぼ絶命し、そしてアトピーで悩む人が急増した。とはいえ誰しも不潔は嫌で、糞に混じって寄生虫が出て来ると悲鳴を上げるだろう。みんなが同じ工場製品の食糧を食べ続けると同じ思想になり、同じような顔になるのは無理もなく、人間も工場製品に近づき、ロボットのようになる。カレル・チャペックはそのことを予想していたであろう。ロボットのような人間は一方でぐうたらでもあるから、奴隷を必要とする。その役割を掃除ロボットのルンバから始めてやがて何でもロボットにやらせることになるはずだが、そうなるにしたがって人間はあまった時間を何に費やすかと言えば、しょせんろくでもないことに決まっていて、やがて万にひとつは暇つぶしに大量殺人でもやってやろうかと考える国家元首も出て来る。そのことは最晩年のマーク・トウェインが想像したことだ。謎の少年が人類絶滅の粘土細工遊びを何度もやり直す。ロシアがウクライナに侵攻し、それを迎え撃つウクライナ軍の映像がドローンで撮影され、TVで報じられた。ロシアの戦車が爆撃され、戦車の中から蟻よりも小さく見える3,4人の兵士が飛び出て来て、そのうちのひとりは道路下の畑に全速力で走り込むまでに道路の真ん中で前のめりに倒れた。筆者はその兵士のことを思った。生きるか死ぬかの瀬戸際にいて、文字通り必死だ。彼は自分がなぜそんな目に遭っているのかと、自分の姿を外部から見つめている様子を倒れ込む間、起き上がる間に想像したのではないか。どういう運命で自分がその立場にあるのかわからないが、それを言えば人間はみなそうだ。誰しもいつ死んでも不思議ではなく、また死んだところで世界は変わらない。そのように軽い生であることを自覚して何をなすべきか。もちろん誰しも好きなように生きたいが、経済の奴隷ではなくして生きることは難しい。金持ちでもさらに金をほしがり、また金持ちでも国家の命運で国土から出なければならないことがある。

萱島神社は萱島駅が高架になった時に新たに建てられた。神木の樟は樹齢700年とされ、ありがたみがあるのは社殿よりも神木だ。となれば社殿がなくても立派な大木だけでもよいことになるが、それでは悪戯をする者がいるだろう。神社の神木にしてしまえば大事にされる。新しい社ではあっても一旦神社とされると、そこにアウラが生まれる。つまり新しくてもそこは聖なる空間になる。その考えを誰もが受け入れていることが伝統の力で、国家の文化とも言える。宗旨の違いでそう思わない人も多いかもしれないが、キリスト教徒であっても長年日本に住めば神社を嫌悪して壊してやろうとは思わないだろう。日本の人口が減少しつつあり、国力が衰えて行くと目されるために、ネットでは海外移住する金持ちがいることをしばしば伝える。彼らは伝統や文化にほとんど関心がないのだろう。召使を抱えて毎日快適に遊んで暮せればそれでよしで、自慢やアイデンティティは金持ちということのみだ。世界中の人々が世界的に有名な企業の製品を享受する時代で、国固有の文化よりもいかに金を持っているかで他者から判断されると思っている。金が世界をひとつにし、国境をなくしたという考えだ。ところが生まれ育った国を離れて他国に住んだとして、日々珍しさで楽しい一方、他者からの見られ方、扱われ方からは逃れられない。それで気づけば差別に遭い、時には危害を及ぼされる。日本に神社があることは素晴らしいと言うつもりはない。ただし気づけばそこにあり、誰もその最初を知らないという文物が豊富にあることは空気のようなありがたさではないか。それでたとえば萱島駅の樟は保存されている。祟りがあるかもしれないので伐らないという消極的な考えからではない。これほど長い樹齢の木はきわめて珍しく、その命を絶やすことは忍びないとの思いからだ。言い換えればその存在は邪魔であり、不便このうえないが、他のものからは得られない何かがあるということだ。神社そのものがそういう存在の代表と言ってよい。それらは仮に爆撃で消え失せても、同じ場所に同じように再建されるだろう。元来形のないものを祀っているからで、その形のないものに価値を認めることが宗教の本質だ。萱島神社は菅原道真を祀る。それで狛犬の奧に左右に背丈の低い梅の木が二本あった。紅白だろう。牛の座像もあるそうだが、筆者は気づかなかった。地図を確認すると萱島では最大の神社のようだ。気づきながら訪れることの出来なかったのは産土神社で、そっちのほうが境内は広くて参道も長いが、「神社の造形」に関心がある身とすれば特別に変わった形をしている萱島神社が興味深い。駅のプラットフォームから突き出ているその大木の根元に神社があり、その形を45年ぶりに知ることになった。しかもたまたま近くに用事が出来たためで、長年気になっていることがいつどのような形で解消するかわからない。

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