「
灌木も 神の木なりや 誇りあり 身丈さまざま それぞれ健気」、「老いてなお 大事にしたき 古きもの 無視は絶えずに 風雪に耐え」、「神木の 祟り恐れて 伐らぬとは 敬いなきの 貧しき思い」、「徒に 伸びる枝にも 理由あり されど手を入れ 整い求め」

今日と明日は先月28日に出かけた京阪の萱島駅下の神社について書く。その日、たまたま用事が出来た。作ったと言ってもいい。たまには見知らぬ町を歩くのもいいと思ったからでもある。グーグル・マップを調べると、用事の目的地が駅からさほど遠くないことがわかり、それならば出向こうと考えた。また相手も気安く筆者の思いを受け入れてくれた。萱島駅で下車し、用事を済ました後、帰りはひとつ大阪寄りの大和田駅から電車に乗ることにした。歩く距離はざっと4キロほどで、たいしたことはない。そのルート付近に神社が3つあることを知り、それらを順に訪れた後、最後は大和田駅北の大型スーパーで買い物をして帰ることにした。結果を言えば神社のひとつは背の高い神木の存在に気づきながら、鳥居がどこにあるかわからず、真剣に探さなかった。帰宅後に地図を見ると、鳥居のすぐそばまで行きながら玉垣に気づかなかったことを知った。残念。おそらく二度とその地を訪れないだろう。目的地ではあいにく代理人しかいなかったが、親切なもてなしを受け、初対面の若い男性と2時間半ほども話し込んだ。中国人で日本語が完璧ではなかったが、共通の話題で盛り上がった。その話について書くと専門的になり過ぎることもあってブログには書かない。ともかく、初対面でも筆者は2,3時間でも話が出来る。お互い相手を値踏みしながら、お互い珍しい情報を得られる。それはネット上で顔の見えない間柄とは雲泥の差がある。人間は実際に会うべきだ。会えば人柄はわかる。あるいはわかるように少しずつ訓練されて行く。昔筆者は優れた営業マンになれるとある人から言われたことがあるが、若い頃は人と話すことは全く苦手なほうであった。それがいつの間にか世間話でも平気で出来るようになった。平気過ぎてまずいと自省することが多いほどで、世間で言う口の軽さは決して褒められたことではないが、言わないでいいことは言わない。その常識のない人がだいたい嫌われる。それは簡単に言えば辛辣が覗くからだ。辛辣や皮肉を面と向かって言われて面白い人はいない。逆におべんちゃらもすぐに悟られる。初対面で何となくウマが合わないと感じる場合はあっても、相手のことをいろいろ聞き出すと理解につながる。とはいえそれなりに理解してもやはりウマが合わないことはある。それが一期一会になっても、いい経験と思うのがよい。筆者は営業マンにはなりたくないし、なれないだろう。何かを売るためにたとえば関心のないスポーツやギャンブルの話題になれば話は続きにくいからだ。それで前述の中国人とは話題が最初から一致していることがわかったので出かけた。

ここから本題。18日は帰りの電車で気づいたことがある。まず淀駅だ。淀城から徒歩10分のところに母の姉が住んでいたので、昔から淀駅周辺には馴染みがある。同駅が少し京都寄りの競馬場近くに移設することに決まったことも記憶していて、そのことはこのブログに書いた気がする。伯母が亡くなってから伯母の家は売り払われたので、淀駅に行く用事はなくなり、京阪の新しい淀駅がどうなったかについても知らなかった。大阪に出るには阪急ばかり利用し、息子は淀からもっと手前の伏見桃山駅付近に暮らしていたからだ。また数年前に樟葉在住の知り合いが亡くなって葬儀に出席した時も淀の新駅を見る機会はなかった。それで18日は香里園か寝屋川まで特急に乗るつもりであったのに、京阪は阪急と違って電車の種類が多く、久しぶりに乗ることもあってどの電車が目的地に早く着くかわからない。準急に乗ったと思うが、これは各駅停車とほぼ同じで、四条駅から萱島駅に着くのに1時間近く要した。またそれもあって淀駅にしばし停車した時、その高架駅の様子と眺望がわかった。淀駅の石垣よりも高いところに駅舎があった気がするが、それほど高い高架駅にする必要があったのだろうか。筆者は長い階段を利用する高架駅を好まない。ましてや淀の田舎ではホームに冷たい風邪が吹きすさぶ気がする。実際そうだろう。以前の淀駅の記憶が強いのでなおさらそう思う。競馬場優先で移設された同駅であって、淀城の城郭が復元でもされると元の場所にあったほうが観光客には便利だ。また旧駅周辺にはそれなりの店が張りついていたが、新駅では商店街が仮に新たに出来るとしても、それが落ち着いた風情を醸すには長い年月を要する。もっとも競馬場内に競馬ファン相手の飲食店がたくさん出来ているそうで、商店街は不要か。淀駅の次に気になったのは、寝屋川市駅を過ぎて香里園に向かうまでの間、京都方面に向かって左手にずっと用地買収された空き地が目立ったことだ。それと同じ状態は阪急の淡路駅の高架工事が始まる前にもあった。踏切をなくすための高架工事が阪急でも京阪でも少しずつ進められて来ている。京阪の寝屋川市駅が立派な駅舎に改装されたのは70年代半ばと記憶するが、同駅のひとつ大阪寄りの萱島駅の高架化は、今調べると73年に工事の認可が下り、77年に大阪行きプラットフォームの高架化が完成している。京都方面行きの完成は翌年だ。高架化されて以降何度も京阪を利用しているが、萱島駅は普通電車しか停車せず、プラットフォームに降り立ったことはない。今日の最初の写真は用事をすべて済ませて京都に帰る際、大和田駅から乗車して萱島駅で区間特急か何か、より早く四条駅に着く電車を待っている間に、向い側の大阪行きのホームに目立つ楠を中心に撮った。これがホームを突き抜けて聳えていることを昔から知っている。ただしその真下に神社があることは知らなかった。

18日に萱島駅と大和田駅の間辺りに用事が出来た時、まず萱島神社に行くことにした。わざわざ訪れるというほどの思いではない。改札を出ればすぐのところにあるからだ。この神社は京阪電鉄が造ったそうだ。萱島駅を高架にする際、樹齢700年の楠が邪魔になった。それを伐採する案が出たところ、住民から保存の声が上がった。同駅は以前から細い流れの寝屋川の上にあったというが、筆者は数歳の頃から母に連れられて京橋と淀の間を何度も電車に乗っているのに各駅停車を利用しなかったので、萱島駅のすぐ際にあった楠は記憶にない。樹齢700年と言えばそうとう大きく、遠目にも目立っていたはずで、プラットフォームからも丸見えであったに違いない。高架駅にする際、大木は大いに邪魔になり、京阪電鉄が所有する土地にそれがあれば、当時ならば経済優先でさっさと伐られることはほとんど当然であっただろう。その楠が長年伐られなかったのは神社の神木であったからだろう。高架化以前の萱島神社がどのようであったかはわからないが、萱島辺りはほとんど全面が畑であったはずで、神社があったとしても小さな祠程度であったと想像する。ともかく立派な楠を残したいという声が地元から上がり、京阪はそれを飲んで高架駅の設計を変更し、楠がプラットフォームを突き抜ける形にした。駅の高架化から半世紀経った現在も楠は青い葉をつけて生きている。昔から野鳥の鳴き声がスピーカーから流されていたと記憶するが、今でもそうかどうかを18日は確認しなかった。樹齢700年と高架化45年とでは貫禄が違い過ぎる。何事も便利にするのはいいが、古いものを残すこともよい。前述のように香里園付近では未高架の箇所の用地買収が進んでいる。それが可能ならば、萱島駅は楠を取り囲む形ではなく、駅舎を10か20メートルほどずらせて新たに建てることが出来なかったのか。そうなれば萱島駅前に楠が保存され、それは同駅の名物になった。今でも名物には変わりないとしても、鉄骨で上部が囲われ、また根本も薄暗い洞穴状態同然というのは、楠をいじめているように見える。この楠あっての萱島神社で、伐採されていれば神社もなかったのだろう。楠のある神社は珍しくないとしても樹齢700年はめったにないだろう。大阪府下の人口密集地域ではなおさらだ。とはいえ楠を取り囲んで新駅に改造したところに人口密集の世知辛さを体現している。古いものが残されるとしても肩身が狭い。次に萱島駅が建て替えられるのはいつか。鉄筋コンクリートの寿命は60年とされる。もう15年ほど経てば建て替えの声が出て来るかもしれない。そうなった時、駅周辺の店や民家を京阪が買い取り、楠を囲わない状態に戻す意見が出るだろうか。それどころか逆に今度こそは邪魔者扱いされて伐られるか。神木を伐ることの祟りを信じない人が大勢を占めればそうなる。
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