「
褥干す 夫人裏切る 春の雨 しばし濡れても 乾きは早し」、「剪定を さぼりて軽し 枯木束 箸ほど細き 枝ばかり伐り」、「裏庭の 春色透ける 窓ガラス パステル調の 抽象絵画」、「春が来て 夏秋冬と 見通せば 何とはなしに 味気なくなり」、「人生を 四季にたとえて 今は秋 次は冬でも 春想いたし」
今日の写真は先月18日に撮った。近くの公園に区役所の職員が回収に来るその日、自転車の荷台に積む直前だ。
前回の回収は12月のかかりで、3か月に一度のようだが、引き取り場所は同じではない。今回はわが家から最も近い公園であった。枯木の束はひとつと3分の1ほどの少なさで、大半は椿の枝だ。葉と蕾を全部落とし、どちらもゴミとして捨てた。庭が広ければ土に埋めたいが、腐植土にしたいのであればコンポストが必要だ。またそれにはその設置場所を確保する必要がある。枝もゴミ袋に入れて毎週の回収日に出せばよいことを承知しながら、筆者はなるべくていねいに束ねて特別回収日に指定場所に持参する。小型トラックで運ばれた先は家庭ゴミと同じ焼却場のはずだが、家庭ゴミと枯木を一緒にしてゴミ出しすることに抵抗がある。木の尊厳のためと言えば大げさだが、幾分かはその思いがある。話は変わる。今年は裏庭でみかんの輪切りをメジロにたくさん与えた。みかんが枯渇した頃、筆者が知らない間に家内はサツマイモの端っこの少し青かびが生じていた部分を3,4センチほど切り落とし、みかんのそばに捨てた。早速メジロが食べ始め、数日で皮だけになった。かなり硬いのに嘴で少しずつ崩したのだ。その無数の嘴の跡がいじらしく、憐れさを覚える。もちろん人間も毎日食べねばならない。母親に何日も放置されて冷蔵庫を漁りながら餓死する幼児がいる現実はもっと悲惨で、メジロや雀、あるいは犬猫に餌を与えられることは平和で満ち足りているゆえの余裕で、呑気で優雅なことだ。戦争になればメジロ以下の境遇になる場合がある。そんな心配をしたことはないが、ロシアがウクライナに攻め込んだことから俄かに日本も核武装すべきとの声がネットには増え、日本の政治も大転換しそうな気配がある。メジロの親分が他のメジロに向かって隣りの地域のメジロを追い払えと命令するだろうか。野獣ならあるだろう。人間界は弱肉強食のジャングルだ。そのことをどのようにして学校は児童に教えるか。殺さない限りはいいとすれば、いじめはいいのかという話になる。いじめで自殺する者がいればそれは自殺者が悪いのであって、誰も殺していないと屁理屈を言う児童もいるだろう。大人には分別があってしかるべきなのに、大量殺戮を何とも思わない者が時々出て来る。壊す人がいて後片付けをする人がいて、新たに建てる人がいる。それが正常としても、壊す過程で多くの死者が出るのでは悲しみと恨みが子孫に継がれる。ともかく、爆弾で人間を粉々にするな。人間の尊厳を思えば瓦礫と一緒くたにしていいはずがない。
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