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●「四五年の 変化に気づく 吾と他に 老いの坂とは 思わぬことに」
板に 死んだ鯉載せ 南無阿弥陀 盥に放ち 描きし後に」、「虎の絵を 部屋の鬼門に 吊り下げて 邪気に無邪気に 睨み利かせて」、「西行の 墓に詣りて 花見かな ひとりふらりの 日帰り散歩」、「アレア好き ボスはアゴンで ゼノサイド 神をミミクリ イリンクス遊」



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裏庭でメジロのためにみかんの輪切りを用意した写真の残りを今日は全部使う。先月6日、15日、21日の撮影で、3枚目は雪が少し見えている。それで相変らず植田一夫の『雨月物語の研究』に絡めて書く。同書の第1章「白峯」については「理性と狂気」、第5章「仏法僧」は「聖と俗」と題する。「理性」は西行、「狂気」は崇徳院、「聖」は弘法大師が開いた高野山、「俗」は同地に葬られた豊臣秀次と植田は定めている。あるいは「俗」は高野山で夜を過ごす中、秀次らの怨霊に慄く隠居の身である夢然とすることも出来るだろう。「白峯」と「仏法僧」は『雨月物語』の中でもわかりにくい作品だが、崇徳院も秀次も権力闘争に破れて無念の死を遂げ、怨霊となって夜中にさまよっている。崇徳院の霊には西行が、秀次には無名の夢然がそれぞれ対峙して語り合う。前者の場合はふたりは対等で、後者では秀次はいわば一方的に突如夢然の前に現われ、恐怖を与えるだけの存在になっている。秋成は徳川幕府の治世によって泰平を享受することが出来たことの恩恵を蒙り、その意味では夢然に自身を投影していると見ることも出来る。ただし夢然は芭蕉に倣っての俳句が趣味で、秀次からその腕前を試され、詠んだ句は秀次らに嘲笑される。以前書いたようにそこには秋成の芭蕉嫌いが反映し、一方で歌人としての西行には一目置いていることが想像出来る。つまり秋成は夢然に泰平の世の中に湧いて来る暇な趣味人を揶揄していたのだろう。話は変わるが、30年ほど前か、若い女性が比叡山にひとりで登り、ホームレスのような中年男性に襲われて殺された。その女性の母は娘が殺されたことを静かに受け止め、そういう運命であったことをTVインタヴューで口にした。その母親は「仏法僧」を読んでいたのではないか。夢然は高野山では夜空の下で眠っても身は安全であると信じ切っていた。ところが秀次らの霊を目の当たりにし、しかも気まぐれに殺されかける。それは架空の物語ではあるが、現実の事件のたとえとしても、前述の比叡山での殺人事件からすれば大いにあり得る。聖地に悪いことを企む人間はいないと高をくくることは、簡単に言えば平和ボケだ。それが秋成の時代にもあった。それで旅が大流行もしたが、戦国時代ではないので殺されないかと言えばそんなことはない。植田はこう書く。「彼の歩くことの目的は、自由と解放の希求にあるだろう。……彼の存在の仕方には、矛盾があると言わねばならない。……夢然は意識が自己の存在する空間の秩序と一致していることで、空間に固定された存在であるはずである。……自己矛盾を感じていないのである。」
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 「人間にとって既知であり、保護されていると信じている空間に、未知なものの存在を知るのが夢然の体験である。……自明とされているものの自明性の不確実さを示しているのが、「仏法僧」の怪異である。……秋成は「雨月物語」の序において、自らが異端であることを表明している。……この異端の存在は、中心と周縁の理論に従って、周縁の存在と言い替えることもできる。秋成にとって正統や中心の存在は空虚である。異端や周縁の存在が彼の創造性をかき立てたのである。……だが、同じように異端であり周縁の存在であっても、各々その位相を異にする。……秀次には新院のような展望もないし肯定性もない。秀次がこのような存在に規定されるのは、単なる恐怖の存在に堕しているからである。……現世に対して復讐の不可能な秀次は、自己の怨念とは無関係な夢然を連れ去ろうとする。これは無意味な殺戮を目的とする行為である。この行為は彼の解放の不可能を示している。何の関係もない者を犠牲にしようとするところに、彼のいやされない心がある。……この相貌は悪でもある。秀次の行動には、新院の場合のような正当性がない。」「「雨月物語」には自己を守り信念を貫くために、周縁にあまんじる人間像が造型されている。それは周縁に位置することが聖であることを意味する。その典型が「菊花の契」の左門である。ところが、その周縁の存在が単なる周縁に追いやられ、聖性を剥奪された者へと逆転したのが秀次の存在である。……聖の存在は世界の中心であり、俗は周縁に過ぎないとするのが一般的原則である。……中心が中心であるために、周縁、異端の存在を必要とするのである。この原則を逆転させた性格を「雨月物語」は持っている。異端者が異端者のままで終わっている世界ではない。しかし、秀次の人間像は、この意図に沿っていない。」プーチンとウクライナの首相のどちらが正当であるかは戦争後に評価されるとして、政変に破れ死んだ後、その霊が新院のようになるか秀次のようになるかは生きていた間の行状で推し量られる。核の使用のほのめかしは「無意味な殺戮を意図する単なる恐怖の存在」で、戦争に敗れて死んだ後、秀次のような怨霊になるだろう。世間からのはみ出者に聖性が宿ることはあるが、俗のままの場合が圧倒的に多いだろう。「西行の説得が不能に終わったのは、新院が個人的な感情にとらわれていたからである。公憤は正当な論理によって説得可能なものであるが、私憤は論理の問題ではなく、感情の問題であるから説得不可能なものである。……私的感情は人間が何ものによっても解消することのできないものである。それが「白峯」においては怨恨として描かれている。これが「白峯」において秋成が問題にした「直き心」である。」もちろん秋成は新院の怨恨を否定的な人間の性情としながら肯定している。言動は正当性を持ち、人間性が十分に共感性を持っているからだ。
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by uuuzen | 2022-03-03 23:59 | ●新・嵐山だより
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