「
婦人にも 見立てられるや 鉢蘇鉄 棘の葉広げ 不動の姿」、「美人には 出会わぬ町の 昼下がり 蘇鉄の鉢に 気づき見惚れて」、「用のなき 蘇鉄育てる 楽しみは いつも変わらぬ 生きる元気さ」、「アクセスに あくせくするな 舌噛むな アクセル踏んで 冷や汗流せ」、「粗に徹し 鉄のごとくに 蘇り 吾徒に 齢を重ね」

薬草や美しい花を咲かせる植物は人間に歓迎されるが、蘇鉄は邪魔になるだけで何の取柄もないと言っていい。ところがその全体の姿には他の植物にない強さがあって、厄除けになる気がする。用心棒といったところかもしれない。用心棒のような怖さはなく、全く役に立たないような人も含めて、人間は存在する。有能さを人間の存在理由とすると、上にはいくらでも上がいるから、他者を無能呼ばわりする人は別の社会では無能を自覚することになる。それゆえあまり人を侮らないことだ。見るからにそういう態度で接して来る人がごくたまにいるが、筆者から見れば無能だ。そう思っていると、後でその人物があちこちで敬遠されていることを知る。そして幾分かはその人物に対して憐れみを覚える。それでも当人にはその思いは伝わらず、また別の場所で別の人から疎まれながら生きて行くだろう。そのように気の合わない他者とはつきあいをせずに済むことが出来る場合はいいが、たとえば会社勤めであればどちらかが会社を辞めねばならない事態になることがままある。辞めれば顔を合わせず、やがて忘れるから、それはまだいい。仲が悪くなった夫婦でも同じで、離婚すればお互いまた別の幸福な人生がやって来るだろう。ところがこれが国同士となれば厄介だ。個人対個人ではどの国の人でもお互い親しくすることは出来るが、国対国の関係が悪化すると戦争になる。そして相手の国民はみな悪人と洗脳されもする。戦争でなくても洗脳される愚かな人が多いことはネットの書き込みを見ればわかる。ましてや戦争になれば兵士が殺し合いをするどころか、普通の人が相手国の普通の人を殺しかねない。憎悪は増加しやすい。ところで、筆者は戸締りをしっかりして就寝しているつもりだが、泥棒は窓を割ってでも入って来る。そういう場合があることを想定して枕元に武器になる何らかの物を置いておこうかと昔から思っているが、実行したことはない。武器になる物を用意することで泥棒を呼ぶ気がするからだ。そうならなくても、悪い夢を見る気がする。筆者が子どもの頃のことだが、母はよく筆者の隣りで悪夢を見て目覚めた。そういう時は筆者に布切り鋏を取りに行かせ、それを枕の下に置いて寝た。すると不思議なことに再度悪夢を見ることがなかったようだ。筆者はほとんど悪夢を見ないが、ごくたまに見ると鋏を枕の下に置こうかと思う。面倒なのでそのまま再度眠りに入るが、刃物に魔除けの効果はあるだろう。それで神宝に刀がある。包丁が刀の代わりをするが、それを枕の下に置いて寝れば悪魔を呼びそうな気がする。

寝入っている間に金属バットで頭を叩かれれば抵抗の術がないが、就寝中に泥棒が入って来たことに気づいた場合、枕元に刃物があれば抵抗ないし撃退出来る可能性が増す。枕元では物騒なので、寝室のどこかに隠しておくのもいい。アメリカではその武器は護身用の銃だ。銃の保持が許可されているアメリカでは日本よりも泥棒が少ないかと言えばそんなことはないはずだ。ともかく泥棒に金品を奪われるだけならまだいいが、体を傷つけられるのは嫌だ。それで刃物はやはり怖いので鉄パイプでも部屋の片隅に用意しておこうかとたまに思う。そのような懸念が国家では軍隊に相当する。プーチン大統領が核の使用をちらつかせたが、ウクライナや西側諸国がそれに縮み上がることを念頭にしての恫喝だ。その脅しによって日本も核を持つべきとの声が上がっている。核が戦争の抑止力になるとの考えだが、絶対とは限らない。原発もそうだが、核を持つにはリスクがある。物はあれば使いたくなる。それである王朝では宦官が起用された。その伝で言えば日本は進んで宦官になっている国で、戦争が起こればひとたまりもない。原発が爆撃されれば核爆弾を落とされたも同然で、やられっ放しだ。そのため相手国にも核爆弾を落とすために核を持つべきとの意見があるならば、それは世界中が核でわややになってもかまわないという考えだ。家に泥棒に入られて金品を奪われ、体を傷つけられるのは嫌なので、護身用の何か武器になる物を保管しておく考えは、国が核を持つこととはかなり違うのではないか。入って来た泥棒を撃退するために殺してしまえば正当防衛になるだろうか。日本では過剰防衛として罪になるのではないか。また泥棒でなくて眠っている間に放火されれば焼死するしかなく、護身用の道具云々の話ではない。つまり襲われる時は抵抗のしようがない場合が必ずある。そういう理不尽を含めての人生、人間であって、憤ってもどうしようもないことがある。プーチンが狂気であるとして、そういう狂気も含んで世界は常にあり続けて来たし、今後もそうだ。となれば狂気に晒されるリスクを回避するために、核をどの国も廃絶すべきだが、人間は愚かさを抱えているので、一旦手にした強力な破壊兵器を絶対に手放さない。そしてそれが原因で世界が壊滅することはあり得る。もっと言えば、そういう結果を招く原因にたったひとりの絶対権力者がいればよい。そういう危険な人物を殺して排除することは正義か。戦争によって何百万人も犠牲になるのであれば、たったひとりの専制者を殺害することは正義と思うが、その方法が常にあるとは限らない。それに筆者は核使用をほのめかすプーチンは実際には使う勇気はないと思う。今日の最初の写真は去年11月22日、三条商店街の中ほどを北に少し入ったところ、2枚目は先月10日、西京図書館近く、3枚目は14日で嵯峨のかつて加藤一雄が住んだ地域。

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