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●「生きる意味 イキることとは 言い切れず 粋を知らずに 意気でぺらぺら」
字路に 芦生い茂り よしわるし 右に進みて よしと限らず」、「プータンと 呼べばかわいね ド臭い者 喜寿を前にし 腐乱す黄泉に」、「貴婦人も 理不尽に遭う 平和かな 無関心増し 武人も無心」、「苦しくも 生まれ変わりは 信じずに 時に羨む 野鳥の暮らし」



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松浦静山は『甲子夜話』を他者に読ませる思いがあったのだろうか。あったとしても本音を綴ることを旨としたはずで、そこに読み物としての面白さがあるだろうが、虚構を混ぜても同じ読み物であって、それなりの面白さは評価される。このブログは夜に書くことがほとんどで、『甲子夜話』に倣って『甲日夜話』と題してもいいが、おこがましいので『甲日話夜也(わやや)』か。静山は20年書き続けたそうだが、筆者はもう丸3年ほど続けるとよい計算だ。そして紙に書かないので全く嵩張らず、その意味では邪魔にならず、便利と言えばそうだが、電気の力で空間に見えない形で浮かんでいて、蜃気楼のように一瞬で消えてしまう儚さを感じている。自己満足の最たるもので、誰かからありがたがられたいという思いはない。ところで30数年前、近所に主に医師を顧客にして絵を売り歩いていた画商が引っ越して来た。地域的な医師会が毎月会報を発刊していて、その表紙にその画商が売った絵を印刷し、表紙の裏に絵の説明文を載せると聞いた。その文章を筆者に書いてほしいと言いながら、その人は間もなく亀岡に転居し、音信が途絶えた。バブル期で経営はよかったと思うが、集金がままならなかったのか、風の便りで倒産したと聞いた。それはさておき、絵画についての随筆を書く夢はある。その心つもりはしていて、下準備に入ろうと考えている。出来れば本にしたいが、かなり分厚いものになり、また1冊では収まらないだろう。その書きたいことをこのブログに新たなカテゴリーを設けて投稿することはもちろん出来るが、何となくもったいない気がしている。ブログではどうしても軽く見られがちで、また筆者の投稿を欠かさず読む人は50に満たないはずだ。それに筆者が書きたい絵画に関心にある読者はたぶんその中にひとりもいない。出版本なら読みたい人がそれを探し当てる。ブログは無料で即座に読めるのはいいが、そのことで却って本当に読みたい人に知られない。これは筆者が無名であることが最大の理由だ。17年ほど毎日書きながら1円の収入にもならないことは若者が重視するコスパは最悪で、誰も真似したくなく、それゆえほとんど誰も読まない。それでも平気なのでこうして書き続けているが、一方では本にまとめておきたい事柄を抱えている。それはブログを書き続ける中で芽生えた。壮大なコスパの悪さの果てにそうした出版のための執筆があると主張しても、世に出た本もほとんど売れない、つまり相変らずコスパ最低で、それを「わやや」状態だとして、その事故ばかりの自己に満足出来るならコスパ最高ではないか。
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 佐伯祐三の絵に魅せられた山本發次郎は佐伯の作を160点ほど買い集めた。そのことはクレラー=ミュラー美術館を作ったへレーネと夫のアントンがゴッホの絵を油彩と素描を合わせて300点近く収集したことに通じる。クレラー=ミュラー美術館がオランダに開設された1938年の5,6年前に山本は画商から佐伯の絵を買い始め、37年に遺作展を開催した。佐伯は山本が見出す前の28年に死に、その夭折はゴッホの姿に重なる。山本は最初墨蹟に関心を抱き、22年の洋行後に西洋画にもそれを広げたとされ、佐伯やモジリアニの絵に書に通じる味わいを認めていたことになる。22年にゴッホの絵が市場にまだ残っていたかどうかだが、当時ゴッホの評価は贋作が製造されるほどに確定していたので、真作の売り手があってもあまりに高額で手が出なかったと思われる。そもそも山本がゴッホの絵をほしがったかどうかだが、浮世絵に関心を抱いたゴッホであるので、モジリアニの絵以上に墨蹟との関連を思ったはずだ。それは線の味わいということになる。佐伯の風景画は壁に貼られたポスターの文字に大きな見所がある。そのほとんどは黒で素早く描かれたもので、書かれたと言ってよい。元のポスターの文字は遠目に目立つサンセリフが大半であったはずだが、佐伯の絵の中のポスターの文字はローマン体風が多いように見える。それはともかく、佐伯はアルファベットがポスターの中で絵と一緒に書かれる時、そのデザイン性に関心を抱いた。それはタイポグラフィへの関心であって、油彩画家にならなければ文字デザイナーになったかもしれない。そこからたとえば高僧の墨蹟を鑑賞する手立てがあるかと言えば、たとえば副島種臣の書はひとつの答えを示しているし、その後の森田子龍の墨象があり、またそこからアレシンスキーの絵画がある。アレシンスキーはシュルレアリスムから日本の漫画までに関連しているから、山本が収集した墨蹟が判明すれば、またその作品が現存していれば、そこを出発に佐伯やモジリアニ、また書に感化を受けた戦後フランスの抽象画家の作品を集めた企画展が想定出来る。そうなると墨蹟の祖として弘法大師の書を持ち出すべきともいえ、一方佐伯が魅せられたポスターに含まれる文字が、それぞれのポスター画家にとってどのようにデザイン的な斬新さがあったかの考察もなされるべきだ。ところでモジリアニの人物画「彫刻家リプシッツ夫妻」にはその素描にはない文字「LIPCHITZ」が画面上部の部屋の壁を表わす白地に黒で書かれる。68年の『モジリアニ名作展』の図録からその様子を示しておくが、カラー図版は筆者が後年貼付した。筆者は10代半ばからその文字が大いに気になり、同じ手法が古代ギリシアの壺絵に見られることに、モジリアニがギリシア・ローマの伝統を受け継いでいることを思う。それは彼の絵が彫刻的であるという意味でもある。
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 山本が買い集めた佐伯の絵のうち100点ほどは戦災で失われた。中之島美術館に寄贈されたのは60点で、見られなくなった作品がはるかに多い。このことから推して当時同じ運命に遭った作品がどれほどあったのかだが、これは誰にもわからない。戦前の売り立て目録に図版が掲載されるのに現在行方不明の作品は多いからだ。むしろそうした作品のほうが美術館に所蔵される作品よりはるかに多い。また売り立て目録に図版が載った作品より載らなかった作のほうがはるかに多いはずで、どれほどの書画が残っているのかは誰にもわからない。内部調査されていない蔵がまだあるからで、和歌山にはそれが多いと聞く。財を成した金持ちは戦後の混乱を生き抜き、蔵の宝物に手をつける必要がなかった。そういう分限者はかつてはどの地方都市にもたくさんいて、書画収集を趣味とした者がいたが、山本發次郎の美術好きはそういう伝統を継いだものだ。話を戻して、山本は佐伯の遺作展に際して画集を作ったので、戦災で焼失した作品は図版でわかる。また山本が佐伯以外に買った作品の全貌の図版を載せる本があるのかないのかだ。それが気になるのはモジリアニの「横たわる裸婦」のみが大いに話題になっているからだ。同作が戦争で失われなかったことは本当によかったが、自然災害の多い日本では今後どうなるかはわからない。それで個人蔵の名作は公的な美術館に収まって行くことが望ましいが、名作かどうかの線引きはどうなされるか。有名人が所蔵するとさして優品でなくても特別の物語が付与されて人気が出る。そうなるとやがて名作の部類に入ることもあるだろう。これはあまり詳しく書くことは出来ないが、日本のある富裕者が、ゴルフといった誰でもやる趣味では金持ちとしての位が上がらないので、美術品の収集を勧められ、それにしたがって海外の有名な売り立てで優品を買い集めた。あるいは今もそうしているだろう。その収集品の図録を見ると、まとまり感がない。収集家はある考えに基づいて系統的に手を広げて行く。それにはそれなりの深い知識と関心が欠かせない。クレラー=ミュラー美術館はゴッホの絵画を中心にヨーロッパ絵画の流れを示すように収集が続けられた。同美術館にデュビュッフェの野外彫刻群があり、彼の作品を知る者は誰でもその写真を見たことがあるが、デュビュッフェの代表作としてよいそうした作品まで同美術館が所蔵するところに大阪中之島美術館では到底かなわないヨーロッパ美術の伝統を見る思いがする。それで中之島美術館では同じように野外にヤノベケンジの猫の彫刻を置くことで、日本ないし大阪を主張する。そこにはたとえば山本發次郎が関心を抱いた墨蹟とのつながりがあるのかないのか、また大阪の洋画家とどうつながるのかという考察はいずれなされるべきだ。またそういう論考によって美術家は古い墨蹟に関心を持ち、伝統に連なった新たな潮流が生まれもする。
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 そのことで大いに示唆的であるのは吉原治良の晩年の円を描いた作だ。それは禅僧による円相を意識した油彩の抽象画で、山本が最初に関心を抱いた墨蹟とつながっている。その意味で吉原は佐伯と共通性がある。山本が収集した墨蹟の中にたとえば慈雲の書があったかどうかだが、中之島に生まれた慈雲の書を中之島美術館が所蔵することは当然であり、またそこから柳澤淇園の書画もあってしかるべきで、そうなれば文人画の収集にも力を入れるべきとの意見が出て来るだろう。そこに寄与するのは画商や個人の収集家で、今後美術館に入るべき作品は市中にいくらでも漂っている。そこで思うのは先日ロシアがウクライナに侵攻し、百万単位の人が故郷を捨てつつあることだ。着の身着のままであるから、家財は放置せざるを得ない。それを言えば美術館や博物館の所蔵品の運命も懸念される。山本發次郎が芦屋に所有していた絵画をアメリカの軍機が知る由もなく、知っていたところで無価値と思った。何しろ原爆を最初は京都に落とす考えもあった。敵国の宝はゴミ同然で、芸術品はかくも儚いものだ。さて今日書こうと思っているのはそのことに関連する。使う写真はメジロに与えるために裏庭のまだ芽の状態の牡丹に刺した輪切りのみかんで、1月末から2月上旬までに撮った写真を順に掲げる。以前同種の写真を使った投稿ではあえて上田秋成の『雨月物語』に絡めた話題に終始した。それで今日もその続きを書くが、秋成は大阪に生まれて京都で死んだ。筆者もそうなりそうなので、なおさら秋成に関心がある。彼は絵を描かなかったが、京都の人気絵師とつながりがあり、彼らのことやその作品について書き残している。それは絵に詳しくない個人の感想で、また当時の京都での評価に沿い、取り立てて変わったことを書いてはいない。それで美術好きにとっては物足りないが、秋成は文学に関心はあっても絵画はさほどではなかった、つまりある意味では下に見ていたのだろう。またその立場も当時としては当然で、知識人は言葉が一番重要であって、絵画は趣味程度に捉えていた。それは絵画は物体で、物理的に長持ちしないからでもある。文学もそうだとの反論があろうが、言葉は語り継がれて行く。詩がその好例で、文字にせずとも歌う形で伝播して行った。そのことは日本では唱歌や歌謡曲に残っていて、古典は書き写されたものがその後活字になり、何度も再生産されている。本はやがて消えるが、複数生産の1冊でも残ればそれは無数に再生産され得る。絵画はそうではない。佐伯の失われた絵は永遠に戻らない。そういうことを秋成は考えていたはずで、前述のように文学を絵画の上に置くという考えを持っていたとは言い切れないまでも、日本の絵画は紙や薄い布に描かれ、脆くて儚い夢のようなものであるとの思いは抱いていたであろう。そのことが『雨月物語』の「夢応の鯉魚」から伝わる。
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 この物語は絵を描く趣味を持つ三井寺の僧侶の興義が二度死ぬ話で、彼は死んで数日後に夢の中で苦しみのあまり琵琶湖に入り、寄って来た大きな魚に願い事をかなえてもらえることになり、金色の鯉になる。そして琵琶湖の名所を巡るのだが、その描写は素晴らしい。秋成は琵琶湖周遊船BIANCAのような大型船はなくても、小型舟で琵琶湖八景の各名所を楽しんだことがあるのだろう。僧侶が鯉になる夢を見るのは、植田一夫が書くように人間であることに幻滅しているからとも言える。これは犬猫のペット・ブームと同じで、筆者が毎朝雀に古米を与えることも通じるが、動物好きが人間嫌いとは言えない。興義は誰もが実物の鯉がそこに泳いでいるかのように錯覚するほど見事に描くことが出来たが、求められても絵を手放さなかった。鯉になって泳いでいる間に空腹に耐えかねて漁師に釣られ、その漁師は興義の知る武士にその鯉を売る。それが料理されて食されている途中興義は目覚め、死から蘇り、側近に知り合いの武士が鯉である自分を食べていることを伝え、そのことをやめさせるように訴える。武士は駆けつけ、食べていた鯉は処分され、生き返った興義は長寿を全うするが、改めて死んだ際、彼の鯉の絵を水面に破り捨てると、鯉は絵から抜け出て泳ぎ去った。そして興義の絵は残らない。興義が金儲けで描いていたのではないという点に秋成の言いたいこともあるだろう。絵師も稼ぐ必要があるが、若い頃の若冲のように経済的に豊かであればその限りではない。金儲けに恬淡であることに秋成は聖性が込められ得ると考えたのだろう。晩年経済的に困窮した秋成で、金儲けが上手であった本居宣長を「古事記」に合わせて「乞食」呼ばわりした。金に執着が強いほどに金は集まることは『雨月物語』の最後の「貧福論」で書かれる。話を戻して、秋成は興義の弟子が描く鶏の襖絵を鶏に見せると、鶏が蹴ったとの言い伝えがあるとする。興義は秋成が創作した人物だが、興義の弟子は応挙で、若冲も兼ねている。題名の「応夢」が応挙を思わせ、「鸚鵡」に通ずる点は興義と鯉の呼応を意味するだろう。興義が鯉になり、自分が食べられているところで現世に蘇る様子は、かなりグロテスクだ。そこには殺生を禁じ、肉食しない僧侶の戒めが主題になってもいるし、前述のように雄大な場所でひとりで自由に泳ぎたい願望と、命を落とす人がいるという旅の危険も示唆される。秋成は若冲については書き記さず、応挙については人柄もよく京都では最も立派な絵師としている。応挙は鯉の絵で有名で、秋成はその絵を見て「応夢の鯉魚」を思いついたかもしれないが、基になったのは中国の小説だ。それに実物を目の当たりにするかのような泳ぐ鯉の絵は応挙が最初ではない。それは中国にあった。その伝統を日本は受け継いだだけで、その点では墨蹟も同じだ。つまり日本の明治以前の書画は舶載の中国画抜きでは語れない。
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by uuuzen | 2022-03-01 23:59 | ●新・嵐山だより
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