「
州浜にて 鷺と鵜集い オセロかな 魚は多し 争い見えず」、「白黒の 写真でわかる 色はなし 雪の景色も 白黒で成り」、「三冠の 後に控える 師恩なり 春の成果に 導き手あり」、「空っぽを 白にしたきは 文化なり 洞穴の闇 照らして進む」

大阪中之島美術館の外観を真っ黒ではなしに真っ白でにすれば、周囲の建物との調和はどうなっていたであろう。そのことはパソコンを使えばいくらでもシミュレーション可能だが、美術の素人より玄人になってほしい、つまり何度も来てほしいとの意味から白より黒がいいと判断されたのだろう。また土蔵を思わせる白壁に瓦屋根の5階建てとなると、瓦は地上からはほとんど見えない。京都市内では横腹に「甍」と書いたトラックが走っていて、瓦業者が健在であることがわかるが、「甍」は若者には死語だろう。「いらかの波と雲の波……」の唱歌が今も小学校で教えられているのか、子どもたちは先生に「甍」の意味を教わってもその波の状態が想像出来ず、空から撮った祇園の古い街並みの写真を見せる必要がある。瓦屋根は大地震で倒壊しやすいことがわかったこともあって、今の新築家屋はプラモデルの大がかりなものになっている。かくて日本の美しい風景の「いらかの波」は消え失せ、屋根の高さは凸凹し、これをどう美しく言葉で表現出来るのか。そのことは中之島美術館界隈を眺めるとよい。建物の高さは極端な凹凸状態で、形もデザインもただの無機質な高層ビルだ。もちろん鯉のぼりはマンション住民がとても小さなものを窓から吊るす程度で、昔ながらの日本らしい風景は田舎にしか残っていない。それで田舎暮らしに憧れがあるかと言えば、都会生まれは不便な田舎に住みたくはない。話は変わる。家内は昔からTV番組「小さな村の物語 イタリア」を楽しんでいて、ここ2,3年は筆者もたまに一緒に見る。最近は昔の放送で紹介した人のその後を取材して最後に付加しているが、人は死なない限り、みんな昔と同じ仕事、暮らしを続ける。その変化のなさがいいのであって、イタリアの小さな村の住人たちは人生に満足しているかに見える。もちろんそう思わせるために取材する人を選定し、醜い面を見せないようにしているからで、同じ村に住めばいろいろと見えて来ることはあるはずだ。そのことを差し引きしてなお魅力的に見えるのは、やはり昔からほとんど変わらない生活をしているからで、その悠久さに都会に住む人は憧れを抱く。ところが女は結婚してどこにでも住めるとして、男は仕事を持たねばならず、仕事の少ない村に新参者として移住することは現実的ではない。またイタリアの寒村では他郷に出稼ぎに出る歴史があり、それは今も変わっていないだろう。ともかくイタリアの小さな村がTV番組で数百も紹介されるほどに、同国の都市生活者はその暮らしに憧れがあり、そのことは日本と変わらないはずだが、田舎暮らしへの憧れはそれに留めておくのがよい。
「小さな村の物語 イタリア」では冒頭と最後にイタリアの女優兼歌手オルネラ・ヴァノーニの歌が流れる。数年前から同曲「L’APPUNTAMENTO(逢いびき)」を収めたCDを入手しようと思いながらそのままになっている。同曲は1970年のヒット曲という。たぶん日本ではシングル盤は出されずにヒットしなかった。同TV番組にいかにもふさわしく、イタリアの小さな村の生活が幸福に満ち溢れていることを感じさせる。同曲の題名は「アポイントメント」の意味で、「逢いびき」の訳語は意味を限定し過ぎの感がありそうだが、歌詞を吟味しないことには正しいことはわからない。話は変わって、筆者は60年代半ばにラジオでビートルズとカンツォーネを同じくらいによく聴き、その頃の貧しい暮らしながら明るい世間の空気を満喫し、今でもたまに当時のカンツォーネを聴きたくなる。20年ほど前か、京都市内の中古レコード店で全32曲収録の2枚組CD『カンツォーネ』を格安で買い、たまにそれをBGMにしてくつろぐ。60年代のヒット曲集で、半分ほどは昔から知っているが、もう半分は60年代でもほとんど聴いたことがないか、聴いても覚えなかった。ビートルズに押されてラジオで鳴る機会が少なかったからだろう。それでたとえばイヴァ・ザニッキという歌手の名前はよく憶えているのに、日本でもヒットした彼女の曲を知らない。同CDにはオルネラ・ヴァノーニの「逢いびき」は入っていないが、イヴァ・ザニッキより2曲多い5曲が収録される。これは日本で大ヒットした曲があるウィルマ・ゴイックあるいはミルバと同じで、オルネラの実力と人気のほどがわかる。YouTubeからは彼女の独特の声と圧倒的な声量がすぐにわかる。多くのヒット曲があり、どれを選ぶかとなると筆者としては『カンツォーネ』に入っている1968年の「カーザ・ビアンカ(白い家)」を挙げる。この曲は日本ではもっと若い10代半ばの女性歌手のヴィッキーが大ヒットさせたが、最初に歌ったのはオルネラで、彼女のシングル盤も発売された。ただしそのヴァージョンはたぶんほとんどラジオでは流されなかったと思う。それで今日の最初の写真の日本盤ジャケットは今回初めてネットで知った。左はイタリア盤で、題名に応じたイラストになっている。ヴィッキーはギリシア人で、67年の「水色の空」の大ヒット曲で一気に日本で有名になったが、次の「カーザ・ビアンカ」以降は同曲と同じ程度のヒットはなかった。オルネラの気の強そうな大人のイタリア女という雰囲気と違って、ヴィッキーはアイドルの美貌を有し、また日本語で歌ったことが人気の出た大きな理由であった。そしてアイドル路線を走れば人気は長く持続しない。その点オルネラは俳優でもあり、また歌は片手間ではない見事さで、イタリアを代表する女性歌手になった。

オルネラの歌唱力はYouTubeでわずかに聴いても、また8,90年代の曲でも新境地を開いていることがわかる。歌詞はほとんどわからないが、日本のアイドル歌手の甘ったるさとは比較にならない深みを持っていることは想像出来る。そのことは
去年8月末に採り上げたパオロ・コンテの曲からも言えるだろう。大人には大人向きの歌詞を歌う大人の歌手が必要という、ごくあたりまえのことがいわゆる平和ボケしていると言われる日本では通用しない場合がままあって、たとえば還暦のかつての女性アイドル歌手が昔からのファンのために40年以上前の曲を歌うというグロテスクさが持てはやされる。もちろん一部のファンに歓迎されるだけだが、還暦になれば還暦にふさわしい人生の刻みを感じさせる曲を歌うべきではないか。その年齢相応ということを凝視したくない女性が日本では特に多そうで、美容整形で無理して若作りをする。そのことには、女は2、30代を過ぎればほとんど価値はないとみなしがちな残酷な男の考えの影響がある。筆者は年齢相応に好みの女性が変わって来ている。そして2,30代の女性によほどのことがなければ魅力を感じない。若さの魅力は当然誰でも一時はある。問題は年齢的若さを失うのと比例していかに大人の魅力を獲得するかだ。そういう覚悟のある女性は日本には少ないのではないか。その観点からオルネラを見ると、彼女は筆者好みではないが、そのイタリア特有の大人っぽい貫禄には一目置きたくなる。不敵な眼差しと言ってよく、またそれが嫌味にならずに自己を主張している。日本でも中年を過ぎた人気歌手は不敵さを漂わせるが、知的さや男と対等にわたり合おうとする精神力の強さを感じさせる者は少ない気がする。「男と対等にわたり合う」は、「有名になって金持ちになれば何も怖いものがなくなる」という意味ではない。「成熟した女」つまり「人間として完成した女」、また「名声や金、権力がなくても動じない」と捉えてもよい。そういう女性はたとえば女優のソフィア・ローレンに典型を見る。その系譜にオルネラがいる。それは生まれた時代や境遇も影響しているかもしれないが、筆者にはイタリア女の特質のように思える。話は変わる。大阪中之島美術館所蔵のモジリアニの「横たわる裸婦」はフランス女をモデルにしたはずだが、筆者にはイタリア女に思える。100年前のパリにイタリアの田舎から出て来た貧しい女はいたはずで、モジリアニはイタリア語を話す若い女のほうが裸にして描きやすかったのではないか。あるいは港町リヴォルノのユダヤの家系に生まれたモジリアニは、生まれながら国際感覚を身につけ、それゆえパリで多くの外国の画家やモデルと交わることが出来たから、イタリア女にこだわる必要はなく、フランス女のジャンヌとの同棲も不思議なことではなかった。そこから見えるのは、彼らが20歳そこそこで完成した大人であることだ。
さて『カンツォーネ』のブックレットには全曲の歌詞とその日本語訳がある。「カーザ・ビアンカ」はヴィッキーが日本語で歌う歌詞とは全く違い、子どもの不安を主題にする。この場合の「白い家」は文字どおり白壁の家を指すと同時に、まだ何か圧倒的な力に染まらない子どもの心を意味する。「家」は「部屋」と同じく、女性の象徴と見てよい。それが白というのは、処女を意味すると解釈してもよいかもしれない。この曲を男性歌手が歌うことがあるのかどうか知らないが、たぶんないだろう。ヴィッキーは日本人がかなり意訳したラヴ・ソングとして歌うが、YouTubeではその日本語の歌詞をさらに英語に意訳した字幕を見ることが出来る。それはオルネラのオリジナル曲の歌詞の英訳とは全く違う。どちらがいいかとなると、象徴的意味合いの深さからしてオルネラ・ヴァージョンだ。「白い家」の象徴性はヴィッキー・ヴァージョンでは消えている。オルネラが本曲を歌ったのは34歳で、立派な大人だ。日本ではその年齢でまだアイドル気分の女性歌手がほとんどと思うが、それが平和ボケであって、またそういう女性歌手を支持する大人の男性も知性を疑いたくなるが、漫画やアニメが大好きと言う大人が目立つ社会では、むしろ彼らのほうがまともとみなされる。本曲の歌詞対訳の語順をわかりやすく換えて以下に引用する。「青春の思い出とともに私の心に残る白い家がある。小さな子どもの私はそこに入りたくなく、苦痛のあまり泣いていた。子どもには誰しも震え上がる正体不明の何かがある。あの白い家はもう戻って来ない青春だ。」 思春期にわけがわからないままに情緒不安定になることは男女ともにある。筆者もあった。日本では白壁は土蔵のイメージだが、イタリアでは普通にある家だろう。本曲の歌詞は子どもの頃に住んだ白い家に思春期を重ねつつ、子どもの心がまっさらで何かに汚されていないことをたとえる。穢れてしまうと恐くなくなるのは事実だ。大人の不敵な表情はそれだけ世間の裏表を知ったからで、もはやそれは子どもの未知に慄く純心とは違う。そしてそれを穢れと呼ぶのは間違いでもあり、また子どもから脱皮せねば見えないことは多い。本曲の「BIANCA」は「BLANCA」と言い替えてもいい。後者は「空白」で、前者の「白」に通じている。子どもはまだ真っ白なページがたくさんある人生を怖がりながらいろんなことで埋め尽くして行く。ところが老人になっても明日は常に「空白」だ。またその気持ちを抱くべきで、充実した明日を過ごすには未知に挑む思いが欠かせない。その意味で人間は死ぬまで子どもの心を失ってはならない。それはか弱さを意識して演出する「ぶりっ子」の態度とは全然異なる。昨日までの着実な歩みの上に新たな一歩を踏み出すことだ。本曲はそのような人生の深い意味を象徴している。
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