「
褒めるなら お金をくれと 言う子ども 硬貨無効化 お札お礼を」、「見世物は様式ありて 成り立ちて 美の質と多寡 およそ定まり」、「始まれば 終わりあるのは あたりまえ どう終わるかに 美の意識持つ」、「プロレスは 漫才に似た ふたり芸 絡む楽しさ 永遠なりや」

13日に「夜想」に出演したバンドはいずれも金森幹夫さんが出演依頼したが、コロナ禍のために出演が取りやめになったバンドがいくつかあった。筆者は2年前の12月下旬に旧「夜想」でのライヴを見た。その時も金森さんが企画し、今回と同じく札幌在住のデュオ・バンドのF.H.C.の「関西ちびツアー」と題されてのことであった。旧「夜想」でのライヴの感想はブログに書いたので、今回も同じ流れで4バンドの演奏についての感想を同じく3段落すなわち原稿用紙9枚でまとめるが、そのことを13日に思いながら、少々困ったなと感じたのは今日取り上げる女性デュオの「ヨーロピアンクラッチ」だ。彼女らは今回の「ちびツアー」では食事提供係を務めたという。金森さんは13日の出演バンドの一組として2年前に出演した丸尾丸子さんを想定したが、関東に転居したことを知り、「ヨーロピアンクラッチ」に依頼した。筆者はなるべく違うバンドの演奏を聴きたいので、それはそれでよかったものの、普段好んで聴く音楽からは外れる類のもので、どうまとめようかと悩む。こうして感想を書くのは、大部分は思考の巡らしの楽しさを紡ぐ一種の文章の腕試しの場であって、読み物として出来れば面白いものを念頭に置いている。そして取り上げる対象についての愛情が必ずあるとは限らない。対象を俎板に載せ、どう調理しようかとの悩みや迷い、また楽しさがあって、俎板に載せられる側にすれば心外と思うことは当然あるだろう。だが筆者はお金を払って出かけ、しかるべき時間を費やして鑑賞するのであるから、どういう感想を抱いて何を書くかは自由だ。そこで全くつまらないと思えばまず一言も触れたくないから、その意味では筆者が鑑賞したライヴなり展覧会なり、あるいは本でもいいが、このブログに採り上げない場合は、心が動かなかったか、まだ思考中ということだ。本音を言えば後者が圧倒的に多い。このように前置きを長々と書くと、筆者が「ヨーロピアンクラッチ」に抱いた印象がおおよそ伝わると思うが、演奏を見ながら筆者が思い出したのは去年の夏にTVで見たアメリカ映画「グリーン・カード」だ。フランスの音楽家がアメリカに滞在するために偽装結婚をする物語で、女性は次第にその野生的な男性に惹かれて行く。1990年の作品で、主演のジェラール・ドパルデューは武骨で繊細な芸術家ジョージを好演している。この映画で筆者は最も印象に残ったのは、彼が偽装結婚した女性の後援者らの数人のサロンに招かれてピアノの演奏を求められた場面だ。

音楽家ならばショパンの1曲でも聴かせてほしいと思うのは、金持ちの芸術通としてあたりまえの話だ。困惑した顔のジョージはピアノの前に座って突如ほとんど出鱈目にガンガンと鍵盤を叩き、衆人は目を丸くする。出会って間もない偽装結婚相手の女性は予想どおりと落胆するが、出鱈目な音をひとしきり奏でた後、ジョージは静かに伴奏しながら自作の詩を語り始める。その内容に支援者の老人たちは驚き、これぞ真の芸術と拍手喝采を送る。また後の場面ではジョージはいつの間にか本当に好きになった相手の女性に作曲した小品の楽譜を贈る。現代音楽作曲家の彼はまともな作曲も出来たのだ。あたりまえのことで、音楽の基礎教育を受け、そのうえに前衛を目指している。また前衛であっても最も大事なことは作品に盛られるべき詩情だ。それは厳然たる構成美に支えられている。ゴッホと親交のあったエミール・ベルナールが書くように、絵画は誰かに学ぶ必要はないが、ゴッホはそれなりの絵画の基礎教育を受け、また彼の絵画の基本は実に卓抜な写実であって、そのうえに最晩年に独自の境地を開いた。「ヨーロピアンクラッチ」のふたりの女性はそれぞれノイズとベース担当で、また両者はわずかにヴォイスも使う。筆者はノイズ系の音楽については全くと言っていいほど歴史も現在の広がりも知らないが、楽音以外のどのような電子音でも音楽になり得るという考えは否定しない。そういうことは100年前のダダイズムで行なわれたことで新しくはない。パソコンが登場し、ルーパーを使えば今は誰でもすぐに作り得る。そこで差が出るとすれば、演者がどれほど詩情を表現したいかどうか、またそのために腐心しているかどうかだ。ジョン・ゾーンと親しいイク・モリはノートパソコンを楽器とし、彼女が参加するCDやソロCDを筆者は持っているが、ジョンが彼女の才能に惚れたとすれば、それは日本人らしい感性であるはずだ。そのことは彼女の演奏からわかる。同じことはヨーコ・オノにも言える。一見彼女の前衛は出鱈目なようだが、クラシック音楽の洗礼を受けて育った彼女は時にジョン・レノンに比肩する曲を書く能力を見せた。13日の「ヨーロピアンクラッチ」の演奏は40分弱で、全体をほぼ均等に3分割し、その前後の部分はノイズ系に耳慣れない者にはほぼ大差ない曲であった。その2曲の間に、ふたりは立ったまま、また演奏なしにバンド名の由来や活動について語った。ライヴ終了後に金森さんから彼女らを紹介され、その語りも含めてショーであることを筆者は直接聞いた。語りから知ったことも含めてざっと覚えていることを書くと、バンド名はプロレスの技の名前に由来する。一緒に演奏するようになったのはライヴハウスのオーナーの助言による。ふたりとも大阪在住で、5年前から一緒に演奏し、その頻度は月1回であるので、ざっと4,50回のステージを踏んでいる計算だ。

ベース奏者の女性は西洋人っぽい顔つきで、なかなか舞台映えする貫禄があり、ベースはとても似合っている。彼女はギターからベースに変わったとのことで、それは楽音を奏でられることを意味している。実際当夜はわずかだが、ベースそれなりの滑らかなリフが奏でられた。途中のいわば漫才的な会話に筆者はベースがずっと鳴っていればよりいいと意見した。それは会話を音楽にするために必要と思うからだ。音楽家は音楽で勝負すべきで、15分近い対話はいわばどうでもいい。むしろ何も語らず、演奏だけで済ますほうが圧倒的に格好いい。そう考えるので、たとえば先日書いたように、チェリストの佐山裕樹さんにバロックザールのSさんは一切舞台では言葉を発しさせなかった。「ヨーロピアンクラッチ」は表現のつもりで語ったかもしれないが、言葉の情報はSNSで発信すれば済む。漫才の掛け合いの面白さはなく、初めての場合はともかく、二度は聴きたくない。そう考えると彼女らの演奏は二度と同じ人が見ないかもしれない。筆者は彼女らの演奏における即興ならではスリルを確認するためもあって、10数分の曲の流れは起承転結をどのように決めているのかといった愚問を発した。ノイズの女性は始まれば終わるしかないとあたりまえのことを言ったが、筆者の関心は、プロレスや漫才にある様式ないし型を彼女らがどう考えているのかということだ。人は様式美を楽しむ。バンド名のプロレス技と同じほどによく知られるノイズ音楽の新型を彼女たちが創出すれば、それはノイズ音楽の大きな糧となる。演奏された2曲からそれなりの型を感じたが、そこに独自の詩情が盛られているかどうかとなれば、それは客がまた聴きたいかどうかで判断されるべきだろう。ジャズの即興は楽器を自在に操れるようになってからのことだ。クラシック音楽のカデンツァも同じで、基本は同じ楽音の再現だ。ではノイズ音楽にそれは可能か。ルーパーによって幾種類かの音形を次々に重ね、全体の音をより混沌とさせて行く中にわずかに音楽的リズムや言葉ではない声をドローンで載せる。始まってやがて大きく盛り上げた音は終わりを見定めて減衰して行くといういわば月並みかつ古典的な音楽形式とは全然違う方法を彼女たちがどこまで意識しているかどうか、そこを筆者は訊ねたかった。筆者の前に座っていた松本さんは最初の曲に歯医者のドリル音を思ったと言い、そのことを筆者は彼女らに告げると、ノイズの女性はいいことを聞いたと顔をほころばせた。彼女は聴き手を逆撫ですることもひとつの音楽と考えているのだろう。もちろんそれはありで、サディスティックな音を追求すれば、それなりの詩情が立ち現われるだろう。ベースの女性はプロレス好きで、お好みであればヨーロピアンクラッチの技をかけてあげると舞台で言った。筆者はマゾではないので断るが。
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