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●『sensibilia』
「センシビリア-所蔵品によるある試み-」。会期当初から行かないだろうなと思っていた。10日前に『大津絵の世界』を見るために滋賀に行った時、そのまま車でさらに20分も行けばこの展覧会が開催されている滋賀県立近代美術館だなと少し心残りがあった。



●『sensibilia』_d0053294_23572575.jpgそれがまた今日同じように家族3人でこの展覧会を見るために滋賀県に出かけた。明日が最終日だが、明日は大阪をハードに回る予定を立てているので、行くなら今日しかなかった。幸い天気が持ったのはいいが、車がとても混んでいて、往きは2時間近くかかった。電車で行く方がよほど早い。車が混んだ原因のひとつと思うが、逢坂山に差しかかるところで炎上して真っ黒になった車が路肩にあった。パトカーや消防車が何台か停まっていた。時間が許せば帰りがけにもうひとつ展覧会を見る予定でいたが、大津の平和堂という大きなスーパーで買物をしている間に暗くなってしまった。1日かけて滋賀まで展覧会ひとつ見るのに家族3人で出かけるとは、そうとうな美術通一家のようだが、行きたいのは筆者だけで、家内と息子は同乗者かつ同情者だ。せっかく休みを利用して出かけるからには、昼食はどこか洒落たところでというのが幸福な家族の理想像だが、ほとんどそんなことはない。いつもなるべく安い店に入る。それでよけいに家内も息子をついて来るのをいやがる。だが、恋人のいない学生の息子は、筆者の時たまの用事くらいしか車を使用することがない。そのため、わが家にとっては本当に車は贅沢なものだ。今日は昼食場所を決めていたのに、まず展覧会を見てからと思った。そして帰り道、その店の前の道路は車線変更が出来ないようになっていた。結局そのまま通り過ぎて平和堂に行った。初めて入るこうした大型スーパーは何となく好きだ。筆者は割合スーパーでの買物には慣れているので、そこそこ何が安いか、また珍しいかはわかる。自然の形のままで売られる野菜や鮮魚コーナーは特に好きで、面白い形のものがあるとついほしくなり、実際しばしば買う。料理は自分ではほとんどしないが、必要に迫られればやれる。料理作りはそれなりに時間がかかるから、忙しい筆者がするのはよほど気分的に余裕のある時だ。そしてよく失敗する。
 話のそれついでに書く。今ちょっと切らしているが、ママレードをこの半年の間何度も作った。いろんな柑橘類と砂糖で試したが、自分で最高と思えるものはまだ作ったことがない。ある日、イギリス旅行した人から2、3回使用したら終わりというごく小さな瓶に入ったママレードをお土産にもらった。琥珀色でなかなか高価な感じの商品だ。食べてみてびっくり、今までで最高のママレードだ。そして、むらむらと同じように美味しいものを作ってやろうと考えた。だが、何度挑戦しても遠く及ばない。何が違うのだろう。素材と調理法が違うのはあたりまえだが、厳選した高級なオレンジと砂糖が必要なのかどうか、あまりそうとは思えないが、どう作っても琥珀色のいい色合いにはならない。一度、緑色の皮のみかんと、黄色、そしてオレンジ色の皮のオレンジのある品種を混ぜて作ったことがある。するとどうなったか。まず色合いがいけない。緑とオレンジ色は保色関係で、これが混ざると遠目に灰色に見える。えぐい色合いのママレードになったのはいいが、まずは目で味わう食べ物の鉄則をすっかり無視したようになり、いつまでも瓶から減らなかった。ママレード作りでは、皮を出来る限りうすく刻むが、これがなかなか手間だ。もらったイギリス製は信じられないほどのうすさで、機械で鰹節のように削らなくては不可能だ。そのほとんど透明に近いほどのうすさの皮になっている点も美味しさの秘訣であったと思う。筆者も包丁の使い方が慣れて、それなりに素早く刻めるようになったが、包丁は鉛筆や筆と同じで、器用な人ならすぐにこなせる。そして、より挑戦心の旺盛な人はある素材をどう調理して独自の料理を作るかの方向にすぐに進むだろう。当然基本は押さえてからの方がよいに決まっているから、まずは本などのレシピを参考に作り、それから何度も試行錯誤して腕を高めて行く。ところが筆者は、いつも違う種類の柑橘類を探して来て面白がって作るので、仮に美味しいものが出来ても二度と再現出来ない。これではプロにはなれない。いつか「パパレード」を作って売り出そうかと冗談で思ったことが本当に冗談のままだ。
 料理では素材が命だと言う人もあれば、調味料や作り方を工夫すればいくらでも美味しくなると主張する人もいる。素材がすべてであればそれのみで生で食べるのがよい。だが生食出来ないものは調理する必要がある。また、料理は単一の素材ではなく、別の素材と組み合わさってより効果を上げることが普通だ。そのため多くの素材から何を選んでどう組み合わせるかは無限の可能性があるが、やはり相性があって、そうはなっていない。滋賀県立美術館では常設展示室は3つに分かれている。一番大きな部屋がアメリカ美術を主にした現代美術、そして隣に小倉遊亀コーナー、郷土滋賀に因む作家コーナーがある。これはさまざまな美術ファンがいることを想定したもので、美術作品を素材として考えた場合、それらがばらばらに思えるのも仕方がない。少しずつ所蔵品は増えているようだが、それが最も多いのは郷土に因む作家であろうか。どの県立美術館でも海外の美術の収集はそれなりにしているが、ある程度的を絞らないと、かけ離れた素材の集まりに見えてしまう。だが、税金を使っての購入、しかも数十年単位の長い年月を睨んで少しずつコレクションを充実させて行くという息の長い道のりの中で、どれほど市民の厳しい意見に晒されつつ、よい作品を集めて展示するかは難しい問題だ。和歌山県立美術館にはフランク・ステラの大きな変形画面の絵が入口付近にあるが、滋賀にも同じような作品があって、これは現代のアメリカの有名画家であるので仕方のないこととはいえ、もう少し美術館同士が連絡を取り合うことで傾向の違う作家の作品を購入することが出来ないものかと思う。おそらくステラの同様の作品は日本の多くの美術館にあると思うが、このことを見てもいかに戦後日本がアメリカに追従して来たかがわかる気もする。ステラは悪くはないが、もっとほかにあるだろうと言いたい。また、現代美術と一言しても内容はさまざまで、ある程度素材的に近いものを揃えることもまた簡単ではない。
 先日の新聞にこの展覧会の評が載った。そこには青い光の中でのステラの絵がかかっていた写真があって、当初の予想どおりに美術館のコレクションをいつもとは違った展示方法で見せる展覧会であるその様子を確認した。だが、今日行ってみるとステラの作品はない。出口の売店で訊ねた。「会期半ばで展示替えがあったのですか」「いえ、ずっと同じままです」「新聞記事の写真で見ましたが、ステラの作品が青くて暗い空間の中で展示されていたはずですが」「??…」。まだ10日ほど前のことであるので記憶違いのはずはないが、さきほどその新聞を探しても、古紙回収に出してしまったようですでになかった。この美術館が所蔵する現代美術作品は素材的にばらばらとは言わないが、やはり広い展示室に効率よく並べるとなると、時としてどこか違和感の生ずる配置になることがある。現代美術専用の大きな美術館であれば話は別だが、地方都市の美術館では収集、そして展示出来る数はうんと限られる。それでもこの館はまだいわゆる「わけのわからない」作品を購入している方だ。それらはここに訪れる大半の人々には関心がなく、そのまま素通りする作品になっていると思う。それらの作品とは、叙情性がなく、通常の意味での色彩や形の美しさを持ち合わせていない。こうした作品は「もの派」には少なくないが、特にアメリカのミニマリズムの作家はもっと感情の移入を拒否した面があり、一見して美術品とは思えないものが多い。今回はそうした作品から7点のみが選ばれ、企画展示用のふたつの部屋の最初の方に点在して置かれた。もうひとつの部屋はそれらの作品をクローズアップ撮影した映像を、部屋の長さ方向の壁面全部をスクリーン代わりに使用して映していた。部屋はどちらも真っ暗だが、作品が展示される方はごく弱い光で各作品をスポットライトで順に照らして行き、10数分ほどで一巡してまたしばらく暗転していた。この暗転中に部屋に入った人は下手をすると床に置かれた作品につまづく。両方の部屋ともシンセサイザーを使用したゆったりとした環境音楽といったものが小さな音量で流れていて、瞑想にはよい空間が演出されていた。
 選ばれた7点はロバート・モリス、カール・アンドレ、ソル・ルイット、ドナルド・ジャッド、ブランクーシ、アンソニー・カロ、リチャード・セラだ。ミニマル・アートないし、それに近いものを選択している点で、最初から料理の素材としてよく吟味している。普段人々があまり関心を持って見ない作品を、いつもとはまるで違う展示で見せるとそれなりの効果は出て当然だ。料理で言えば、あまり誰も知らない素材を凝った調理と演出で供出することに等しい。せっかく持っている常設展示の美術作品で改めて大きなショックを与えるには、馴染みのうすい作家の、そしてより無機質的な作品である方が、会場全体を味が統一したスープにするにはつごうがよい。ブランクーシは金色のブロンズで「空間の鳥」と題され、まるで日本刀のように細長く立つ彫刻だ。チケットはこれを横にしてデザインしている。いつもよく見慣れた作品を真っ暗な中でわずかな光で見るとまた感じが違う。それにこれを何十倍にも拡大してゆっくりと縦方向にカメラを移動しながら撮影した映像を眺めていると、その流線型の面白さが再確認出来る。ジャッドの「無題」という作品は壁にかけられる3メートルほどの長さの立体作品だが、まるで細長いレールを切り取って来ただけにも見えるもので、どこが美術品であるのかわからない人が多いだろう。この横長のオブジェの上半分は青い色のアルミニウムだ。下半分は亜鉛メッキされた鉄で、途切れた状態で上半分の支持素材に見える格好になっている。高さ15センチほどのこの実物を高さ3メートルほどに拡大して映像化すると、青い部分が青い空に見え、下の不規則な模様の入った鉄の部分は水面を背景にした森の影に見える。そしてそんな映像にふさわしいゆったりした音楽が鳴っていて、広い展示室に離れた置かれた3つのソファのひとつに座って画面を眺めていると、ジャッドの意味不明の彫刻からさまざまな想念を湧き上がらせることが出来る気がして来る。
 いつもとは全く異なったこのような展示方法はソフトパッドという「アーティスト、グラフィック・デザイナー、プログラマーらの混成ユニット」が考えたものだ。今回はチラシやチケットのデザインに至るまで担当した。大阪の国立国際美術館がやりそうなことをこの美術館が手がけたことは評価してよい。展示方法を変えれば新たな話題を作り得るし、実際今日は多くの若者が訪れていた。展覧会としては成功したであろう。アメリカのような広大な国土、しかも個人主義が徹底している国から生まれたミニマル・アートであれば、本当はこのようなゆったりとした空間の中でぽつんぽつんと孤立的に展示すべきであろう。今回は努めて作品のオーラがお互い干渉し合わないようにとの配慮で展示が成されていたが、狭い国土でしかも何でもかんでも集めたがる日本では、せっかく持っている素材を生かし切れないまま、つまり死蔵同然にしていることも多いと反省すべきだ。たまには外部団体に一切を任せて新たな試みをしてみるのはいい。美術品という料理素材をいつも同じ定食として見せるばかりでは当然飽きが来る。そして一旦飽き始められた施設は急速にさびれる。美術館にいる人々が個々の作品の知識を増して系統的に作品を購入して行くのは当然の義務だが、完成してしまった箱としての美術館をどのようにしていつもとは違った展示によって話題を起こすかの役割も担っていることを自覚せねばならない時代がとっくに来ている。にもかかわらず、まだまだただ素材をぽんとそのまま放り出して見せるだけで、料理感覚がすっかり欠如していると言えなくもない。当然異論はある。今回もミニマル・アートであるから可能であったと言ってよい。他の作品ではどうするか、そんな方向性もこれを契機にどんどん実験すればよい。そのうち美味しいものが新しく出来て、それが美術館のあり方を変えて行くかもしれない。それに美術館のことだから、そんな変わった試みもきちんとレシピは作って、いつでも再現可能にするであろうし、それは別の美術館にも応用が利く財産になる。30分とかからず会場を出たが、それでも一種のお化け屋敷、あるいは食べたことのない料理を前にした楽しみに似たものがあった。やはり思い切って出かけてよかったと結論づけておこう。
by uuuzen | 2006-04-01 23:55 | ●展覧会SOON評SO ON
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