「
鉦の音を コンチキチャンと 聞く男 苦笑いして コンチキショー」、「気がかりを ひとつ退治の 一息や 早速次の がっぷり対峙」、「憧れの 焦がれる気持ち さようなら 枯れた心の 吾を見つめて」、「コローさん 美しい絵を ありがとう 心と技の 大切さ知り」
去年の秋から気になっていたことがある。嵯峨のスーパーに行くのに渡月橋を北にわたり、三条通りの北側の歩道を西に進む。お土産店が並ぶ辺りから旅館「花のいえ」に差しかかる頃、前方右手の桂川沿いの罧原堤に、先月末に撮影した今日の最初の写真の中央に見える嵯峨美大のガラス張りの大きな建物「有響館」の左手に見知らぬ塔のようなものがあることに気づいた。
以前もっと遠方の京都タワーにすぐそばに細長い塔があることが気になり、それがどこにあって何であるかをグーグルのマップとストリート・ヴューで正体を突き止めた。その頃に今日の写真の謎の建物はなかった気がする。あれば目に留まっていたはずだ。ところが今日ストリート・ヴューの最初の2008年にはもうあることに気づいた。スーパーにはいつも夕方の6時頃に行く。冬場は特に西日に照らされて東方の建物はくっきりと目立つ。その様子を眺めるとコローがイタリアで描いた風景画の建物を連想する。その絵の中の建物の壁は陽射しでとても明るく、後のキリコの絵画を思い浮かべもする。コロ―とキリコでは全然共通点がないようだが、コローがイタリアの遠景を描いた建物には憂愁は宿っている。それは古代ローマを偲ばせるからで、キリコはコローが漠然と感じたことを生涯にわたって呪縛されたと言ってよい。それはともかく、謎の建物がいつ出来たのか、また何であるのかと家内と言い合うと、筆者よりも視力のいい家内は「有響館」からさほど遠くないはずで、また建物に青と黄色の斜めの線があることを指摘した。筆者はそれが見えないことを言うと、パソコン画面の見過ぎとたしなめられた。2月上旬に今日の最初の写真を拡大しながら、「有響館」からどれほど奧にあるかを推定すると、謎の建物の大きさによるが、遠くて数百メートルと踏んだ。そしてグーグルのマップで撮影位置から「有響館」までを直線で結び、その線からどれほどずれているかを考え、どうも「牧野邸」と記される梅津の空き地に建ったはずの新しいホテルではないかと考えた。グーグルのマップはリアル・タイムの画像ではなく、たいていは数か月前のものが最新で、その数か月で建物は建つので、筆者が気になった建物はグーグル・マップには載っていないと考えた。それでともかく梅津なら歩いて行っても近く、今日は久しぶりに罧原堤を散歩のつもりで下流に向かった。そして「有響館」のそばに来た時に謎の建物が見えた。それが2枚目の写真で、アパートの屋上の給水塔のような構造物であることがわかった。拍子抜けした。
家内が言った青と黄の斜めの線はなく、筆者のほうが視力はいい。間近で見ると貧弱で、なぜ渡月橋近くからは雄大に見えるのか。夕方近い日差しで照らされてより鮮やかに見え、また周辺に同じ高さの建物が「有響館」を除いてはないからだ。これと似たことがある。SNSで「盛る」行為だ。写真は特別見栄えのいいものを使うこと以外に、女性なら化粧でいくらでも「盛る」ことは出来る。画像ではいくらでも実物より化けることが可能で、そのことをみんな知りながら、見栄えのいい写真を本質と思い込む。それで留めておけばいいものを、写真の人物と会いたいと思わせるのがSNSで、投稿者はそのような心地にさせることを意図して「盛る」。ところが実際に会うとたいていはがっかりする。妄想が間違っていた現実を突きつけられ、騙された自分に立腹もするだろう。そうならないおめでたい人は、それはそれで幸福だ。「盛る」という虚飾を剥いでなお魅力ある人は確かにいるが、そういう人はSNSで目立ちたいとは思わない。芸能人はすべて遠目に見るべきものだが、SNSは誰でもそれと同じ存在になれるような錯覚をもたらした。罪なことだが、SNSで自尊心を満たされるならばそれはひとつの病気を癒す力と言える。ただし筆者はそういう病人にはあまり近づきたくない。コローに話を戻すと、美しい女性や風景を描く彼の絵画を理解しない人は「きれい事」と言うかもしれない。きれいな絵具を使ってきれいな女性を描くと誰でもコローの美人画が描けるかのようだが、絵のわからない人の考えだ。コローの美しい絵画は絵が美しいというよりもまず描いたコローの心が美しい。それを勘違いして、美人を写実的に描くと美しい絵になると考える人がいる。それこそ「きれい事」だ。ネットに写実の絵を投稿する人がいて、ヤフー・ニュースでよく紹介されるが、筆者はそれらに感心したことがない。写真そっくりに描くことは手先が器用な人ならば誰でも出来る。一方で出鱈目な空想本位で描く人がいるが、彼らの絵もまた大部分はどうでもいいもので、進歩も望めない。かように真に美しい絵画は困難なものだ。美しい心とはどういうものを言うのか、またその心があってそれを絵で表現する技能はどうすれば得られるか。もちろん才能を磨き続けることが前提だが、それをして多くの人を深く感動させる作品が生まれるとは限らない。遠目に謎めき、期待を膨らませる存在は、間近で確信すると平凡かそれ以下である場合がある。おそらく夜空に輝く無数の星もみなそうに違いない。スターと呼ばれる名優もそうだ。本当に内面から光っている人はあまり目立たないものだ。先ほど改めてグーグル・マップで「有響館」付近を調べると、以前は気づかなかった謎の建物が見える位置があることを知った。それが今日の3枚目の写真だ。やはり謎の構造物はさして風情がなく、遠目より小さく見える。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する