人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●『ワンコインコンサート 佐山裕樹(Vc.)を迎えて』
(からむし)の 求めし束の わずかさに 翁の白き 顎鬚思う」、「老人が 髪黒く染め 若作り 顔の皺数 齢隠せず」、「繰り返し 聴く根気なく 暇もなく 音楽知らず 必要もなし」、「かしこまり 座席に着いて 居眠りを 演奏会の 役目いろいろ」



●『ワンコインコンサート 佐山裕樹(Vc.)を迎えて』_d0053294_14204441.jpg
図書館に本を予約したことを7日に書いた。その本の貸し出し可能を知らせるメールが8日に届き、筆者の思惑どおりに事が運ぶことになった。つまり早速8日コンサートのチケットを1枚予約し、9日の午後に自転車で西京図書館に行って本を借りた帰り、上桂の山田分かれの交差点角にあるセブンイレブンでそのコンサートのチケットを購入した。ネットによればコンビニで買うと手数料が110円必要とあったのに、500円のみで済んだ。発券してくれた女性店員はマスクをしているので顔の下半分はわからないが、活発で愛想がよく、きっと美人だ。それはともかく、10日は自転車でバロックザールに行き、コンサート後に西京図書館に本を返却しに行った。ごくわずかな箇所を確認したかっただけで、1日で返却出来た。それも思惑どおりのことだ。この2週間少々は、その本とバロックザールでのコンサートが気になっていて、ふたつの用事を同じ日にこなせた。どちらがついでかわからないが、どちらも筆者には初めての経験だ。借りた本は2500円で買えるが、毎日のように本は届くので、わずかな調べものとわかっている場合、そして図書館にあれば、借りることにする。一方バロックザールは創立30周年とのことで、なるほどそれくらい経つ。30年経って初めて訪れた。音楽はレコードやCDで楽しむことが中心になっていて、コンサートに出かけるのは数年に一度だ。その程度のクラシック音楽ファンで、日本の演奏家についてはほとんど知らず、今回のコンサートのように若手となると興味もほぼない。今回は「市民しんぶん」の西京版で家内が今月はバロックザールで500円コンサートが二度あるとの記事を見かけた。それならばいい機会と思ったまでで、その新聞を見なければバロックザールに相変らず縁はなかった。先日書いたように同ホールに勤務するSさんとたまに「風風の湯」で話をするので、バロックザールとの縁はわずかに生まれていたが、3000円から5000円ほどで日本人演奏家のコンサートに行くつもりはない。全200席で、500円では満席で10万円だ。これではホールの利用料にも満たない。よくぞ500円で企画したと思う。一昨日つまりコンサートの翌日に「風風の湯」でまた出会ったSさんによれば、10日の演奏は190席ほどが売れたそうだ。24日のヴァイオリンは家内と出かけるつもりであったが、完売したと言う。また500円コンサートが企画されるかどうかだが、Sさんの采配にもかかっているだろう。筆者は1000円までなら行きたい。今回は「市民しんぶん」の影響が大で、奏者の顔写真の威力が大きいとSさんは言う。
●『ワンコインコンサート 佐山裕樹(Vc.)を迎えて』_d0053294_14210138.jpg 半分ほどは地元住民と思うが、筆者の見たところ老夫婦が目立った。彼らが普段どれほどクラシック音楽に馴染んでいるかはわからないが、500円であれば行ってみようと思うほどには関心がある、つまりバロックザールは存在が認識されている。そういう人を10倍の料金でも来てもらうのが理想だが、夫婦で1万円となるとよほどの音楽ファンか金持ち以外は無理だ。そのことが欧米ではどうかとなれば、やはりクラシック音楽をコンサートで楽しむ人はごく一部と思ってよいだろう。となると京都市内の辺鄙とも言える上桂に200席のクラシック音楽専門のホールが常に満席になるのは難しいことは明らかではないか。そしてそういう完売しないコンサートを無駄と断言する人は大勢を占めるだろう。だが芸術は元来無駄で贅沢なものだ。500円どころか無料でも行かない人は多く、5万円出してでもぜひ行きたい人もいる。人によって価値感は異なり、好きな人だけが行けばよい。そうは言ってももう少し裾野を広げたいのは奏者もホールの運営者も同じ思いのはずで、それで今回は500円で企画された。これで満席にならねば、無料でもそうであるはずで、その程度の一般人におけるクラシック・コンサートの認知度だ。さて筆者はどういう顔をした人が何を演奏するかという前知識を得ずに出かけた。ホールに入った時はほとんど席が埋まっていて、前から3,4番目の中央通路に接する左側に座った。奏者は目の前で、絶好の席だ。Sさんから同ホールは弦楽器の響きが特にいいと聞いていたので、チェロとヴァイオリンのふたりが選ばれたと思うが、どちらも同ホールで数年前に新人賞を獲得している。同ホールとしてはせっかくの縁ある才能に演奏の場を提供しようとの思いだ。チェロの奏者はピアノの伴奏者とともに東京から前日にやって来て、前日は通して練習をしたそうだ。因みに24日のヴァイオリン奏者は京都在住と聞いた。一般にはヴァイオリンのほうがチェロよりもよく知る曲が多きて華やかだが、チェロ奏者に国際的に有名な奏者は少ないと感じる。女性はジャクリーヌ・デュ・プレ、男性はヨーヨー・マやミッシャ・マイスキー、古いところではパブロ・カザルスやピエール・フルニエくらいしか思い浮かばないが、ヴァイオリンよりも低音で渋い味わいのチェロの音色は高齢者向きかもしれない。そう言えば家内の中学生からの友人で音大出のKさんは昔チェロを弾き、その後フルート、高齢になってからはオカリナを音楽仲間の集まりで吹いている。音楽を聴くだけではなしに、演奏を楽しむ人は案外いるもので、そのことで人生に潤いを見出している。またそういう無名の音楽ファンの上に有料コンサートを開く若手、さらに上にその先生、ピラミッドの頂点に前述の巨匠たちがいる。クラシック音楽畑ではないが、筆者は昔からTZADIKレーベルのエリック・リードランダーが気になっている。
●『ワンコインコンサート 佐山裕樹(Vc.)を迎えて』_d0053294_14213043.jpg
 クラシック音楽は無限にあるので、よほどの音楽通でも一部しか知らない。無限というのは、同じ曲でも演奏者によって解釈が異なり、あるいは作曲家が別ヴァージョンをいくつも書く場合もあるからだ。クラシック・ファンは好みの曲のある演奏者による演奏のある部分に特に魅せられ、その部分を聴きたいために全曲を聴くことが多いのではないか。名曲と知っていてもバッハのヨハネ受難曲を毎週何年も聴き続ける人はまあいないはずで、誰しもわかったつもりになって別の曲を楽しむ。この「わかったつもり」は仕方のないことだ。そうして踏ん切りをひとまずつけて別の曲を聴き、何年かしてかつての「わかったつもり」の曲を改めて聴いて新鮮な驚きを覚え、また「わかったつもり」になる。「わかったつもり」は人生そのものと言い替えてよい。音楽は形のないものであるから、なおさら「わかったつもり」になって次の興味の対象へと心を移す。そうしなければ精神を病むだろう。「わかったつもり」はいわば「贋の感動」で、それはけしからんと主張する人があるだろうが、では「確かにわかった」とはどういうことか。禅僧の悟りのようなそんな心の状態を否定はしないが、筆者が言う「わかったつもり」はある時点で「確かにわかった」と思い、その対象から一時離れることだ。ひとまず離れない限り、次の出会いはなく、作曲家も演奏者も聴き手もある時点で「わかったつもり」になるしかない。一方「わかったつもり」で何事も動いているならば、この世は「いい加減」ということになるが、実際そうだ。「いい加減」の部分を内蔵するゆえにある曲の解釈が無限に可能となる。「いい加減」は演奏者に歴然とある。日によって人間は気分が変わり、会場にいる客のちょっとした動きで演奏が左右されることもある。レコードは何度聴いても同じ音なので、そこには「いい加減」はないが、聴き手は心がふらつくのでレコードを「いい加減」に聴く。つまり、「いい加減」な作品を「わかったつもり」で次々に経験するのが芸術の受け手で、それでうまくかどうかは別にして世界は回っている。繰り返すと、音楽における「いい加減」さ加減は、同じ楽譜による演奏でも指揮者あるいは伴奏者、そして使用楽器によっても違って来ることからも真理であり、またその「いい加減」な演奏がどの演奏よりも優れる可能性を持っている。それを名演と呼ぶが、クラシックの演奏家が生涯を賭けて望むのはそれだ。また名演は聴き手に必ず伝わる。「いい加減」の中でうまい具合に発信と受信がマッチするからだ。名演は演奏者も聴き手も「わかったつもり」になることに支えられている。人生とは「わかったつもり」になることにほかならず、その思いが多いほどに幸福で満ち足りる。掴もうと思うとすっと逃げて行くようなかすかな真理に対しては、「わかったつもり」になるしかない。
●『ワンコインコンサート 佐山裕樹(Vc.)を迎えて』_d0053294_14270026.jpg 座席に着く前に他のコンサートのチラシの束と本コンサートの奏者と演目を記した紙の入った袋を手わたされた。それを先ほど確認した。演奏の大半を筆者は目を閉じて聴いた。そして数分は眠ったと思う。どの曲も初めて聴き、よく知る曲のように演奏の次の音の予想がつかなかったが、ホールの響きのよさは最初からよくわかった。最初に演奏されたのはリヒャルト・シュトラウスのチェロ・ソナタ作品6で、筆者はこの曲のCDを持っておらず、今はYouTubeで同曲を聴きながらこれを書いている。3楽章で30分ほどで、当日の演奏曲では最も長い。R.シュトラウスは交響詩で有名で、オペラ作曲家でもよく知られ、20年ほど前か、日本で『サロメ』が上演され、サロメ役の女性が一瞬全裸になるというので大いに話題になった。交響詩では例の『ツァラストラ……』が特に有名で、ザッパも引用して演奏した。交響曲では『アルプス交響曲』や『家庭交響曲』をNHKのFM放送で何度か聴いたことがあるが、ドイツの作曲家らしく重厚で渋い印象があり、さらに絵画的と言えばいいか、世紀末の絵画を思わせる。それに関して一昨日はSさんとしばし語った。前述のようにクラシック音楽ファンは一部の音楽しか知らず、また日本ではバッハ、ベートーヴェンの崇拝者が圧倒的に多く、彼らはその立場で他のクラシック作曲家を下に見ることがしばしばある。もちろんベートーヴェン以降のドイツ音楽やフランス音楽もそれなりに聴いているが、先入観があって他者にはそういう音楽が絶品とはあまり言わない。それでたとえば本コンサートを聴くクラシック音楽ファンは、なぜベートーヴェンを取り上げないのかと不満を言う。筆者はベートーヴェンよりもブルックナーの交響曲のほうをより楽しんで聴くが、ワグナーもブルックナーもベートーヴェンから出て来たので、やはりベートーヴェンが最大という理屈はわかるが、個性は別であって、どの個性を好むかは聴き手の自由だ。ベートーヴェンの時代にはあり得なかったものがワグナーやブルックナーにあり、さらに後のシュトラウスの時代にもそれは言える。何が言いたいのかと言えば、ベートーヴェンの時代と現代は違うということで、ベートーヴェン以降の音楽の歴史に筆者は関心があるということだ。それにとどまらず、同時代の他の芸術にも理解を示さなければ、ベートーヴェンの真髄も一部しかわからないと思っている。他の芸術とは文学や美術だ。Sさんに話したが、筆者は10代後半にベートーヴェンの時代のドイツの美術を詳しく知りたがった。それで先に書いたシュトラウスの音楽が絵画的と思うことは間違いではない気がしている。そしてベートーヴェン時代よりも現代に近づくにしたがって音楽と絵画の親和性が深まったと言ってよい。そこにはフランス音楽の影響もあるだろう。
 ベートーヴェン時代の美術は「ドイツ・ロマン派」で代表されるが、そこには文学との関連が無視出来ない。30年ほど前に読み始めて放り出したノヴァーリスの『青い花』の背表紙を横目に最近ハイネをまた思い出し、その全集を日独双方で揃えた。それはベートーヴェンの音楽の理解に少しでも近づきたいという思いからではない。単にハイネ自身に興味があることと、また大好きなシューマンとのつながりを歌曲を通じてよく知りたい思いがあるからで、もっと言えばハイネのユダヤが前述のエリック・リードランダーやTZADKレーベルの主宰者のジョン・ゾーンの音楽にどう影響を及ぼしているかをあれこれと想像したいからだ。このように芸術はみな関連していて、ベートーヴェンの音楽のみ崇拝する人は筆者は苦手だ。話を戻して、本コンサートを聴いた自称クラシック音楽の熱烈なファンが、演奏者に向かってなぜベートーヴェンを演奏しないのかという質問すれば、それは失礼かつ愚かだ。チェリストの佐山裕樹さんはさまざまな思いから演目を決めたはずで、提示された音楽に対して感想を述べるべきだ。ところが筆者はどの曲も初めてで、聴きどころがわからない。ただしそれもこうしたコンサートの効力でもあって、認識を新たにすればそこからCDを買ったり、YouTubeを見たりする。簡単に言えば教育的効果だ。そのような殊勝な考えを持つ聴き手がどれほどの割合でいるかとなれば、それこそ興味のない人が無意味と言うほどに少ないだろうが、こうして筆者が書く程度には効果があり、筆者はそれを無意味とは思っていない。また改めて聴こうという気を起こさず、演奏の大部分の時間を眠っていたという人もいるだろう。それは眠りを誘うほどに心地よいという効果があったことで、やはり無駄とは断言出来ない。筆者は最初の曲の冒頭の音の響きのよさに感心し、またそのメロディで同曲を決して忘れないという経験をした。これは大事なことだ。最初の一音で30分ほどの曲の何がわかるかと言われそうだが、実はそうではない。調性音楽は最初の音との関連で続く音が繰り広げられる。つまり極限に煮詰めれば最初の一音になると言ってよい。人間で言えば初対面の第一印象だ。それがよければ後の対話は心地よいことは約束されている。またその人間の第一印象はレコードではよく知る演奏者の写真から予め頭に入っているが、本コンサートでは舞台の下手から佐山さんとピアノの百瀬功汰さんが前後になって出て来て、所定の位置に着いた時に観客全員が彼らに注目した。どちらも黒のズボンに黒のシャツで、クラシック音楽界では今は制服となっているその姿に納得しながら、筆者はふたりの顔に視線を移した。知的であるのは言うまでもない。ただし筆者は彼らにすればクラシック音楽音痴で、当日演奏された曲についての詳しい感想を書くことが出来ない。
 当日は次にチャイコフスキーの『6つの小品 作品19』から第4曲の「夜想曲」が演奏された。7,8分の演奏であったと思う。これで筆者はしばし眠りに落ちた気がする。その後ふたりは一旦舞台袖に下がり、調弦の音が聞こえていた。3曲目はコダーイの『無伴奏チェロ・ソナタ』から第1楽章でこれも初めて聴く。コダーイとはなかなか渋い選曲だ。紙1枚の説明書きに佐山さんの文章がある。「……チェロの調弦を普段の「A線・D線・G線・C線(高い音の順)から「A・D・Fs・H」と下2本の弦を半音下げます。弦を緩めることにより、普段よりも更に楽器全体が響く感じがしますので、半音下げる指示のあるこの曲ならではの響きをご堪能ください。」東欧の作曲家コダーイはバルトークと同世代で、20世紀に入って民謡の採譜を積極的に行なった。バッハやベートーヴェンからつながるドイツ音楽ではワグナーが半音階を積極的に作曲に使ったが、東欧の民謡はそれとも違って独特の旋律を豊富に持ち、また実際は12音に完全に含まれない微妙な音があるのだろう。クラシック音楽を西欧音楽とも日本では言うが、そこに東欧の要素を持ち込んで西欧音楽の伝統を豊かにしたのがコダーイやバルトークなどで、佐山さんがコダーイの曲を選んだのは、かなり穿って見れば日本人向けということが出来るだろう。日本にも民謡があるからだ。ただしそのことをここで立ち入ると話はますます取りとめのないものになる。ヨナ抜きの旋律や沖縄の民謡などを下敷きにして交響曲のような大きな曲がこれまで書かれて来たかとなるとたとえば武満徹やTV畑で活躍した冨田勲などがいるが、日本に根強いベートーヴェン崇拝者は彼らの曲をまともに聴かないだろう。そこでバロックザールで演奏される曲はクラシックと定められていることにひとつの疑問ないし不満が起こる。どこまでがクラシック音楽であるかとの規定は困難であるからだ。コダーイは20世紀の作曲家で戦後まで生きた。西欧音楽に東欧も北欧もロシアも大いに寄与して20世紀の現代音楽が生まれて来るが、そこに日本の、あるいは韓国の尹伊桑など、現代のアジアの作曲家の系譜もあって、現代音楽というジャンルがある。そこにたとえばTZADIKレーベルの現代ユダヤ音楽も接していて、音楽好きな筆者は聴きたいものが山積し、正直な話、日本のクラシック音楽演奏家に格別な関心はない。それは作曲家と演奏家の壁を感じてもいるからで、古典の名曲であれば世界的な巨匠の演奏を聴きたい。ただしそれは自宅のステレオで鳴らすレコードやCDであって、ホールの音の広がりは体験出来ない。いくら大金を積んでも再生機器ではそれは得られず、生演奏の場は永遠になくならない。当日演奏者は客に向かって曲の紹介をすべきかとSさんに訊き、Sさんは語りは一切不要、演奏のみでよいと伝えたそうだ。同感だ。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する

by uuuzen | 2022-02-13 23:59 | ●その他の映画など
●「田舎でも 住めば都と 言う... >> << ●「いつの間に 建ったか知らぬ...

時々ドキドキよき予告

S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28
以前の記事/カテゴリー/リンク
記事ランキング
画像一覧
ブログジャンル
ブログパーツ
最新のコメント
言ったでしょう?母親の面..
by インカの道 at 16:43
最新のトラックバック
http://venus..
from http://venusha..
ファン
ブログトップ
 
  UUUZEN ― FLOGGING BLOGGING GO-GOING  ? Copyright 2023 Kohjitsu Ohyama. All Rights Reserved.
  👽💬💌?🏼🌞💞🌜ーーーーー💩😍😡🤣🤪😱🤮 💔??🌋🏳🆘😈 👻🕷👴?💉🛌💐 🕵🔪🔫🔥📿🙏?