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巴さん 仲よき人は 江本さん ふたりの子の名 もとえさん」、「干支を訊き 年と相性 知ろうとす 仲人絶えて 出会いのアプリ」、「アプリオリ 知らぬ娘は アプリ檻 何でも済まそう スマホマゾッホ」、「スマホこそ アプリオリとの 新時代 次は体に 埋め込みスマホ」
グレタ・ガルボの名声を知りながら、その映画を見る機会がなかったが、先月末にヴェルディの『ラ・トラヴィアータ』を取り上げた2週間前は彼女が主演したDVDを入手した。WIKIPEDIAによれば初の映画化は1921年のサイレント時代だ。今のところそれを見るつもりはない。ガルボが主演したのは1936年、当時彼女は31歳で、椿姫ことマルグリット・ゴーティエの設定された年齢より5,6歳年長であった。筆者が子どもの頃に耳にしたのはガルボの「絶世の美女」という評判であった。どういう女性の顔が好みであるかは人さまざまで、それはそれとしてなお「絶世の美女」となれば、ある程度実物は特定されると思う。ガルボの活躍した時代では彼女がその称号を得ても当然という気がする。彼女は同じく「絶世の美女」とされてよいイングリット・バーグマンと同じスウェーデン人で、1990年、84歳で死んだ。バーグマンはガルボより10歳若く、8年早く死んだ。またガルボは1941年、36歳で映画界から去り、その点で原節子に通ずるが、原は42歳まで映画に出演した。ガルボはハリウッド嫌いで人間嫌いでもあったとされる。その孤独を愛する雰囲気は『椿姫』からもよくわかる。マルグリットは肺結核で死ぬので、ガルボにはぴったりの役であった。ただし、やはり彼女は少々老けていた気がする。女性は25歳と31歳ではかなり差がある。そこで25歳のガルボが本作に出演していたことを想像すると、彼女のクールな印象は同じで、あまり大差はなかったかとも考える。ガルボが抜擢されたのは物静かな美女であることのほかに、堂々たる貫禄と知的な雰囲気を持っていたからに違いない。つまり高級売春婦の中では飛び切り目立つ役柄を演じることが出来るだろうとの監督の読みだ。いつの時代も美女はたくさんいるが、荘厳さと知性を持ち合わせることは稀だ。前にも書いたが、筆者は賢い女性が好きで、ここ2,3年はTVのコメンテイターである中林美恵子さんがいいと家内に言い、彼女が出演すると手を止めて見惚れる。筆者が有名であれば彼女と話をしたいが、まあ言うだけはただだ。話を戻して、筆者はガルボには欲情しない。好みの顔ではなく、また楽しい女性とは思わない。それででもあるが、本作は冷静に見ることが出来た。そしてガルボの演技に思わず唸る場面がいくつかあった。本作によってガルボは「絶世の美女」と呼ばれるようになったのだろう。本当にそう呼ばれたのかどうかは知らないが、ガルボが引退したのはマルグリットの夭逝を精神的になぞりたかったためかもしれない。
ガルボが30半ばで引退し、経済の心配なしに余生を送ることが出来たのは、一作の映画でよほどの大金を得たからだろう。それほど映画は大ヒットし、世界的名声を誇った。早い引退は原節子と同じく、若くて美しいイメージの永遠化に貢献した。さて本作はアレクサンドル・デュマの息子の小デュマの小説を元にし、ヴェルディのオペラとは異なる部分が少なくない。小説は1848年に書かれ、パリを舞台にする。本作は冒頭で1847年のパリでの物語であることが謳われるが、小デュマは交際していた実在の高級娼婦マリー・デュプレシをモデルに小説を書いた。WIKIPEDIAによれば彼女はノルマンディーの行商人の娘で、不幸な生い立ちという身分にそぐわない気品と美貌、教養があったとされる。そういう人物はたまに出て来る。男なら出世して歴史に名を遺すが、女は男に頼るほかなく、また配偶者を見つけられなければ日の当たらない仕事をするしかなく、嫌々ながら娼婦になる場合もある。美女の娼婦であれば人気者になり、ちやほやされる間にますます気楽な生活を選ぶ。ただし知性と教養が豊かであればそれ相応の男の目に留まる。マリーの場合は小デュマが魅せられた。それで彼の筆にかかって永遠に名を留めることになったが、その名声のきっかけはヴェルディのオペラだ。ただしオペラは庶民には敷居が高い。そこで映画時代になって本作が世に出たが、本作の音楽担当者はヴェルディのオペラを無視出来ず、冒頭やクライマックスでは先月末に筆者が取り上げたアリアの最も印象深い部分を使う。またヴェルディの名前は冒頭のタイトル・ロールには記されないが、本作を見る人には自明の理であることと、メロディの部分使用は著作権を侵害しない時代であったのだろう。ヴェルディも最初はオペラの舞台を小説と同じ現代のパリに設定したが、イタリアでは評判が悪く、18世紀の物語に設定し直した。教会から現在の社会の暗黒面を糾弾しているように受け取られる可能性があったからだろう。ところで知性と教養があり、美女であることと、貧しい出自とはあまり関係がないと思う。金持ち生まれでも下品な女はいる。むしろ慎ましい育ちのほうが美しい女性を輩出するのではないか。ただし19世紀半ばでは女性が男に伍して知性で名声を博すことはよほどのことがない限り無理で、結婚して家庭に収まるか、独身の労働者になるか、仕方なしに金持ちに囲われるしかなかった。これら3つの方法のうちの最後はヴェルディのオペラの題名のように「道を踏み外した」生き方で、裏社会に生きることだ。小説家は世界の表も裏も描くことが義務であるから、小デュマが高級娼婦と交際したことは不思議ではない。女に美貌、知性、教養があれば知識人は喜んで接近する。小デュマとマリーの関係が『椿姫』に描かれるようなものであったかどうかだが、マリーは25歳で死んだので重なる部分は多いだろう。
本作はマルグリットは自分の死期がそう遠くないことを知っている状態から始まる。それゆえ彼女が享楽的な暮らしをしていると納得も出来る。どうせ短い人生なら、贅沢三昧して生きたいと思うことは、ある意味自然だ。そう思う彼女は自分の価値は若い時だけで、30,40代の年齢になれば男たちは別の女を口説くことを知っている。また自分がそのような年齢になった時、どういう暮らしをしているかは友人の女性たちを見ればよい。本作では花屋を経営しているプリュダンスという年配女性がマルグリットの友人として登場する。彼女は陽気で、男の扱いをよく知っていて、昔は娼婦であったのだろう。おそらく若い頃にパトロンをつかみ、店を経営するほどには金を貯め込んだ。そのため彼女はマルグリットに忠告する。いつまでも若くはないので、少しでも早く金持ちをつかまえて落ち着けと言う。これは至言で、この教訓的言葉が本作の最も言いたいところと言ってよい。それは表向きの言葉、つまり常識であって、マルグリットも本心ではそれはよくわかっている。ところが真に好きになれる男はおらず、また金のために身を売っているとはいえ、金の亡者になり下がりたくもない。これは心が虚しいという状態だ。金品の贅沢は切りがない。そのことを彼女は早々と知り尽くしている。一方、疲れやすく、命は長くないことをかすかに感じている。その日を楽しく過ごせればそれでよしと刹那的になるのは無理もない。マルグリットが本作で描かれるようにロシアの男爵ヴァルビルの情婦となってロシアに戻れば、それなりの贅沢な暮らしは保障されるが、彼女はパリを離れたくはない。それに男爵を心底好きでもない。そういうところに若くて純心な男アルマン・デュヴァルが現われる。彼は歌劇場でマルグリットに一瞬で魅せられる。それは珍しいことではない。若い時代はなおさらいつどこでもそういう出会いはある。マルグリットはアルマンがさほど裕福ではなく、人生はこれからという身分を知りながらアルマンの愛に心動く。それは高級娼婦としては落第で、プリュダンスには考えられないことだ。彼女は老いても毎日馬鹿騒ぎを友人らと楽しんでいる。それには金が欠かせず、若くて人気のある娼婦相手に儲ける機会がないかとうかがっている老獪さがある。実際彼女はマルグリットが死の床にある時、貸してある金を返してもらうために訪れる。友人でも表向きだけで、裏社会では打算あるのみという状態を本作は描く。それでマルグリットが病気でなく、老齢まで生きたとして、彼女がどうなるかの一例がプリュダンスだ。そこには人を感動させるドラマの片鱗もない。つまりマルグリットが夭逝するので美談として人を感動させる。小デュマが描きたいのは、娼婦にも純心さはあることだ。それは当然だが、娼婦と知ってまともな家柄の格好いい若い男が結婚してくれるかどうかだ。それはほとんどあり得ない。
プリュダンスという名前は風刺が効いている。これは英語では「prudence」で、ビートルズの曲名にもある女性の名前で、昔はアメリカでも流行ったようだ。親が「貞淑」に育ってほしいとの願いを込めた名前であるのに、娼婦になる。ところが小デュマは貞淑になる娼婦をマルグリットに設定した。それはアルマンの愛に応えるためだが、アルマンは彼女を信じ切れない。それはアルマンの父がマルグリットに密かに会い、息子にはふさわしくないので別れてくれと伝えたからだ。マルグリットはその言葉を受け入れ、アルマンにつれなく接して諦めさせる。良家の将来ある優秀な息子が高級娼婦と結婚したいと言えば、どの親でも断固反対する。その常識をマルグリットも理解している。ところがアルマンに出会って初めて男を真に愛することを知った。自分の愛は一途で、アルマンの言うとおりに娼婦業から足を洗い、宝石も売り払ってアルマンとの結婚生活の準備を整え始めている。にもかかわらずアルマンの父はマルグリットの過去を許容出来ない。これは映画『哀愁』と同じで、娼婦を経験した女性と家柄の正しい男との結婚は公序良俗に反することとされる。そうであれば、昨今流行の「パパ活」をする尻軽娘はすべて同じ程度のつまらない男と一緒になるしかない。黙っていればわからないと彼女たちは考えているだろうが、セックスした見知らぬ男の数だけ顔も心も荒み、そのことはまともな男には一瞬でわかる。世の中に天国と裏社会としての地獄があるとして、彼女らは進んで地獄に行く。そこで目覚めて天国を志向出来るかどうか。進んで地獄へ行きたがる彼女らを憐れみ、救い出そうとする男がいれば、本作のような美しい物語になるが、本作が描くように世間は許さない。ふたりだけがよければどんな状態でもかまわないと言えばそうだが、お互い親があり、親戚があり、また子どもが生まれる。そこで現実として裏社会の者同士が一緒になる。あるいはマルグリットのように大金持ちの男の愛人になる。「パパ活」女の最終目標がそれであれば、それはそれだが、そういう話にロマンはない。したがって小説にもオペラにも映画にもならない。いくらでもそこらに転がっている話であるからだ。そこで本作にまた戻ると、マルグリットが早々と病死するので純愛が昇華される。ということは、純愛は夭逝を条件にしている。もっと言えば女性は若い間だけが価値がある。それで本作の冒頭、プリュダンスがマルグリットに早く身を固めろと諭す言葉が生きて来る。それは真実の言葉だ。少し若くてきれいな間に少しでも高く男に売りつける。まるで女は物のようだが、男女ともに金持ちからは物として扱われる。それは今も変わらない。本作には現在とそっくり同じ拝金主義の世の中が描かれる。美貌も知性も教養も金に換算可能ということだ。そして金さえたくさんあれば人生の勝者と勘違いする。
マルグリットはかつて田舎で牛相手に乳搾りをしていた。その暮らしが嫌でパリに出て来たのか、あるいはやむにやまれない事情があったのだろう。本作ではアルマンと一緒に田舎にしばし遊びに行く場面がある。その資金は男爵にねだるのだが、彼はマルグリットが若い男と一緒に行くことを暗に知っている。田舎での散歩中、森の向こうに大きな城が見える。御者はそれをマルグリットを囲う男爵の所有と言う。当時はそれほどの貧富の差で、マルグリットが1か月で散財するお金はアルマンが祖父から受け取る遺産より多い。高級娼婦は真に上流社会の男のみを相手にする。そんな男爵にアルマンは経済力ではかなうはずがない。そこでアルマンがマルグリットと交際するにはお金がいくらあっても足らないことを自覚すれば関係はすぐに終わったはずだが、アルマンは世間知らずのお坊ちゃんだ。田舎に滞在中、そしてアルマンがいない時に父がやって来て、マルグリットに結婚を反対する。パリに戻ったマルグリットはアルマンに別れの手紙を書く。アルマンは落胆し、しばしマルグリットに会わない。そしてパリに現われ、マルグリットが男爵とよりを戻したことを知り、バカラ賭博で男爵からせしめた大金の札束をマルグリット目がけて投げつける。この場面はオペラにもある。その後マルグリットの容態は急に悪化し、宝石その他を友人に格安で売り払い、ほとんど無一文の状態でパリのアパートで家政婦の老婆の世話になっている。そこにアルマンの友人が現われ、やがてアルマンもやって来るが、瀕死の状態のマルグリットはアルマンに抱かれて死ぬ。アルマンはまた彼女を空気のいい田舎に連れて行き、そこで一緒に暮らすつもりでいた。彼女も田舎の暮らしがどれほど素晴らしいかを思っていた。田舎出の彼女が愛する男を見つけ、田舎に戻って虚飾を脱いで生きる夢は無残に散った。ヴェルディはこの小説に痛く感動した。自分の人生にこの物語を重ねたからだ。そしてヴェルディの新しい妻はヴェルディをよく支えた。華々しい世界にいた女性でもまともな生活に馴染めることの一例で、女性の人生は男によって大いに変わり得る。そう考えることは男尊女卑として今は否定されがちだが、家庭を持ち、子どもを産み育てる生活では収入を得ることと家事が欠かせず、その役割分担は不可欠だ。女が外で稼いで男が主夫になることは今では珍しくないが、外の世界はまだまだ男社会で、女が外で働くとあまりいいことはない。とはいえ日本では共働きでも苦しい家庭が多い。それで子どもが「パパ活」に勤しむとすれば、日本は19世紀半ばのパリ以上に酷い世の中だ。それは純愛の相手が男女ともにきわめて見つけにくく、また愛だけでは生きて行けないことだ。「若い時の苦労は買ってでもしろ」は本当だ。女性はマルグリットが願ったように、20代半ばまでに結婚するのがいいと古い人間の筆者は思う。
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