「
皐(こう)の字は 皐月のほかに 覚えあり 九皐の語句 大雅の印に」、「美の島に 雪降り積もり みな眠る 見る夢いつも 行く先知らず」、「推敲を 重ねて増える 文字の数 長編となり 超変と知り」、「わずかでも 生き甲斐感じ 生きられる 自分を生きて 後にかまわず」
今日の最初の写真は今月1日の撮影で、題名の歌にあるように、裏庭の花芽が出た状態の牡丹の枯木にみかんの輪切りを刺してメジロを誘った。雀と違って矢のように素早く鋭く飛ぶ。行動範囲がどれほどか知らないが、よくぞわが家の裏庭の小さなみかんに気づくもので、食べるものを探すために生きていると思わせられる。だが満腹になればくつろぐはずで、動物には遊びの時間が必ずあるだろう。食べることは生命維持には仕方ない。となれば生きるとは遊びと言い換えてよい。人間は仕事と遊びを分けたがるが、仕事の中に遊びはあるし、遊びを仕事にしている人もいる。筆者が裏庭で鳥に餌を与えるのは気晴らしの遊びで、鳥にとってもそうだろう。筆者が与えなくてもこれまで生きて来たし、今後も生きて行くからだ。つまり筆者は遊びで餌を与え、野鳥に遊んでもらっている。これはなかなかいい関係ではないか。それにしてもメジロのかわいいこと。写真からわかるように、胸毛の白にみかんの色が映え、メジロの喜びが伝わるようだ。雀より人懐っこく、1.5メートルまで近寄っても逃げない。写真の二羽は番だろうか。みかんはスーパーの店内や家の中にたくさんあるのに、メジロはそのことを知らず、また知っても獲得の方法はなく、ほとんどは人間が食べる。このことから筆者はお金を連想する。あるところには腐るほどあるのに、わずかな金のために人殺しをする人や、また縁がないためにホームレスになる人がいる。何でも常に偏りがあり、そこにドラマが生まれる。その中に遊び心を見出せればいいが、メジロにしても極寒のさなかに食べるものに困ると遊びの思いが湧くだろうか。食べ物を探すのに必死になり、そしてありつけなければ死ぬ。それが自然とはいえ、わずかな人がわずかに餌を与えることは自然を壊すことにはならない。そう思って筆者は餌を与えて雀やメジロに遊んでもらっている。もっともメジロに与えるみかんはごく短期間で、今年は数年ぶりだ。小粒のとても甘いみかんなので、メジロは目を白黒させて喜んでいると思う。がっかりさせたくないけれど、もうみかんも残り少なく、与えられなくなる。ほかの好物がわかればいいが、そう言えばメジロはいつも何を食べているのだろう。京都の嵐山に住んでよかったと思うのは自然がまだ身近であることだ。大阪市内では裏庭に牡丹を育て、そこにメジロを呼ぶことは不可能ではないが、きわめて珍しいだろう。もっと田舎であればもっと自然が豊かだが、車を運転しない筆者は交通の便がほしい。コロナで家に籠り切りだが。
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