「
壮麗に 飾り立てらる 神輿見て 童も知るや 祭りの意味を」、「花嫁が 実の嫁になり 子だくさん 自然のすべて 不思議なるもの」、「からたちの 棘の役割 問うなかれ 意味なきに見え すべて意味あり」、「棘なくば 毒があるかと 疑いて 飛んで火に入る 虫にならぬと」
一昨日の投稿の毬栗を見つけた後、三条通りに出るまでの間に民家の壁面とブロック塀の狭い間にからたちの木を見つけた。今日の2枚目の写真だ。刺々しいその様子は鬼除けにふさわしく、魔除けのつもりで植えられることがほとんどだろう。葉の周囲に棘のあるひいらぎも同じ意味合いがあり、節分にはひいらぎの葉のついた枝に鰯の頭を刺し、鰯の臭気によっても鬼を退散させようとする。それはともかく、新たにからたちを見つけたことで去年10月5日に広隆寺の東南角で撮った写真を使う機会が訪れた。同じ場所で1か月前の
9月5日に撮った写真は投稿済みで、見比べると実の数はかなり減っている。それでより貧弱な今日の写真は没にしようかと思っていたが、新たなからたちを発見したので使うことにする。筆者の見るところ、からたちは蘇鉄よりはるかに珍しく、めったに見かけない。全体が棘だらけで鬼退治になるのはいいが、世話する人も怪我をしかねない。それに実はみかんのように甘くないのは仕方ないとして、せめてレモンのようにマーマレードの材料になればいいがそうではないらしい。また種子がやたら多いのはすだちも同じだが、絞った汁は食用には適さない。ではなぜからたちはそんな実をつけるのだろう。棘で護るほどであれば、鳥を引き寄せるためにとても甘いのが筋ではないか。広隆寺のからたちの実が1か月で半減しているのは、通りがかった人が採っているか自然落下で、鳥は食べないはずだ。それに棘だらけで鳥は近づけない。だが植物のすべてが人間や動物に有益とは限らない。あるいは人間がまだ知らないだけでからたちの実には特有の薬になるようなものが含まれているかもしれない。花が咲いて実が出来て、その種子が鳥によって運ばれないのであれば、からたちは子孫を残す可能性がきわめて低い。それでも絶滅しないのは鬼除けに垣根として植える人がいることがひとつの理由で、あまり用のないものでも生き残れることを示して面白い。また筆者がからたちで連想するのは、貞淑の度が過ぎて男にほとんど無縁の女性だ。棘だらけの女に男は近寄らないが、たまにその棘を好む男はいる。棘まみれの防御のわずかな隙間にある笑みを得たいからで、誰かれかまわず媚びを振り撒く女よりかははるかにいい。それにしてもからたちの棘はあんまりではないか。服は破られ、手指は血まみれになる。リスト・カットする人はからたちに突っ込むのはどうだろう。サボテンの細い針と違ってずぶりと太い棘による痛みと出血具合は剃刀の比ではない。磔にされるキリストが頭に巻かれた茨の冠は薔薇とは思えず、からたちの一種ではないか。
スマホやタブレットでは見えない各年度や各カテゴリーの投稿目次画面を表示する