「
標本に ひとつどうかと 知らぬ実を 写真撮りて 地面に戻す」、「狭き道 車が通り 吾避けし 毬栗踏みし 睦月の半ば」、「そこかしこ 豆のごときの 実が散りて 節分前の コロナ鬼外」、「秋の実の 落ち着く先の アスファルト 獣はおらず 鳥も食べずに」

今日も18日に撮った写真を使う。お年玉年賀はがきの末等の小型切手シートを右京区の西郵便局でもらった後、三条通り沿いのスーパーに足を延ばそうと、初めての裏道を歩いていると今日の最初の写真の毬栗を見つけた。栗の木が近くにあるかと思って首を回すとそれらしきものはない。中身の栗はどれもかなり扁平で食べられるほどではない。それで拾わなかった。嵯峨をくまなく歩いたことがないので知らないが、かなり大きくなる栗の木は、庭に植えるならばそれなりの広さがいる。だが桃栗3年と言われ、樹高が5,6メートルにならずとも結実するはずで、写真を撮った付近の家の庭に栗の木があるかもしれない。2枚目の写真は同じ三条通りのもっと西で、地面にピーナッツ大の実がたくさん散らばっていた。最初は近くの家が節分より早く豆撒きをしたのかと思ったが、大豆ではない。またピーナッツでの豆撒きはもったいない。しばし立ち止まって頭上を見上げるとそれらしき樹木は見当たらない。100メートルほど東の公園には珍しい木があって、それに実っていたものを子どもが広い集め、地面に捨てたのだろう。実は初めて見る形で、とても軽い。ネットで調べるとヒッコリーのようだ。胡桃同様に油成分がありそうで、食べられるはずだが、生では渋いか。栗鼠なら喜んで食べると思うが、嵯峨にはたぶん棲息していないだろう。鳥は食べないらしく、今日同じ場所を見てもまだ同じようにたくさん散らばっていた。歩行中に地面につまずいて怪我をし、何針か縫った、あるいは骨折や捻挫をしたという話をよく聞くので、筆者は割合一歩ずつ意識して爪先を上げ気味で歩く。もちろん地面をよく見てのことだ。そうする気になるほどに嵯峨や太秦の三条通りは歩道が狭いか、ない。それで落ちているものに目がよく行く。筆者が子どもの頃はよくお金が落ちていたのに、大人になってからはそういうことはなく、ゴミに目が行く。路上の毬栗もヒッコリーもいわばゴミだが、人が落とした本当のゴミではなく、自然が次世代につなげようとする種子だ。それが役に立たずに本当のゴミになるのは哀れなことだが、人間の卵子も精子も大部分は役に立たずに消えて行く。それは過剰に存在するものの運命だが、ほしい人にはない場合がままあり、そこにドラマが生まれる。主婦がSNSで性交相手を募り、条件が合う男を見つけてようやく念願の妊娠をしたはいいが、条件が嘘であったことを知った後、生まれた子を擁護施設に送り、性交相手に3億円を支払えという裁判を起こしたニュースが先日あった。どういう顔をした女性なのか、見なくてもわかるし、また絶対に見たくない。

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