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●「雨降って 地固まらずに 崖崩れ ほどのよきこと 常にはあらず」
ること 避けたき詣る 天神社 雪に転びて 嬉し厄除け」、「ペット好き 人を殺して 気にするは 吾捕まれば ペットどうなる」、「一瞬で 轢き殺されて 仕方なし 命消えるは 自然のことと」、「いくらでも 代えがあるぞと 贋盛り 贋のいくらに 気づかぬ子ども」



●「雨降って 地固まらずに 崖崩れ ほどのよきこと 常にはあらず」_d0053294_16362032.jpg
電車の中でたばこ吸う男を注意した高校生が殴られて重傷、中年女が車の運転中にペットのインコにかまけて人を轢き殺し。相変らず連日酷い事件が起きる。「気〇がいに刃物」からして「気〇がいに車」で、昔は「気〇がい水」と呼ばれる酒を飲んで車を運転することはあたりまえに行なわれていたことに驚くが、車の量が少なく、人が轢き殺されることも今ほどではなかったのだろう。ともかく筆者は真っすぐに延びる車道沿いの歩道を歩くのが嫌で、それでスーパーでの買い物は松尾ではなく嵯峨に行くことにした。嵯峨にも四条通り並みの幅広い丸太町通りはあるが、車の量はたぶん100分の1ほどだ。車道と歩道の間に段差があっても車は容易にそれを乗り越え、歩行者を一瞬で跳ねる。スマホ時代になってそういう事故が増えたのではないか。ペット相手によそ見して人を轢き殺すことは近年のペット・ブームを反映しているが、その事件を報じるネット・ニュースのコメント欄に暗に「人よりペットが大事」との思いの書き込みがあり、「ペッとの唾棄」ももったない人間がいることがわかる。そういうカオス人を常に抱えるところにドラマが生まれるが、誰も悲劇が自分に降りかかることを期待していない。それで神頼みがある。また植田一夫の『雨月物語の研究』から引く。「豊雄にしても真女児にしても、秩序に反した生き方をしようとしている。自己の存在と秩序とが矛盾しない生き方が求められれば、それに越したことはない。しかし、秩序は絶対であり、そのような道を探り出すことは不可能である。……秩序と対立することで人間としての弱さを露呈することになる。それは秩序に対抗できない弱さである。また、彼らの存在の主張が自己を抑制することのできない心の弱さに堕していくことでもある。」「蛇性の婬」の豊雄は妻帯出来るほどの経済力はなく、そのことを真女児に言うと、豊雄は夫として時々通ってほしいと言われる。そこで真女児から神宝として奉納された刀を受け取るが、その行為がなければその後の物語はあり得ないかと言えば、遅かれ早かれ豊雄の行動は両親や兄が知り、真女児の正体がいぶかられたはずだ。現実の話とすれば真女児は都にいた高級遊女と思ってよい。年齢は20歳ほどで優しく愛してくれる男がいれば所帯を持ちたいと思うのは無理がない。ところが秩序からはみ出た存在の彼女は新宮という田舎では存在出来ずに排斥される。そして大坂に出た後、奈良の長谷寺近くで富子と一緒になった豊雄に出会うが、これも現実ではあり得ることだ。見栄えや魅力の点で富子は真女児の比ではない。そこで豊雄は真女児への思いが忘れられない。
 その点が「蛇性の婬」で、男が特定の女の魅力から逃れられないと思い込むことはごく普通のことだ。だがそれは妻帯していれば悲劇とならざるを得ないし、豊雄のように優柔不断ではあたりまえに周囲の者の言い分を受け入れる。植田が書くように豊雄には秩序に対抗する強さはない。豊雄が両親や兄の反対に遭っても真女児のもとに通い続けたならば、いずれ生活力のなさから関係は破綻したであろうが、真女児の恨みを買うことはなかったであろう。いずれにしても「共同体が異端として否定する性に接する心とは、一般の論理からは幼児性ということになる」と植田が書くところの豊雄に未来はなく、秩序の代表を象徴する法海和尚によって真女児の怨霊は封じ込められる。一途な愛を貫こうするする真女児が「蛇性の婬」とされるのは「吉備津の釜」の磯良と同じで、女の性は蛇のように執念深いという一種の迷信が混じった偏見ではないかと筆者は思うが、その執念深さがあって子育てにも邁進出来るのであって、愛の側面に執念深さがあることは否定出来ない。その点で言えば売春婦は別の意味での性にたいする執着の表われで、セックスが嫌いでは売春婦にはなれないだろう。なっても男から人気を得られない。さて絶対的な秩序と自己の存在とが矛盾しない生き方を豊雄も真女児も探り出すことは不可能であったが、弱さを象徴する豊雄を通じて秋成は世の非情さを描く一方、自身の文書の構成力を示し得た。それゆえにたとえば秩序の代表的人種である大学教授の植田が『雨月物語』を研究する。それはさておき、周囲の勧めから富子と所帯を持った豊雄がたまたままた真女児に出会い、形姿は富子であるのに声と心が真女児に変わっていることに気づいたのは、やはり真女児の面影が忘れられなかったためと受け取るしかなく、またそこに豊雄の優柔不断性がよく表われている。やがて他者の力で豊雄は真女児の恨みを断つことが出来るが、改心した豊雄に未来は代替可能な秩序の一駒となって、物語にするほどの意味はない。秩序に対抗しつつ秩序に矛盾しない生き方は、秋成の時代は言論の自由がない点で現代よりも困難であった。ソ連のショスタコーヴィッチもそうで、また北朝鮮や中国に同じような芸術家が現在いるのかどうかとなれば、それがわかるのはうんと先の話だ。お笑い芸人が首相と並んで笑顔で収まる写真が紹介される日本では、秩序の腐敗をおかしいと思わず、ましてやそれに対立しようとしない弱い人間が歓迎される。神からすればそのような余った作のごとき人間が混沌に混沌を重ねながら秩序の代表のような顔をする。それで人間不審になってペット好きになる人がいるだろうが、「自己を抑制することのできない心の弱さ」から交通事故を抑制できないでは洒落にならない。とはいえ放恣の言葉を知らず、自己を抑制することの意味がわからない人は多い。それは政治家や宗教家、教育者に限らない。
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by uuuzen | 2022-01-26 23:59 | ●新・嵐山だより
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