「
沓沓と 独り言する 鸚鵡見て 鸚鵡返しの ひとり暮らしは」、「見ぬふりを しつつ罵る 弱き者 肩で風切る アホは消えろと」、「混沌と 混沌とした 世で織りし 与作の妻の 秩序美し」、「三猿の たとえを守り 事故に遭う カオス抱える コスモスなりや」

昨日書いた国際ロマンス詐欺は、相手から送られて来た札束と一緒に写る黒人男性の写真を漫画家の娘がネットの画像検索で同じ写真の存在に気づいたことで、漫画家は騙されていたことを信ずるようになった。筆者は画像検察があることを知っていたが、それを試したことがなかった。そこで早速いくつか挑戦した。まずは去年9月1日に投稿した自分の写真だ。筆者の顔は比較的珍しいらしく、家内は同じタイプの顔を見たことがないと言うし、同じことはこれまでに何度も言われている。それでAIならそっくりさんを探し出すかと思ったのだ。その結果筆者以外はその自分の顔写真と同じ画像を使っていないことがわかった。また類似画像がたくさん表示されたが、これが面白い。その一覧に無名有名が混じるのはいいとして、AIは筆者のどこを見てそれらの画像を選んだのかが気になる。白髪、どちらかと言えば痩せ型、骨相、年齢などを元にネットにある画像を引っ張って来たに違いないが、アルゴリズムのパラメータを少し変えるだけでまた違った人物が表示されるはずで、また筆者の違う写真で検索してもそうなるに違いない。つまりかなりいい加減なもので、筆者のそっくりさんと言うほどの人物はいないと思える。今度はこのブログのバナーで検索すると黒を背景にしたピカチュウが類似画像として出て来たが、マニマンだけ切り取って検索すると今度はバナナのキャラクターのぬいぐるみなど表示された。それが今日の2枚目の写真だ。次にヴァレリア・ブルーニ=テデスキの顔の画像で検索すると彼女の別の写真が表示されず、同じような年齢のブロンド女性ばかりとなった。つまりAIはヴァレリアであることを認識しない。ある絵画の女性像を検索すると、同じ絵が表示されるべきなのに、全くそうではない。さらに伏見人形の恵比須の顔を検索すると、同じような笑顔の人間の顔が並んだ。AIは筆者の思惑を読み取らず、形似の規則のみで動いている。人の表情は瞬時に変わり、またいかに「自己の行動を普遍化する原則」を持っているとしても、何かの拍子に私怨を募らせることはあるだろう。聖人に魔が差す瞬間があるならば、そこに俳優業の成り立つ理由が存在する。四半世紀ほど前、ある警官が逮捕され、その見るからに極悪犯のような顔写真とは別に、勤務し始めた頃のとても温和な表情の同じ人物の同じ角度による写真が紹介された。見比べて驚いた。人は環境によってそれほどに人相が変わる。AIはそういうことまで斟酌しない。つまり今日の最初の写真で言えば類似とされる人物の思想や生活態度までをパラメータにせず、またそれは不可能でもある。

「似て非なるもの」がわからない人は多い。それで詐欺師が暗躍出来る場がある。絵画でも同じことは言える。贋作は目利きには瞬時にわかるが、騙される人のほうが圧倒的に多い。ネット・オークションでも同じで、真作と謳いながら贋作を売る業者が多いが、高額で落札される作の8,9割は贋作と見ていい。一方、真作が1、2万円で手に入ることがある。おそらくゴッホの素描の真作が出品されてもまずそれを本物とわかる人はおらず、それで今でも稀にゴッホの真作が世に出て来る。昨日書いた「自己の行動を普遍化する原則」だが、植田一夫は具体的にそれがどういうことかを書かず、ただそれを持たない者は混沌のままに生きるとするが、大多数の人が混沌に生きるかと言えば、常識や法律にしたがって秩序の中に生きる。これを「生かされている」と思って不満を抱える者はやくざになるかと言えば、やくざ社会にも秩序はある。問題はごく普通に見える人が殺傷事件を起こすことだ。それを「魔が差す」と言うのだろうが、悪魔という自己の内部にいる魔物のせいにして罪が問われないでは多くの人が困る。ところがその「魔」を精神異常ということにして、罪を軽減することがしばしば行なわれる。精神が異常であるかどうかをAIが判断出来る時代が来ればいいかとなると、それは絶対に止める必要がある。前述のようにアルゴリズムによって精神の異常正常はどうにでも操作出来るから、為政者がそのAIを手にすれば気に食わない者を片っ端から処分出来る。それをやったのがヒトラーとその一味で、そのことが今はAIでもっと密かかつ徹底的に出来る状態になったと言えるかもしれない。そういう為政者は自分こそは「行動を普遍化する原則」であると主張するはずで、そういう暗黒の世の中を上田秋成が想像していたかどうかとなれば、「貧福論」の最後に書かれるように豊臣家の治世を否定しているところから、徳川幕府大歓迎であったと言っていいが、権力に対して「見猿、言わ猿、聞か猿」主義であったかとなると表向きはそうだろうが、秩序に守られている、つまり経済的に保障されている学者や僧侶に批判的になったように筆者には思える。もちろん全員がそうではないが、「自己の行動を普遍化する原則」を持っているかに見える人々にろくでなしが混じるのは事実で、売茶翁も当時の僧侶の8,9割はそのだと思っていた。上田秋成の作品について大学の先生が多くの論文を書くが、秋成のようないわば世の中からはみ出た在野の天才を、「自己の行動を普遍化する原則」を持つと自覚する大学の先生が公平に評価出来るかとなると、筆者は少々疑問に思う。どこに属してどの立場で思いを発するかは重要だ。AIがその最も公平な道具になるかと言えば、芸術、美学を理解しない者が開発に携わる限り、ガラクタになるしかない。そして芸術や美学は定量化出来ず、永遠に自由と等価物であり続ける。
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