「
鶏の牝 朝を告げるな 卵産め 雌雄の役目 思惟の要なし」、「大盤の 振る舞い真似た 小判撒き みかん並べて 庭で鳥待つ」、「春を売る 若き女の なれの果て 秋買う男 あるはずはなし」、「ロマンスを 買えると思う 金持ちは カモにされても 鏡に見惚れ」
毎日意外なニュースがあって小説家はネタに困らないだろう。たとえば池袋で24歳のパパ活女がホテルで82歳の男性をカッターナイフで刺し殺して逮捕された事件だ。また先日殺人容疑で逮捕された夫婦は夫が44、妻が23歳で、ふたりは梯子で2階に侵入し、鈍器で金融業の82歳の男性の頭を殴ったというから、金のある高齢者は被害になりやすいのだろう。人生の先がほぼない老人から金を奪うことに若い世代は罪悪感が乏しいとすれば、ドストエフスキーの『罪と罰』に描かれたことだが、ラスコリニコフのように罪の意識にさいなまれるほどのまともな若者が減って来ているのだろう。老人から大金を巻き上げるオレオレ詐欺でも受け子が先日は14歳の少年が逮捕された。電話やネットのなかった上田秋成の時代からはとても想像出来ない、つまり「事実は小説より奇なり」と言えるグロテスクな事件が頻発し、小説の古典が意味をなさなくなって来ているかもしれない。先ほどTVでたまたま見たドキュメンタリーはSNSを利用した詐欺で、被害者の73歳の漫画家の女性は4年間に7500万円を相手の男性に振り込み、そこでようやく詐欺と気づいた。番組の最後10分ほどを見ただけで詳細は知らないが、アメリカの男優が12億円所有し、妻と別れてその半分を漫画家の女性に与えると約束し、それを実行するまでの間に金を騙し取り続けた。色気と金に正常な判断が出来なくなったこの「国際ロマンス詐欺」は増加の傾向にあるとのことだが、会ったことのない相手に数千万円も貢ぐ行為がわからない。しかし高齢のさびしい男性が若い女性の春を買うのと同じ構図と見てよいだろう。筆者が驚いたのは、その漫画家がついに相手の男優が日本に来ると言うので、慌てて自宅にソファ・ベッドを購入し、また結婚出来ると有頂天になったことだ。73歳の女性がそれなりに有名な男優から相手にされると考えることは噴飯もので、筆者は何度もその漫画家の顔を見ながら一種の恐怖を味わった。女性の男性を求める執念と言えばいいか、女は灰になるまで色気に関心があると確か瀬戸内寂聴が言ったことを思い出す。82歳でパパ活女に刺されて死ぬ例を思えば、色気への執念は男も同じで、心の病気だ。若者だけではなく、いつ死んでもおかしくない高齢者も色気に狂ってさまざまな事件に巻き込まれる。その一例は『雨月物語』の「青頭巾」にあるだろう。それはヨーロッパの聖職者によくありそうな男児への歪んだ愛を主題にする。それもグロテスクだ。73歳の女性が金と色気に血迷って大金を失う話はやはり江戸時代もあったはずだが、滑稽な物語となって誰も同情しない。
そうであればオレオレ詐欺がなくならないことはあたりまえかと言えば、普通の高齢者が子どもや孫と勘違いして大金をせしめられることは先の漫画家とは違う。その漫画家にすれば経験をネタにしてまた金は稼げるだろう。つまり勉強代と思えばいいが、一般的には晩節を汚していると見られる。『雨月物語』で女の怨念を主題にするのは「吉備津の釜」と「蛇性の婬」で、どちらも男が別の女へ移り気したことに最初の女が復讐する物語だ。前者は現在の高砂市を舞台にする。かつてこの物語を読んだ後、吉備津神社の有名な釜を筆者は見て来たのでなおさら印象深いが、前半と後半は雰囲気が変わって浮気した夫の正太郎が不幸にまっしぐらに落ち、髷ひとつの状態で妻磯良の怨霊に抹殺される。現在ならば売春婦に惚れて家を出た夫とはさっさと離婚するのが普通だが、封建時代ではそういう考えは一般的ではなかった。甲斐甲斐しく働く磯良の堪忍袋の緒が切れたのは、正太郎が一旦別れたはずの遊女と暮らすために磯良から大金を奪って逃げたことだ。吉備津の釜のお祓いのお告げによればふたりの結婚は凶と出たのに、母は器量がよくて賢い磯良が17歳であることに焦り、神のお告げを無視して結婚させた。正太郎の両親も同じで、美男子の彼の女にあまりに現を抜かす暮らしが結婚で収まると考えた。高砂の謡いもあってのめでたい結婚は最初から夫婦ともに訳ありであったとの設定で、秋成の皮肉は痛烈だ。植田一夫はこう書く。「個人を抑圧しているものの根本が、社会体制にあるとの認識を欠如しているので、社会のあり方によって人間が不当に拘束されることを、運命の支配として諦念しなければならない。磯良も正太郎も何ものかによって支配された存在である。……目的は人間が自律することによって存在する。何ものかに支配されている人間には、固有の行動がない。……このような人間には自由はないが義務もない。……磯良も正太郎も自己の行動を普遍化する原則が必要なのであるが、その必要性の自覚のないままに混沌の苦悩を味わっているのである。」支配から自由になるために人は金を欲し、そして前述のような仰天すべき事件が毎日のように起きる。だが人間が自律するのに大金は必要ではない。「自己の行動を普遍化する原則」を秋成は持っていたし、植田自身もそうだと言いたいのだ。封建社会が現代よりも個人を抑圧する度合いが強かったとは言えない。自己を顧みて最大の努力を続けるという意思を持つほどに心の自由は得られる。では普通の人である磯良や正太郎はどうすべきであったか。後者は浮気を慎むべきで、前者は離婚すればよかったかと言えば、秋成はそこまで立ち入っていないが、この物語の序を読む限りにおいて、正太郎は夫として失格だ。それで妻の暴走が止められなかった。夫の浮気は大概にしておけという妻からの脅迫物語として当時は読まれたであろう。
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