「
喧噪は ネットにもあり 画面変え キーを叩きつ 歌をこねくる」、「枝に刺す みかんほしがる 野の鳥は 袋の皮も やがて残さず」、「庭の木に みかん刺す吾 鳥を見ず 目白でなくて ヒヨドリもよし」、「極寒を 死なずに生きよ 老い雀 吾の米撒き 朝に必ず」
未明に日向灘で地震があった。南海トラフ大地震との関連を想像するが、京都市内は直下型地震の可能性はあっても津波の心配はなく、大阪ほどの被害がないことが予想出来るので、どこか他人事の思いがある。神戸の大震災や2,3年前の高槻での大きな地震からは次は京都かと不安がないことはないが、震度2,3の地震はよくあって、地殻変動のエネルギーが小出しに放出されているのかと、つごうのよいように思いが傾く。奈良や京都は天皇が長らくいた土地で、火山が近くにないことから昔の人は地震の少なさを知っていたのではないか。家内とはよくそう言い合う。先日嵯峨のFさんは大陸から離れた日本がまたくっつくように動いていることに触れ、「そうでなくても関係が悪いのに、日本海がなくなったらどうなるんやろ」と笑いながら言った。何千万年か先には日本はまた大陸と同化するとして、その頃まで国境があるかとなればそもそも人間は住んでいないだろう。そんな先の話はどうでもよく、誰しも自分が生きている間に厄介がなければいいと思っている。それで日本の一部の金持ちは海外移住する者が増えて行くのだろうが、金があっても移住先で現地の人たちと親交がなければ、さびしいというよりも意味がほとんどないだろう。もっとも彼らはそうは思っておらず、好きな土地で好きなように生きて満足するが、その満足の底は筆者には浅いように思える。文化的要素を考えるからだ。その文化も個人によってさまざまで、たとえばTVゲームや漫画があればどの国にいても一生楽しく暮らせると言う人はいるだろう。そういう人は放っておけばよい。昔ロンドンのサイモンさんと話した時、彼はたとえばイギリスに暮らす日本人がいるとして、彼らはイギリスの文化を詳しく知らないので、ある一定以上の文化レヴェルの人たちの仲間には入れないと言った。これは日本に置き換えてもよくわかる話だ。サイモンさんはたとえば英文学を取り上げて、有名な詩人のことやその作品の話になるとたいていの日本人は皆目わからず、話が先に進まないと言ったが、逆に日本好きのイギリス人が日本に長年住んだとして、たとえば上田秋成や本居宣長の話に加わることが出来るかということだ。どの国に住もうが、大事なことは文化資本で、その多寡で交際する人が違って来る。あるいは交友出来ても一定以上の親しさには至らない。そう考えると、日本の金持ちが海外移住するのは日本の文化に触れる機会が激減し、孤独に邁進するだろう。それで海外移住が長年にわたった人が老境に達して日本に戻るという話も多い。育った文化にまた包まれたいからだ。
もう一段落書く。『雨月物語』の第9篇「貧福論」は他の8篇とは異なる厳めしい感じの題名で、それもあって他篇とは違って凄惨な場面はなく、死は描かれない。そして物語に起伏は乏しく、「お金」にまつわる秋成の論が開陳される。植田一夫は『雨月物語』は全篇が関係していると言う。これは登場人物や設定した時代や場所という意味ではなく、一定の思想のもとに9篇が構成されるとの考えだ。わかりやすく言えばビートルズの『サージェント・ペパー』に似ると言えばいいが、同作はビートルズの他のアルバムの曲と互換可能な曲を含み、『雨月物語』よりも構成力は弱い。そこでむしろザッパのアルバムを思えばいいが、もっと言えば交響曲や交響詩だ。ところが「貧福論」は他篇のようには起伏に富まず、『雨月物語』からは除外すべき作であったとも言える。だが秋成はそれを承知で「論」と名づけて最後に収めた。金にまつわる話を最後に置いたのは大坂生まれの秋成らしいとされるが、「貧福論」は大坂での話ではない。それに全9篇はみな大坂を中心として四方の土地を舞台にするのに、大坂は出て来ない。「貧福論」は金を貯めることを趣味とする武士の話で、彼に同調する財貨の霊が枕元に現われて問答を繰り広げる。物語の結論を言えば金は非情なもので、また貧乏人や金持ちは前世の報いが原因ではないとする。金はさびしがり屋で多いところによく集まると言われる。「貧福論」もそのことを言うが、金遣いの荒さによってたちまち貧困に落ちるなどと常識的な意見を書く。秋成の時代の出版は必ず幕府の検閲があった。それで秋成は幕府に忖度する必要もあったが、元来秋成は安定した世の中を歓迎していた。その安定は戦後の日本も同じで、今が秋成の時代と大いに共通する点は、世間は非情で金こそすべての風潮が強いことだ。『雨月物語』の各篇は徳川幕府以前の物語として設定されているのに対し、「貧福論」は徳川幕府が始まってすぐの物語だ。金持ち礼賛の物語は起伏がないので退屈という思いと、逆に他の8篇があまりに異様なことを描くのでほっとするという意見があるだろう。それは世の中が安定すると、面白くない反面安心もする現実に即し、しかも世の中の金がすべての風潮は身も蓋もないという味気なさに裏打ちされている。またそういう世の中では凄惨な事件がないかと言えば、決してそうではなく、「貧福論」以前の8篇は徳川幕府や現代でも通ずる物語性を持っていて、「貧福論」からまた最初の篇に戻るという循環性がある。そしてその根底は金、経済の問題があるという点できわめて現代的だ。秋成は金運に恵まれず、また学問を商売の具にする者に大いに批判的であったが、「貧福論」では金持ちが全員吝嗇で卑しいゆえにそうなるという立場を取らない。そのことも現代と同じだが、日本を脱出して海外移住する者は「金こそすべて」の考えでどこまで幸福になれるか。
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